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Fatal Doll



<74>



 眠りの底から意識が浮かび上がると、瞼の裏に光が差し込んでいることに気づく。

──眼を開けたら、次は何が見えるのだろう?

 ピッ、ピッ、ピッ……と規則正しいリズムの電子音が耳に飛び込んでくる。

 何の音だろうと考える間もなく、息苦しくなり、涙がこぼれ始めた。

 また、あの暗い、窓の無い部屋に閉じ込められるのだろうか?

 ひとりぼっちで、胸が破裂しそうな恐怖や孤独に耐えなければならないのだろうか?

 だとしたら、このままずっと眠り続けていた方がいい。

 そうすれば、これ以上苦しまずに済むのだから──。

 もう一度深い眠りの淵へと沈みこむ。

 突如として目の前にゆらりと黒い影が浮かび上がり、甲高い嘲笑を放ちながら少しずつ忍び寄ってくる。

 恐ろしい腕を伸ばし、怯えきって立ちすくむ零を、今にも捕まえようとしている。

 どこにも逃げ場が無い。

 目覚めても、夢の中にいてさえも、安心できる場所はどこにも無く、見失ってしまった。

 絡みつく黒い手を振り払おうと、零は凍りついたように強張る腕を動かそうとした。

 指先が、意思に反応してぴくりと動く。

 その時、右手を包み込んでいる温かな感触に気がつき、悪夢から逃れた零は、ゆっくりと瞼を開けていた。

 涙の雫で霞んでいる視界の向こうに、薄日に照らされた灰色の天井が見える。

 古びた蛍光灯は消えているが、見慣れない部屋の天井や壁の模様は何となく判る。

 最初に模様だと思ったのは、どうやら経年的なシミや、ひび割れのようだった。

 光を求めるように、零は顔を動かした。

 カーテンが閉められた窓の隙間から、薄明かりが射し込んできている。

 ちゃんと窓がある部屋……だから──。

(……ここは……あの部屋じゃない)

