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Fatal Doll



<71>



 ククク……と、ファントムがどす黒い喜悦の嘲笑を響かせる。

 ニット帽で覆われた、見えない口から発せられる言葉に、零の手は凍りついたように動かなくなった。

「無理に外そうとすると、そのまま爆発する。
 きっと、もの凄く痛い……その綺麗な顔が、グチャグチャのミンチになる。
 お前の傍にいる鷲塚も、巻き添えになるな」

 想像した途端、吐き気がこみ上げる。

 これが、翔太が最後に仕掛けた罠だったのだ。

 零の命は、ファントムの手に握られている……このままでは、もしかしたら、鷲塚も──。

 動かなくなった思考を働かせ、解決方法を探ろうとしても、生まれて始めて経験するこの非常事態に、どう対処すれば良いのか判らない。

 せめて、鷲塚だけでも、どうにかこの場から逃がすことはできないのだろうか?

「零、前に言っただろう……その男を選べば、後悔することになると。
 だが、共に来れば、お前の命は助けてやる」

 ファントムは、突然声を引き攣らせて哄笑を放つと、左手で構えていた拳銃をさらに前に突き出し、首を大きく傾げた。

「キミは、ボクのモノだ──そうだ……ずっと、ずっと……ボクのモノだったんだ……」

 耳障りな甲高い声でファントムは笑い続ける。

 異常性が剥き出しになった、恐ろしい姿。

 だがその銃口は、残酷なほど正確に、鷲塚の胸へと向けられている。

 その時、鷲塚が抑揚の無い冷淡な声で言った。

「そのまま撃てば、間違いなく零にも当たる。
 零の死体を、貴様は自分のモノにしたいのか?」

 鷲塚がそう訊ねると、ファントムは小馬鹿にしたように肩をすくめた。

「おい、そこの! 鷲塚の後ろにいるオンナを連れて行け」

 ファントムは、鷲塚と零の背後から狙っている男に、横柄な口調で命じる。

 ぎくりとして振り返った零の目に、用心深く銃口を向けてくる男の姿が飛び込んでくる……少しずつ、近づいてくる。

 また、鷲塚から引き離される──。

「……イヤ……嫌だ……もう、海琉から、離れたくない」

 やっと会えた。そう思っていたのに。

 鷲塚の背中に顔を押しつけ、零は呻くように呟いていた。

 隠しきれない、それが本音。

 もう……あそこには……絶対に戻りたくない──一人になりたくない。

 まるでフラッシュバックするように、閉じ込められ、ファントムや御山に嬲られた記憶が押し寄せてくる。

 底無しの恐怖に、精神が呑み込まれていく。

 そんな絶望の中にまた引き戻されるくらいなら、いっそ鷲塚の盾になって撃たれてしまった方がいい。

 自分だけが一人生き残ってしまうのは……それだけは、どうしても嫌だった。

 その瞬間、脳裏に直感が閃く。

 そう、今なら……簡単に死ねる方法がある──ファントムを道連れにして……。

 そうなれば、鷲塚は助かるかもしれない。

 足手まといの重荷でしかない自分がいなくなれば、鷲塚は自由になり、戦い続けられる。

 鷲塚をこの窮地から救う方法は、多分、それしかないのだ。

「さあ、零……鷲塚から離れるんだ。痛い思いをしたくないだろう?」

 勝利に酔いしれるように、ファントムが笑う。

 零は鷲塚の広い背中にそっと掌を押し当てると、ふらりと後退った。

「──待って……今、そっちに行くから……」

 まるで過去の再現のようなシーン。

 あの時は、親友の真那を守るために、「九竜裕吾」に身を委ねようとした。

 そして、今は、鷲塚を守るために、「ファントム」に近づき、その命を奪おうとしている。

 良心の呵責はもう感じなかった。

 感情が麻痺してしまったのかもしれない。

 パニックに襲われて混乱していた頭が、冷静さを取り戻してゆく──。




 現れた男を一目見た瞬間、鷲塚は理解した。

 この男こそが「ファントム」──零を拉致し、混乱を引き起こした、かつて九竜裕吾と呼ばれていた男。

 零を人質に取られたまま、アクションを起こすのは危険だった。

 だが、この状況の突破口は目の前にある。

 脅迫者であるはずのファントム自身が、零に執着しているのだ、以前と変わらず、今も。

 攻撃の起点を脳裏に描き、鷲塚は心理戦に持ち込む。

 このまま撃てば、銃弾が零に当たる──そう知らせてやると、案の定、ファントムは反応を示した。

 爆殺すると言いながら、零の命を助けようとする矛盾。

 この「ファントム」もまた、恋情に狂い、執念を捨てきれなかった哀れな男の一人。

 九竜裕吾の意識が、引き寄せられるように零へと向かった。

 背後の敵は、力ずくで零を連れて行こうと、じりじりと近づいてくる。

 九竜裕吾を狂わせたのは零自身だったが、本人は無自覚のまま鷲塚の背中にすがりつき、「離れたくない」と恐怖に震えている。

 どれほど恐ろしい目に遭ったのか推測するしかないが、さすがに慰めている余裕も猶予も今は無い。

 だが、全神経を二人の敵に向け、隙を探っていた鷲塚は、零の行動に意表を突かれた。

「──待って……今、そっちに行くから……」

