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Fatal Doll



<67>



 御山の手からふっと力が抜ける。

 剥き出しになった鷲塚への憎悪を浴びせられ、声も出せずに凍りついていた零は、どことなく虚ろな御山の眼差しを向けられておののいた。

 御山の目は、誰か別の面影を見ている。

 恐らくそれは、相楽香澄という名の女性。

 御山自身の手で殺められた、彼がかつて愛していたという人。

 零とその女性を重ね合わせ、殺意が形となったその当時を思い出したのかもしれない。

「鷲塚め──しぶとく生きていたかと思えば、私の古傷を抉っていったな。
 香澄のことを、いったいどこで聞きつけたのやら……」

 くくっと喉を鳴らした御山は、零の喉から手を引くと、青ざめた頬をするりと撫でた。

「お前の望みが叶ったようだな、零。
 鷲塚の元に帰してやろう──今度こそ、終わりにするために」

 顔を近づけ、零の耳元でそう囁く。

 そして、緊張した面持ちで立っている翔太に向き直ると、冷酷な声音で問いかけた。

「それで……どうするつもりだ?
 最後のチャンスと言うからには、失敗は許さん。
 零はお前の好きに利用するがいい。
 その代わり、確実に鷲塚もろとも始末しろ」

 感情を抑えた硬い瞳を零に向けた翔太は、御山の言葉にうなずいて見せた。

「もう一度、ファントムを使おうと思う。
 ファントムを、鷲塚にけしかける……あいつは、鷲塚を誰よりも殺したがっているから。
 零さんをやると言えば、死にもの狂いになるだろう」

 その名を聞いた途端、零は声を引き攣らせて呻き、身を強張らせた。

 零が怯える様を見つめながら、御山は冷たい薄笑いを浮かべる。

「居場所は判っているのか?
 鷲塚の反撃を食らって、逃げ出したんだろう?」

「ファントムの身柄を確保したと、さっきケータイにメールが入った。
 夜までには全て準備できる。
 鷲塚を呼び出す場所は……もう考えてあるんだ」

 翔太は人差し指で頭を軽く叩いて見せると、零をなだめるように優しく言った。

「ごめんね、零さん。
 あなたを助けたかったけど、鷲塚サンが全然思い通りにならなくてさ。
 こうでもしなきゃ、俺はあの人を殺せない」

「どうして……そこまでして、海琉を……」

 すがる物を求めるようにシーツをつかみ、零は何度となく繰り返した問いを再び翔太にぶつけていた。

「零さんも見たでしょ、さっきの?
 鷲塚サンは、あっさりとレッドゾーンを越えていく……何の躊躇もなく。
 俺は臆病だから、あんな真似は絶対にやれない。
 鷲塚サンを越えてやりたいとずっと思っていたけど、逆に自分の限界を思い知らされただけだった。
 だけど──だからこそ、あの人の存在が目障りで仕方がない。
 あの人がいなきゃ、俺はもっと楽に生きられるはずなんだ」

 唇を微笑の形に歪めた翔太は、首を傾げながら御山の顔色をうかがう。

 その瞳には、挑発的とも言えるような奇妙な光が浮かんでいる。

 御山は表情を変えずにその告白を聞いていたが、軽く肩をすくめた後で踵を返した。

「必要な準備に取りかかれ、翔太」

 短く命じ、御山は部屋の外へと出ていく。

 翔太もその後に続くと、零は一人きりで部屋の中に取り残された。

(──海琉……私のために……もう、危険を冒さなくてもいいから……)