 ほっと安堵の溜息をもらし、反対側に顔を倒した零の目に、息が触れ合うほど近くで眠っている鷲塚の顔が飛び込んできた。

 驚きで心臓が大きく拍動し、呼吸ができなくなる。

「──海琉」

 病院にあるような一人用の白いパイプベッドが二つ、ぴったりと接するように置かれ、そこに二人は眠っていたようだった。

 わずかに身を起こしても、鷲塚の眠りは破られることなく、深い寝息が続いている。

 裸の上半身には、怪我の治療をしたかのような湿布が何カ所か貼られており、右の上腕には包帯がしっかりと巻かれていた。

 まるで零を守るように頭上に腕を伸ばし、横臥の形で寄り添っている鷲塚は、長身を折り曲げ、狭いベッドに窮屈そうに横たわっている。

 日頃から眠りの浅い鷲塚が、これほどぐっすりと眠り込むのは珍しい。

 鷲塚と向かい合うように横になろうとすると、自分の左腕に点滴のチューブが繋がっていることに気づき、零はそろそろと躰を動かした。

 もし夢であるのなら、少しでも長く、鷲塚の顔を見ていたい。

 ずっと、この人の傍に戻りたいと、恋い焦がれていた。

 それだけは、自分の心を偽ることも、隠すこともできなかった真実で──。

 彫刻めいた鷲塚の静かな寝顔を見ているうちに、不意に胸の奥が沸き立つように熱くなり、嗚咽がこみ上げてきた。

 ぼろぼろと流れ落ち始めた涙を堪えようと、唇を引き結んでも、堰を切ったように溢れる雫が止まらない。

「……ふぅっ……ぅっ…くっ……」

 喉を突いてこぼれる嗚咽を隠そうと、零が空いた左手で口許を押さえた時、鷲塚が瞼を開き、こちらを見つめた。

 薄闇の中に沈んでいる双眸が、光を弾くように冴々と輝いて見える。

 握っていた零の右手に指を絡め合わせた鷲塚は、唇に淡い微笑を刻んだ。

 その顔を見た瞬間、心臓が射貫かれたように震え、涙がどっと流れ出す。

「零……やっと戻って来たな」

 鷲塚が掠れた声で囁くと、零の心を蝕もうとしていた黒い影が、一瞬、吹き払われていった。

「……わ、私……どうすればいい? ──……これが…もし、また夢だったら……」

 何度もしゃくり上げながら呟いた零は、鷲塚の存在を確かめるように、絡ませた右手の指をぎゅっと握り締めた。

 自分のものよりもずっと力強い指を持つ大きな手が、握り返してくる。

「夢じゃない。お前も、俺も、ここにいる」

 しっかりとした確かなその言葉に、夢ではないのだとようやく思えると、零はただむせび泣きながら、鷲塚の胸に顔をすり寄せていた。

 抱き寄せてくれる逞しい腕の感触に酔いしれ、安堵する。

 ここにいれば大丈夫だと、疑いを抱くこともなく感じながら、無防備な心を解放する。

 いつしか、何も考えられずにぼんやりとしたまま、零は鷲塚の瞳をのぞきこんでいた。

 誰よりも美しいと思えるその瞳に、自分がちゃんと映っているのか、確かめたくて──。

 そんな零に、肘をついて上半身を起こした鷲塚が覆い被さってくる。

 体重を掛けないように気を遣うように、零の顔の脇に左手を突いた鷲塚は、右手で顎を捕らえて唇を重ね合わせた。

 触れ合うだけのキス──感触を確かめるように押しつけられた唇が、零の唇を丹念になぞってゆく。

 やがて二つに分かれた狭間から舌が滑り出し、零の唇を割って、内側へと侵入する。

 容赦無く零の舌は絡め取られ、さらに奥の方まで貪られる。

 息を弾ませながら、鷲塚の躰にしがみついてキスに応えていた零は、不意に、胸の中にわだかまっていた黒い闇が勢力を巻き返してくるのを感じた。

 恍惚とした感覚が、じわじわと侵され、冷たく凍り始める。

 耳の奥で、御山の嘲笑が響いた。

『お前が、私に犯されていることを知ったら、鷲塚はどう思うだろうな?』

 御山に穢された記憶が、一気に押し寄せてくる。

 ぎくりと背筋が強張り、零はとっさに鷲塚の肩を押し返していた。

「──い、いやっ……海琉! 私に…触らないで!」

 優しく零を包み込んでいたはずの甘美な安心感は遠ざかり、現実が突然冷たい刃へと変わる。

 激しい混乱の渦の中に落ち込むと、御山の高らかな哄笑が耳の奥で響き渡った。

 喉の奥から迸る絶叫を、止められない。

 この汚れた醜い躰から、穢れた全てを引き剥いで、永遠に消し去ってしまいたい。

 発作を起こしたように仰け反り、悲鳴を上げる零の躰を、鷲塚は強い力で抱き留め、ベッドの上に押さえ込んだ。

「叫びたいなら、叫べ──それで、少しでもお前の気が済むなら」

 目覚めの気怠さと甘やかさを含んでいた鋼の瞳も声音も、一気に鋭く変わる。

 全身がバラバラに崩れていきそうなほど、強い震えに襲われていた零は、双瞳を見開いたままうわごとのように口走った。

「……わ、私……汚れてる……汚い……汚いから……。
 嫌だったのに……触れられたくなかったのに……私は、弱くて……。
 負けないように……少しでも、戦おうって……そう思ってたのに──。
 どうして…私は……あんな事……許したんだろう。
 どんなに恐くても…もっと…もっと、抵抗していれば──」

