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Fatal Doll



<70>



 躰が、痛くて、息苦しい……何かで、胸元がきつく締め付けられている。

 少しずつ知覚を取り戻しながら、零は自分がどこにいるのか確かめようと、重苦しい瞼を開けた。

 頭上で、ガンガンと足音が響く。

 幾度となく繰り返す破裂音、微かに震える空気、漂う硝煙──。

 続いて、またパンと破裂音……空間に凄まじい絶叫が反響し、何かが落下し、床に叩き付けられる。

 のろのろと首を動かし、天井を見上げようとした零は、そこに道路を跨ぐ陸橋のような細い通路があることに気づいた。

 薄暗く、ぼやけた視界をはっきりさせようと、何度か瞬きをしてみたが、思うようには見えてこない。

 どこかに照明は灯っているが、全体的に暗く、薄墨を溶かしたように色彩が沈んでいる。

 そうするうちに、自分自身の状況にも気づく。

 猿轡を噛まされ、両手足が動かないようにロープで縛られたまま……何故か空中に浮かんでいた。

 地に両足が着いていないことに気づくと、冷たい戦慄が背筋を駆け抜ける。

 思い出せる最後の記憶は、男たちに押さえ込まれ、翔太の手で何かを注射されたことだけだった。

 そこからプツリと記憶は途切れ、ここに浮かんでいる。

 眩暈がする──激しいパニックに襲われそうになり、両瞼を閉じて口を塞ぐ猿轡を噛みしめた零は、突然、ガタンと躰が揺れたことに驚き、全身を緊張させた。

 レールから躰を吊り下げているワイヤーが巻き上げ音と共に動き始め、横滑りする。

 進行方向の右手に視線を向けた零は、壁面がガラス張りになった金属製の箱の中に、黒い影が立っていることに気づいた。

 暗がりになってしまっているため顔は見えないが、リフトで運ばれるようにそちら側へ、どんどん近づいて行く。

 発作的な恐怖に駆られ、零は身をよじり、空中でもがいた。

「零──落ち着け。暴れるな」

 だが、その声が響いた瞬間、呼吸が止まる。

 幻聴ではなかったかと疑い、もう一度、目を凝らして見る。

 操作室の窓からその男が半身を乗り出し、位置を確認すると、すぐに零を運ぶワイヤーの動きが停止した。

 名前を呼ぼうとしたが、猿轡に邪魔されて声が出ない。

 作業ステージに引き上げられ、クレーンのフックから躰が離される。

 まだ拘束が解けていなかったが、鷲塚は性急に零を両腕にかき抱いた。

「──零……よく生きていた」

 狭い作業ステージに両膝を突いたまま零を抱き締めていた鷲塚は、安堵の溜息を吐き出すのと同時にそう呟き、腕に力を込める。

 不意に、胸の奥が揺さぶられるように震え、全身がわなないた。