 奇妙なほど落ち着き払った零の手は、忌々しい爆薬付きの首輪に触れたままだった。

 狭い通路上で鷲塚の脇をすり抜け、ファントムの方へ向かおうとする零に、前後の敵の意識が同時に集中する。

 零の躰に右腕を巻き付けた鷲塚は、左手で素早く、ウエストに挟み込んであった拳銃を抜いた。

 それは、鷲塚自身が持参していたグロック。

 放り出して見せたのは、先刻敵から奪い取ったマカロフ。

 驚愕に息を呑む零を巻き込むようにして通路に倒れ込みながら、背後の敵を仕留める。

 間髪おかず体勢を変え、起爆装置を持つファントムの右手首を撃ち抜く。

 血飛沫が弾け、起爆装置が宙に投げ出される。

 続けて鷲塚はトリガーを引いたが、的がわずかにそれ、ファントムの左肘に着弾する。

 後方に吹っ飛んだファントムに、鷲塚は連射した。

 被弾したファントムが獣の咆吼を上げる。

 まだ致命傷は与えられていない。

 頭蓋にも命中したはずだが、生きている──恐るべき生命力だった。

 あるいは、覚醒剤でもやって、痛覚がイカレているのかもしれないが、放っておけばいずれ失血で絶命するに違いない。

「……海琉!」

 混乱し、悲痛な叫びを上げた零に、「頭を下げて、伏せろ!」と鋭く言い放つ。

 鷲塚は右腕をバネにして跳ね起きると、ランウェイ上に落ちた起爆装置に突進した。

 止めを刺す前に、零の命を安全圏へと引き戻さなければならない。

 だが、雄叫びを上げて立ち上がったファントムが、目出し帽を引き千切るようにして脱ぎ捨て、突然、拳銃のトリガーを引いた。

 流血で目が見えなくなっているのか、狂った乱射。

 鷲塚の周囲で銃弾が次々に弾け飛び、起爆装置に伸ばしていた右腕に衝撃が走る。

 構わず起爆装置を拾い上げ、鷲塚は仁王立ちになったファントムに銃口を向けた。

 後悔があったとすれば、最初に零が拉致された時、「九竜裕吾」を己自身の手できっちり始末しておかなかった事。

 それゆえに、死んでいるはずの亡霊が蘇り、「ファントム」が生まれ、混乱が生じた。

 だが、それも終わる。

 血みどろになった顔面の中で、憎悪に光る両目をかっと見開き、死に損ないの化け物が鷲塚を睨め付けている。

 撃発音の消えた拳銃のトリガーを、虚しく引き続けながら。

 連射の結果は、呆気ない弾切れだった。

「零は俺のオンナだ──覚えておけ」

 唸り声を上げて拳銃を放り出し、足を踏み出そうとするファントムに、冷酷な鋼の双眸を向け、トリガーを絞った。

 腰から崩れ落ち、うつ伏せに倒れたファントムが動かなくなると、鷲塚はふっと一息呼気を吐き出す。

 ひとまず、危機は脱したようだった。

 手元に残った起爆装置に目線を落とすと、ONとOFFを示す小さなスイッチがある。

 OFFにスイッチを戻すと、赤く点滅していたランプが消えた。

 頭を抱えて通路の床に伏せている零の傍に戻った鷲塚は、細い首に嵌っている首輪を外し、小刻みに震える肩を抱き寄せた。

 絶え間ない銃声のリフレインが消えた後は、不気味なほどの静寂に変わっている。

「零……行くぞ」

 茫然自失の顔つきで振り返った零は、感極まったように抱きついてきた。

「……よ、良かった、海琉……無事で……」

 だが、濡れたワイシャツの感触で負傷に気づいたのか、零はさっと躰を離し、苦痛に耐えるような顔つきになった。

「……ご、ごめんなさい……わ、私……海琉を、守りたかったのに──」

「お前は、俺のオンナだと何度も言っているだろう。
 お前を守るのは俺だ。
 大人しく守られていればいいものを、お前はまたバカな真似を……。
 こんな時くらい、少しは大人しくしていられないのか?」

 やや愚痴めいた言葉をもらしつつ、鷲塚が零の躰を抱き寄せて立ち上がった時、ささやかな小康を破る銃声が轟いた。

「──まだ、いたか」

 成り行きを見守っていた連中が、ファントムとの決着がついたのを機に、反撃しようと接近してきたのだろう。

 きりがないと内心で舌打ちしながら、鷲塚は零を連れ、通路の反対側にあるもう一つの死角に潜んだ。

 階段の下方辺りで銃声が響く。

 どうやら、二人が下りてくるところを待ち伏せをしているらしい。

 壁際に身を寄せるようにして零を座らせた鷲塚は、華奢な躰を覆うジャケットのポケットに片手を突っ込み、携帯電話を取り出した。

「零、喋らなくてもいいから、新堂に電話しろ」

 震える指先でボタンを押し始めた零を確認した鷲塚は、起爆をセットするため、首輪の留め具を元通りに接続する。

 翔太が準備したこれは、本物か、偽物か──。

 人体の至近距離で爆発しない限り、さほど威力があるとは思えない代物だが、多少の時間稼ぎにはなりそうだった。

「……も…もしもし……し、新堂さん?」

 傍らで零の声が響く。

 それを合図に、鷲塚は首輪を階下に投じ、零の上に覆い被さった。

 掌の中で起爆装置のボタンを押す──刹那、短い爆発音。

 運悪く爆発に巻き込まれた男たちの悲鳴が上がる。

 突然の爆発に硬直している零の手から、通話状態の携帯電話をもぎ取った鷲塚は、「さっさと援護に来い」と怒鳴りつけた。