 躰を流れる血が凍りつき、唇は冷たく強張り、言葉の合間に歯がカチカチと鳴った。

 目の前にあるはずの鷲塚の顔さえ見えなくなり、視界がぼやけ、大きく揺れる。

 亡霊が、現れる──焼けただれ、崩れた醜い顔立ちのファントム……血に塗れた……。

 そして、零の身代わりになって、無惨に殺されていった少女の姿が交錯する。

 響き渡る御山の笑い声と無数の銃声がわんわんと反響し、心が引き裂かれそうになる。

 不意に、瞳の焦点が合い、鷲塚の顔を零は見上げた。

 気がつくと上半身を抱き起こされ、鷲塚の広い胸の中に引き寄せられていた。

 今、頼れるのは……必要なのは、彼だけなのだと思う。そう直感する。

 おぞましく、凄惨な記憶を手繰り寄せようとする意思が溶け崩れると、零の双瞳からどっと涙が溢れ出してきた。

 泣き声しか上げられなくなっても、鷲塚は赤ん坊をあやすように零の背中をさすり、髪を撫でている。

 突然弾けたヒステリックな衝動が少しずつ鎮まると、触れ合っている鷲塚の逞しい体躯や体温を感じられるようになってきた。

 涙で腫れた瞼を閉ざすと、心臓の鼓動の音を聞くことができる。

 その力強い生命の証を通して、零は自分もまた生きているのだと感じた。

「零、お前は俺のもとに戻ってきた。
 五体満足のまま、生きて、ここにいる……それで、十分だ」

 狂おしい興奮が醒め、零が正気に戻ったことを感じ取ったように、鷲塚がそう呟く。

 零は唇をつぐんだまま、鷲塚の胸に顔を押しつけていた。

 陵辱された記憶は、鋭い牙を剥き、今も心を抉り、食い荒らそうとしている。

 穢されたという肉体的な感覚も、消えていない。

 すぐにでもバスルームに飛び込んで、忌まわしい感覚が無くなるまで躰を洗いたかったが、鷲塚と離れることも恐くて、零は動けなくなっていた。

 このまま……鷲塚の傍にいたい。

 御山に囚われていた時も、ずっと、そう願っていた。

 だが、自分が、鷲塚にふさわしい「オンナ」ではなくなった事も判っている。

 今は零を受け入れようとしてくれる鷲塚も、時間が経てば、疎ましく思うようになる日が来るかもしれない。

 そうなったら、どうやって生きていけば良いのだろう?

 せめて……一秒でも長く傍にいるために、何もなかったように笑っていた方が良いのかもしれない。

 零は必死に涙を堪えると、何度か瞬きをして雫を払い、のろのろと顔を上げた。

「ごめんなさい…海琉……迷惑ばっかりかけて……。
 でも……もう、大丈夫……ちょっと寝起きで、混乱しただけだから……」

 零を見下ろしていた鷲塚は眉をひそめると、憂いを宿した声で言った。

「零、泣きたければ、好きなだけ泣けばいい。
 怒りや憎しみを吐き出して、喚きたければ、そうしろ。
 だが、我慢だけはするな……傷が、深くなるだけだ」

 御山の虜囚になっていた自分が何をされたのか、鷲塚も察しているだろう。

 翔太はビデオを鷲塚に送ったと言っていた──あれを見ていれば、零を問い詰めなくても、推測することはできるのだから。

「あ、あの……こ、ここ……もしかして……病院?
 見慣れない所だったから、びっくりしちゃった」

 ぎくしゃくとした動作で身を離し、周囲を見回しながら話題をすり替えると、鷲塚は嘆息を漏らしてもう一度零を抱き寄せた。

 びくりを身をすくませ、顔を背けようとすると、強い力で顎を押さえられる。

「零……何があっても、俺から逃げるな。
 復讐は、俺が果たす──お前の恨みを、必ず晴らしてやる」

 その激しい言葉にたじろぎ、零は思わず目を瞠った。

「……復讐? 私、そんな事、考えてない……恨みなんて──」

「自分をごまかすなよ、零。
 恨みも、怒りも、憎しみも、お前は当然、感じてもいい。
 本当に何も感じていないなら、お前は傷つかないはずだ。
 常識や綺麗事を信じて、感情を抑え込めると思うな。
 目を背けようとする限り、お前の胸に巣くう御山やファントムの影に、お前の心が食われることになる。
 その方が、俺にとってはよほど腹立たしいがな」

 ぎらりと鋼の双眸が光ったようにも見え、零は言葉を失った。

 戸惑いに唇をわななかせる零を見下ろし、鷲塚はひどく冷ややかな、険しい声で告げる。

「零──心の中まで、御山に侵されるな。
 お前は、俺の事だけを考えていればいい。
 御山の影に心を潰されそうになったら、躊躇わずに、あの男を殺してしまえ。
 お前が望むなら、俺が北聖会ごと潰してやる」