 だから、御山と翔太が仕掛ける恐ろしい罠から逃れて欲しい。

 のろのろと手を上げ、打たれた頬に触れた零は、そのままぎゅっと拳を握り締めると、嗚咽を漏らしそうな唇を押さえた。

 口の中が切れているのか、血の味がする。

 だが、痛めつけられた躰よりも、不安に襲われる胸の方が遙かに痛む。

 鷲塚のために、何もできずにいる無力な自分が……悔しく、悲しかった。




 零の携帯電話に非表示着信が入ったのは、鷲塚が総本部事務所に戻ってから一時間経ってのことだった。

『零さんを返してあげるよ、鷲塚サン。
 あんたにこれ以上関わるのはリスクが高すぎる。
 北聖会の本家に一人で乗り込んでいくとは、さすがに俺も思わなかった』

 電話の向こうで軽薄な笑い声を響かせるのは、田中翔太。

『だけど……俺のバックが北聖会だなんて、見当違いも甚だしいけどね。
 あ、もしかして、この電話も、誰かに盗聴されてるとか思ってる?』

 その声はひどく耳障りで、鷲塚はわずかに双眸を眇めると、革張りの椅子に背を預けた。

 ふざけているとしか思えない言葉──だが、その意図は伝わってくる。

 裏で鷲塚と通じている事を翔太は隠したがっており、傍に誰かがいる事を知らせようとしているのだろう。

 それは御山なのかもしれないが、いずれにせよ言葉の選択に注意しなければならない。

 この茶番劇が、決して御山には悟られないように。

 鷲塚が合図するように指を振ると、スタンバイしていた東山がうなずいて見せる。

「零は無事だろうな?」

 何よりもまず確認──危ない橋を渡っているのは、十分に自覚していた。

 零の身柄と交換するため、鷲塚は翔太の母親と功刀の命を握っているが、それで等価の条件にならないのは百も承知している。

 翔太はともかく、御山が二人の命を大事に扱うことは無い。

 翔太との裏取引が知れたなら、御山は何の迷いも無く二人を切り捨て、零の命をも奪うだろう。

『ちゃんと生きてるよ。命に別状は無い。
 ただ……まったくの無傷かといえば、そうは言えないけどね、残念ながら』

 嘆息混じりの翔太の声は、スピーカーを通して、その部屋に集まっている者たち全員の耳にも届く。

 その途端、真那と共に戻ってきていた新堂の顔が青ざめ、隣に立つ真那もまたショックを受けたように両手で口許を覆った。

 それでも声を上げなかったのは、あらかじめの警告が効いているからだろう。

 修羅場慣れしている他の者は、表情を全く変えなかった。

「零の声を聞かせろ。話はそれからだ」

 鷲塚が告げると、翔太は逆らうことなく要求に応じる。

「ああ、ちょっと待ってね。もしかして、零さんの声聞くの、久しぶりなんじゃない?」

 いちいち癪に触るしゃべり方だったが、鷲塚は沈黙したまま待った。

『──……海琉? 海琉なの?』

 電話の向こうから、信じられないとでも思っているような零の声が響く。

 不在の時──零と離れていた間に感じていた冷たく空虚な感覚が、不意に圧倒的な質量となって鷲塚の胸に差し迫ってきた。

 鼓膜に触れた零の囁き。

 零が死んだと聞かされた時から押し殺してきた何かが弾け、一瞬頭が麻痺したように動かなくなる。

「零……」

 とっさにその名を呼ぶ事しかできなかったが、零の震える声が再び届いた瞬間、鷲塚は我に返っていた。

『海琉……もう、いいよ。
 私は平気だから……翔太君にも、結構親切にしてもらってるから……。
 だから……助けようなんて……もう考えなくていい──』

 無理をして明るく気丈に振る舞おうとしているのか、不自然に言葉を途切れさせる。

 最後は言葉にならず、声を詰まらせた零は、嗚咽を堪えようと息を喘がせた。

 泣き声をたてないように、何度もせわしく息を吸い込む。

 いったい、どれほど苦しい思いを強いられているのか──。

 握った携帯電話が軋むほど力を込めた鷲塚は、双眸を閉ざすと、零の耳元で囁く時のトーンで語りかけた。