 低く、力に満ちた声は、甘美な響きに変わり、恐怖に凍りついていた心を溶かす。

 ただ嬉しくて……こうしてもう一度抱き締められていることが信じられず、頭の中が真っ白になってゆく。

 猿轡を外され、どこからか取り出したサバイバルナイフで、鷲塚は零の躰に巻き付いた拘束縄を切り落とす。

「──海琉……本当に……?」

 涙が滲み出し、乾ききっていた喉から掠れた声が漏れた。

「迎えに行くと言っただろう」

 その言葉が終わるよりも早く、零は無我夢中で両腕を差し伸べ、鷲塚の首にしがみついていた。

 ずっと、ずっと……帰りたかったのだ、この人のもとへ──。

 まるで夢を見ているようだった。

 夢なら夢で、このまま離れず、傍にいられたらいい。

 だが、もっと長く抱き合っていたいという零の想いは、我に返ったように突然緊迫した鷲塚自身の気配に拒絶され、身を引きはがされた。

 何故と思った途端、全身から力が抜けるような気怠い感覚と、眩暈が襲ってくる。

 ぐらぐらする頭を何とか気力で支えた零は、急に喉を掴まれて仰のかされた。

「……これか」

 鋭く舌打ちをした鷲塚の手で首を探られた零は、そこに首輪のような物が嵌められていることにようやく気づいた。

 急に不安が募り、首輪に触れようとすると、鷲塚の手に掴まれる。

「後で外してやるから、絶対に触るな」

 逆らえないような強い口調で言われ、零は困惑しながらも手を下ろす。

 次の刹那、どこからか銃声が響き、すぐ傍の金属ポールがキンと甲高い音を立て、火花が飛び散った。

 耳元で、鷲塚の息遣いがする。

 気がつくと、鷲塚の大きく逞しい躰に覆われるようにして、零は作業ステージの床に頭を下げていた。

 一転して鷲塚は、見えない襲撃者を牽制するように拳銃で反撃する。

 その姿が視界の隅に入った瞬間、胸の中に満ち始めていた激しい歓喜と安堵が、潮が引くように一気に消滅した。

 危険はまだ去っていない──御山は、鷲塚を殺せと命じていた……零を囮にして。

 何らかの薬を打たれた後遺症なのか、躰が思うように動いてくれない。

 このまま自分を守り、助けだそうとすれば、鷲塚の身にも危険が及ぶ。

「逃げて、海琉……私を、置いていって、いいから──」

 呻くように訴えると、流し目を向けた鷲塚はふんと鼻を鳴らした。

「相変わらず、どうしようもないバカだな、お前は」

 移動する狙撃者の足音に注意を向けたまま、そのわずかな隙に鷲塚はジャケットを脱ぐと、うずくまっている零の頭にばさりと被せた。

「黙ってそれを着ろ。特殊繊維の防弾になってる」

「でも……」と口を開きかけた零は、鷲塚にひと睨みされてすくみあがった。

 口答えは一切許されない雰囲気だったが、ジャケットが防弾仕様になっていると言うなら、これを失った鷲塚はどうなるのだろう?

