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Fatal Doll



<68>



 東山が元いた場所に戻るまでの間、沈黙が降りる。

 陰鬱な空気を破るように次の言葉を発したのも、やはり東山だった。

「さて、話を戻しますが──私も古谷さんと同意見です。
 人質を取られているのは、翔太クンとて同じでしょう。
 母親と功刀先輩を返して欲しいなら、一人で来なければならないのは、むしろ彼の方です。
 しかしながら彼は、見張りを立てると言っている。
 罠であると断言しているようなものです」

 翔太の発言が気に入らなかったのか、東山の声音は冷たく、眼鏡の奥の双眸にも不審が浮かんでいる。

 鷲塚は、表情こそ全く変えないが、東山や古谷と同じ結論に達しているであろう高宮の顔を見上げると、唇の片端を薄くつり上げた。

「気づかなかったか? 零の傍に、御山がいた」

 その名を聞くと、鷲塚を見下ろしていた三人は、お互いに顔を見合わせる。

「恐らくヤツは、零と翔太を見張っていた。
 こっちがそうだったように、俺の声は向こうに筒抜けになっているはず。
 だとすれば翔太は、自分が優位な立場であると、御山にアピールせざるを得ない。
 母親と功刀がこっちの人質になっているとは言えないからな。
 零は零で、何も喋れない。
 どんな脅しを掛けられているのかは推測できる」

 零は優しく、それゆえに弱い。

 たとえ、自分自身の死を覚悟していたとしても、目の前で無関係な人間を人質に取られたら……あるいはそれが翔太だったとしても、御山の言葉に従うしかないだろう。

 助けはいらないと必死で言い募っていたのは、危険を知らせようとする零なりの想いがあったからに違いない。

 だが、そう言われた鷲塚がどんな反応を起こすのか、御山はとっくに見透かしている。

 鷲塚が、零を見捨てるはずはないとも確信している。

 だからこそ、聞かせてやったのだ……零を「愛している」と──。

 恋情に狂った男の愚かな言葉だと、御山は嘲笑するだろう。

 その一方で自身の古傷を抉られ、新たな苦痛を感じるかもしれない。

 御山が愛した相楽香澄と、零が似ていればこそ。

 たとえ相楽香澄の存在を自ら消し去ったとしても、「捨てられた」事実が御山の記憶から失われることはない。

 存分に苦しめばいいのだ──愛する者を失った痛みと、プライドに深く刻まれた傷の狭間で。

 御山の精神が激痛に苛まれ、苦しめば苦しむほど、相楽香澄の写真をくれてやった甲斐があるというものだ。

 とはいえ、どれほど御山が過去に煩悶したところで、零が受けた心身の痛みの欠片ほどの復讐にもならないが。

 どす黒い御山への復讐心が、微笑となって鷲塚の唇に浮かぶ。

「もしや、御山を挑発するためだけに……零ちゃんに愛の告白を?」

 いち早く鷲塚の心境を察したのか、東山がやや呆れたように問うた。

 その言葉を聞いた途端、ずっと口を噤んだままうつむき、涙を押し殺していた新堂が、愕然として顔を上げる。

「いや……零の精神状態は限界を越えている。
 踏み止まらせるには、あれ以外の言葉が思いつかなかった」

 その心情もまた真実──零の嗚咽が幻聴となって蘇り、鷲塚は嘆息をもらした。

 零を、鷲塚響子と同じ境遇には追いやりたくない。

 自我を崩壊させ、過去の思い出の中に、生きながら幽霊のように彷徨い続ける人生は歩ませたくない。

 そうなるくらいなら、いっそ──。

 鋼の双眸を閉ざした鷲塚は、拳でデスクの天板を軽く叩くと、返す言葉を失ったように立ち尽くしている四人に告げた。

「とにかく、翔太の要求通り、俺は一人で行く」

 その後、高宮、東山、古谷に指示を出した鷲塚は、三人を部屋の外へ出て行かせ、新堂だけをその場に残した。

 零の声を聞いてから、新堂の顔は死人のように血の気を失い、涙を堪える両目は血走っている。

 護衛していた零を守りきれず、奪われた──激しい自責に苛まれ続け、生きた心地もしないのだろう。

 鷲塚と二人きりになった途端、新堂はデスクの前で土下座をし、額を床に擦りつけた。

「──申し訳ありません。
 零さんは、俺がこの命に代えて必ず……。
 だから、頼みます……俺にも何か仕事を与えてください。
 鉄砲玉でも、盾にでもなりますから……」

 胸裡から振り絞る苦鳴にも似た新堂の声音。

 鷲塚はその姿を見やると、引き出しからベレッタを取り出し、デスクの天板に滑らせた。

「立て、新堂──お前の役目は、お前にしか頼めない事だ」

 ぱっと頭を上げた新堂の顔は、黒光りする拳銃を認めた途端、緊張して引き締まる。

「万が一、俺が先に死に、零が生き残るような事態に陥ったら、それで零の命を絶て」

 立ち上がった新堂にそう告げると、ベレッタを見下ろしていた新堂の双眸が、驚愕に見開かれた。

「な……何故、そんな……」

「零一人を残して逝くわけにはいかない」

「では……どうして、俺なんです?」

「お前は、俺を除けば、他の誰よりも零の一番近い所にいる。
 他の者には頼めない。
 零が狂っていく様を、お前も見たくはないだろう?」

 狼狽の末の質問に、淡々と答えを返していた鷲塚は、言葉に窮する新堂を見すえた。

 沈黙が、限界まで張り詰めた弦のように緊迫する。

 呼吸を止めたままベレッタを睨みつけていた新堂は、決意を固めたように手を伸ばし、グリップを握り締めた。

「判りました。若頭が……それでいいのなら」

「万が一の保険だと思え──俺も、そう簡単にくたばる気はない」

 鷲塚が薄く唇をつり上げると、眉間に深い皺を刻んだ新堂は黙って頷き、手にしていたベレッタをウエストにねじ込んだ。

「出て行け」と片手を振ると、新堂は苦痛を堪える硬い表情のまま一礼する。

 ドアが閉まり、人の気配が消える。

(万が一か……あってはならない可能性だが)