「零、よく聞け──すぐに迎えに行くから、大人しく待っていろ」

 一瞬、言葉を失った零は、震える細い声で呟く。

『……だめだよ、海琉。
 来たら……絶対にだめ──私は……助けてほしくなんか……」

 耐えきれずにすすり泣きをもらす零の声を聞きながら、鷲塚は思わず額を押さえていた。

 ここまで零を追いつめた翔太や御山は許し難いが、何よりも零を守りきれなかった自分自身を呪いたくなる。

 姿は見えなくとも、深く傷つき、打ちひしがれている零の様が瞼の裏に思い浮かぶ。

 膝を抱え込み、震えながら止めどない涙を流す零の姿が──。

 だが、今は、胸の中で荒れ狂う激情を見せるわけにはいかない。

「零──帰ってきたら、いくらでも泣かせてやる。
 だが、今は何も考えるな……もう少しだけ待っていろ」

 慟哭が止まらない零にそう囁いた鷲塚は、ちらりと腕時計を一瞥した。

 そろそろこの電話越しの会話は打ち切られるだろう。

 そう察し、鷲塚は最後にもう一度名前を呼んだ。

「零……愛してる、何があっても──」

『……わ、私も……』

 しゃくり上げながら零がその先の言葉を続けようとした時、突然気配が離れ、翔太の声が割り込んできた。

『もう、いいかな? 零さんの声は十分に聞けたでしょ?』

 どうやら翔太は、零の手から電話を取り上げたらしい。

 判ってはいても、その不快感は凄まじく、鷲塚はぎりと奥歯を噛みしめ、険悪なまでに双眸を眇めていた。

「さっさと時間と場所を言え──貴様に決めさせてやる」

 迸る怒りが伝わったのか、翔太は「怖い、怖い」とくすくす笑い、その後で長々と嘆息をもらした。

『とにかく……待ち合わせ場所には、必ずあんた一人で来てよ、鷲塚サン。
 俺の手下が、あんたの手下たちの姿を見つけたら、その時点でこの取引は終了だ。
 俺はあんたを信用していないし、あんただってそうだろ?
 取引が終わった後で、殺されるのはゴメンだからね』

 強い視線を感じ、鷲塚が顔を上げると、険しい顔をした高宮がわずかに首を振っている。

 高宮の傍にいる古谷も、そして東山も、同様に厳しい表情を浮かべていた。

『今夜、午後10時に、豊洲埠頭──落ち合う場所は、また改めて連絡する。
 さっきも言った通り、必ず一人で来てよ。
 周辺に見張りを立てておくから、あんたが約束を破ったらすぐに判る』 

 緊張した声音でそう告げ、翔太からの電話が切れる。

 鷲塚がデスクの上に携帯電話を置くと、両腕を組んでいた古谷が真っ先に声を上げた。

「どう考えても罠だぜ、鷲塚。
 一人で行けば、間違いなく棺桶に首を突っ込むハメになる」

 両手をデスクに突いて身を乗り出しながら訴える古谷の言葉に、高宮と東山が同意するようにうなずく。

 古谷に答える前に、鷲塚は目線を真那に向けた。

 この事件に巻き込まれた零の親友は、真っ赤に泣き腫らした目をして、子供のように何度もしゃくり上げている。

 零の声を聞いた途端に号泣が始まったのだが、ここから先の話を聞かれるのはまずい。

「真那──お前は、部屋の外に出ていろ」

 鷲塚がドアを指差すと、真那は唇を噛みしめながら首を勢いよく横に振った。

「だ…だって……零ちゃん……鷲塚さんを助けたいから……あんな風に……。
 零ちゃん……酷い目に遭ってるのに……鷲塚さんが大事だから……」

 再び感情が高ぶったのか、真那の両目から滝のように涙が流れ出す。

「お前に言われなくても判っている。
 さっさと出て行け──ギャアギャア泣かれると邪魔だ」

 冷淡に突き放すと、くしゃくしゃに顔を歪めた真那の背中を東山が押した。

「さあさあ、真那ちゃん……可愛い顔が台無しですよ。
 零ちゃんの事は私たちで考えますから、真那ちゃんは顔を洗ってきなさい」

 穏やかに促しながら真那を部屋の外に追い出した東山は、ドアを閉めると、そのまま鍵をかけた。