 身を守る物が何も無くなってしまう。

 闇に紛れる黒いワイシャツ姿になっていた鷲塚は、逡巡する零を叱責するように「早くしろ」と命じ、再び拳銃の引き金を引いた。

 連続して轟く銃声。

 ぐずぐずと迷い続けるのは危険な状況なのだから、言われた通りにするしかない。

 零はジャケットの袖に腕を通した。

 だが、こんなに大きかっただろうかと、ふと思う──感傷に浸っている時ではないと自分を戒めても、身を包み込む温もりに心が高鳴る。

 涙ぐみながらボタンをかけようとすると、指先が震えていた。

「立てるか?」

 肘を掴まれて問われ、零は頷きながら足に力を入れようとしたが、膝が萎えたようにへたり込んでしまう。

 鷲塚は零のウエストに片腕を巻き付けて軽々とすくい上げると、嘆息をもらした。

「……また痩せたな」

 その呟きにこもっているのは、いつもの少し意地の悪い揶揄ではなく、まるで自分自身を責めているかのような罪悪感。

 絶望的な恐怖の中で、ほとんど食事ができなくなっていた零は、「そんな事ない」と否定することもできず、思わず瞼を伏せていた。

 きっと、げっそりとやつれていて、酷い顔色に見えるだろう──もっと明るい場所で顔を見れば。

 だが、それ以上後悔している余裕など無かった。

 鷲塚の腕に支えられながら、何とか階段を上がりきり、反対側へと続く天井クレーンの通路に達した時、顔のすぐ前方を銃弾が通り過ぎる。

 直前で引き止めてもらえなければ、どうなっていたのか。

 空気を裂く衝撃波を感じて青ざめた零は、上半身がワイシャツ一枚という無防備な鷲塚の顔を心配して見上げた。

「頭を下げていろ。ここなら死角だ」

 背後から、あるいは進行方向から襲撃されなければ、銃弾は必ずそれる。

 手短にそう告げた鷲塚は、怯えた顔つきでうなずく零に、最後に冷厳な声音で告げた。

「零──ここから出るまで、絶対に俺を止めるな」

 何の事か一瞬判らなくなり、混乱する。だが、すぐに思い当たった。

 以前、九竜裕吾に拉致され、救出された時、「殺さないで」と鷲塚に頼んだのだ。

 目の前で、相手が敵であったとはいえ、鷲塚が人を殺す姿を見たくなくて……罪を犯してほしくなくて──。

 今は生きるか死ぬかという極限状態だから、鷲塚はそう命じるのだろう。

 もし自分が制止の言葉を発すれば、引き金を絞ることを、人の命を奪うことを躊躇してしまうからなのか。

 唐突に響き渡る、乾いた破裂音。

 零はしゃがみ込んだまま、反射的に両耳を塞いだ。

 鷲塚は、最初から零の返答など待ってはいないかのように、通路の手すりに身を潜め、地上に撃ち返す。

 助けてもらいながら、胸が押し潰されそうなほど怖かったが……鷲塚が死んでしまうのは、もっと嫌なのだ。

 激しい銃声が途切れると、鷲塚は零の躰を片腕で抱き上げ、倉庫の空中を横断する通路を渡り始める。

 だが、鷲塚が零を救出しようとするなら、必然的に死地に追い込まれるように計画されていたのかもしれない。

 前方から、その男の声が響いた瞬間、零は震え上がり、全身が粟立つのを感じた。

「──そこで止まれ、鷲塚。
 さもなければ、お前の大事な零の頭が、スイカみたいに吹っ飛ぶぞ」

 階段の下に身を隠しているのか、まだ姿は見えない。

 だが、嘲るような大音量の声で、零は、ファントムが現れたことを察した。

 素早く零を降ろし、背後にかばった鷲塚は、銃口を声の気配へと向ける。

 ところがファントムと事前にタイミングを申し合わせていたかのように、後方からも「そこで止まれ」と男が叫ぶ。

 他に逃げ場の無いランウェイの中央──前後から挟み撃ちにされ、どうやって身を守れば良いのか。

「零の首に仕掛けられた爆薬……その起爆装置はここにある。
 その銃を下に捨てろ、鷲塚。
 ちょっとでもおかしな真似をしたら、零を吹き飛ばす」

 爆薬と聞いて、零は思わず喉元の首輪に手を当ててしまった。

 首輪に気づいた時、鷲塚が見せた反応。

 知っていたのだろう──だが、あそこで零を怖がらせないように黙っていたのだ。

 姿無きファントムの声に合わせるように、背後から狙撃者が忍び足で階段を上がり、鷲塚の後頭部に照準を合わせる。

 赤いレーザーポイントが、鷲塚の黒髪を小さく染める。

 それを見た途端、零は悲鳴を呑み込み、大きく目を見開いた。

 銃のことなど全く知らないが……動けば、撃たれる……そんな予感がする。

 先程まで二人がいた場所まで背後の狙撃者が移動すると、ファントムはさらに促すように怒鳴った。

「早く、銃を床に落とせ!」

 鷲塚は、背中にしがみついている零を肩越しにちらりと一瞥し、右腕をそのまま水平に伸ばすと、空中に拳銃を放り出した。

 階下のコンクリートに落下し、硬い激突音を立てる。

 その音で安全を確認したのか、ファントムは階段を上がり、ランウェイ上に現れた。

 不気味な姿はそのまま。

 焼け爛れた顔を、黒い目出し帽で隠したファントムは、右手に持った小さなプラスチック製の箱を頭上で振って見せる。

 それが恐らく起爆装置なのだろう。

 自分で首輪を外そうと、プラスチックの留め具に指をかけた零に向かって、鷲塚は「触るな」と鋭く叱咤した。