 零を残して死にたくはないが、その可能性から目を逸らそうとする度に、「鷲塚響子」という強力な呪縛が浮かび上がる。

 ここにきて急にその存在が大きく感じられるのは、彼女もまた死にかけているからなのか、それとも同じ問題に直面しているせいなのか。

 組織に関してはさほど心配は無い。

 高宮や東山は、たとえ鷲塚が死んでも、組織を上手くまとめ、動かしてゆくだろう。

 今とは形が変わるかもしれないが、それでも確実に。

 リモコンを操作し、部屋の照明を落とした鷲塚は、暗闇の中で瞼を閉ざした。

 指定された時刻までには、まだ間がある。

 次に目覚めた時は、鎖に繋がれた内なる獣を解き放ち、本能のままに戦えばいい。

 零を助け出し……そして、生き残りをかけて──。




 翔太が指定してきたのは、再開発が進む豊洲周辺域の中で、時代に取り残されたように荒れ果てた廃倉庫だった。

 同じ敷地内にある事務所ビルも劣化が進み、施設を囲むコンクリートの壁には、侵入者を防ぐための鉄条網が巡らされている。

 もうじき取り壊し予定なのだと、小型マイク越しに東山が説明する。

 背後には新規建設された高層ビル群が浮かび上がっているが、この一帯には他に建物も無く、殺伐とした空気が流れ、夜の中に沈んでいる。

 車通りがほぼ皆無であるため、ヘッドライトを点灯して道路を走れば、すぐに存在が明らかになる場所。

 遠目からでも、ここならば見張りやすい。

 錆び付いた鉄門の前に、鷲塚は車を停めた。

 たとえ放置しておいても足が付かない、中古の盗難車──警察の介入を拒むのは、どちらも同じだった。

 程なく、施錠されているはずの門を開けて、一人の男が現れる。

 まだ若い、翔太と同じくらいの年齢の男。

 びくびくと怯えた様子で運転席に近づいてくると、サイドウィンドウを下げた鷲塚と目を合わせないようにしながら言った。

「車を……門の中に入れてください。
 それから、トランクを開けてください。
 確認したら、翔太さんの所まで案内しますんで」

 ボディーガードが車内に潜んでいないか、わざわざ確認しに来たのだろう。

 武器を所持しているようには見えず、ぶちのめそうと思えばすぐに片付きそうだったが、鷲塚はその言葉に従った。

 リアシートで息をひそめて沈黙していた功刀が、悄然と隣に座る翔太の母親を見やり、囁くような声で話しかけてくる。

「いったい、翔太は何を考えているんでしょうか?」

 翔太が取引に応じたと聞いて一旦は安堵したようだが、状況は楽観視できないと悟り、功刀は苦悩の表情を漂わせている。

「知らん。だが、零を取り戻せるなら、どうでもいい事だ」

 素っ気なく応じた鷲塚は、ルームミラー越しに田中翔太の母親を一瞥した。

 何もかも諦めきっているように項垂れているその顔は、死期が近いせいか、頬の肉が削げ落ち、やつれ果てている。

 嘘に塗れた翔太の言葉の中で、母親が重病だというのは真実だった。

 御山が治療費を支払っているというのも嘘ではない。

 だからこそ、翔太は母親のために御山の傀儡となり、鷲塚を陥れようとした。

 遠からず死に逝く者のために、人生を狂わせるというのもバカバカしい話だが、親子の情というのは理屈では割り切れないものなのかもしれない。

 鷲塚自身には、縁の無いシロモノでしか無かったが。

 バックミラーに視点を変えると、門を開けた男が後方から走ってくる姿が目に入る。

「止まれ」と言うように両手を大きく振った男は、減速したベンツの前に回り込んだ。

「エンジンをかけたまま、鷲塚さんだけ降りてください」

 体良く使い走りにされている男は、息を弾ませながら翔太からの指示を告げる。

「人質を二人とも置いたままか? 随分、都合の良すぎる話だ」

 ホルスターからグロックを抜いた鷲塚は、銃口を功刀の胸部に向ける。

 今でもこの二人を取り戻す気でいるなら、翔太は鷲塚の言葉に従うはずだった。

 男は慌てたように自分の携帯電話を取り出し、連絡する。

 間もなく、鷲塚が所持している、零の携帯電話にも着信が入る。

 翔太が連絡用に使用してくるため手放せずにいるが、その着信音が響くたびに、胸奥にざわりと苛立ちが募る。

 案の定、電話をかけてきたのは翔太だった。

『仕方ないから、二人とも連れてくればいい。
 俺はあなたを信用してないって言ったでしょ?
 ちゃんと約束を守ってくれてるかどうか、心配だっただけだよ』

「零はそこにいるんだろうな?」

『鷲塚サンが来るのを、ずっと待ってるよ』

 電話はプツリと切れた。

 車から降りた鷲塚は、恐怖に竦み上がっている翔太の母親を座席に残し、功刀だけを同行させた。

 二人を連れて行けば注意力が散じる。

 盾に使うなら、痩せ細った田中弥生より、体格の良い功刀の方が有用だった。