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Fatal Doll



<77>



「──ひどいよ、もう。髪は洗えないし……」

 トイレの洗面台で顔を洗い終えた零は、何事も無かったかのような冷静な顔つきで待っている鷲塚に向かって唇を尖らせて見せた。

「少しは顔色も良くなっただろう。
 ここにいる患者以上に、病人のような顔だったからな」

 不服そうに首を傾げ、しきりに髪を気にしている零に、鷲塚は薄く唇をつり上げて見せる。

 その口から飛び出した放埒な言葉に唖然とした零は、ふうっと長い溜息をもらした。

「海琉が何を考えてるのか、時々、全然判らなくなるけど……」

「何も思い出さずに、ここまで来れただろう。
 少しは感謝しろ。
 とにかく、さっさと済ませて、帰るぞ。
 この辛気くさい場所に、長居はごめんだ」

 エレベーターホールの方へ顎をしゃくった鷲塚は、困惑する零を促すように肩を押す。

 あたかも他人事のように無関心なその態度に、零は胸の奥で切なさを感じた。

 鷲塚は、本当に何も感じていないのだろうか?

 親愛の情を期待するのは今さら無理なのだろうが、せめて響子の最期の時を、何の意味もない事のように扱わないで欲しいと思う。

 響子が亡くなってしまえば、どれほど会いたいと後に思ったとしても、それは叶わぬ願いとなってしまう。

 だが、そんな言葉を口にすれば、鷲塚はまた「お前は甘い」と笑うのかもしれない。

 彫像のように秀麗だが、感情の揺らぎが全く見えない鷲塚の冷徹な横顔を見上げ、零は内心で溜息をついた。

 どれほど傍にいても、完全に解り合える日などないのだろうか──。

 社会のルールを平然と踏み越えてゆく鷲塚の行動が、時に零の目に理解しがたいものとして映るのと同じように、鷲塚にしてみれば、零がこれほど響子にこだわる理由が判らないのかもしれない。

 エレベーターを降りた零は、俯き加減で廊下を歩いていたが、響子が入院する505室が近づくとその隣室のネームプレートにふと目を向けた。

 ぎくりとして、思わず足を止める。

 田中弥生……翔太の母親が入院していたはずの503室から、その名前が消えている。

 いったい、何が起こっていたのか──。

 自分の身に襲いかかった事件の全貌を、いまだに知り得ていない事に気づいた途端、躰が小刻みに震え出す。

 どれだけの人が巻き込まれ、傷つき、命を落としたのだろう。

 まるで記憶のビジョンが巻き戻されるように、様々な光景が思い出される。

 あの日、寂しげな顔で母親の病状を語った翔太の顔も。

 彼は、どうなったのか──鷲塚と自分が生きて、ここにいるなら、御山が下した命令に失敗した翔太は……そして、彼の母親は……?

 頭からすうっと血の気が引き、思わずよろめきそうになった零を、背後から鷲塚が抱き留め、苛立たしげに小さく舌打ちをした。

「まったく……だから、連れて来たくなかったんだ。
 自分がまだ、どうにもならない状態なのが判らないのか?
 他人の事を考える前に、お前は自分の事だけ考えていろ」

 嘆息混じりのその言葉で我に返り、零は瞬きを繰り返して鷲塚の顔を見上げると、口の端に微笑を形作った。

「──ちょっと立ちくらみがしただけだよ。
 大丈夫だから……そんなに怖い顔しないで」

 その途端、鷲塚は呆れたように息を吐き出し、人目も憚らず、正面に向き直らせた零の背中を壁際に押しつける。

「お前が『大丈夫』というたびに、その口を塞ぐか、尻をぶってやりたくなるな」

 零の顔のすぐ横に片手を突いた鷲塚は、身を屈めて顔を寄せ、威嚇的な低い声でそう告げる。

 顔に朱を走らせた零は、慌てて視線を左右に揺らし、声を上ずらせた。

「……や、やめようよ。他の人が見てるんだし──。
 そ、それに……他人事なんかじゃないよ。
 私が、響子さんに会いたいと思ってるんだから……」

 その時、505号室の扉が開き、怪訝そうな顔をした芭月が部屋の中から顔を覗かせた。

 芭月と目線がぶつかった途端、ひどくばつの悪い思いが体中を駆けめぐる。

「あら、ごめんなさい……海琉の声が聞こえたように思ったから……」

 芭月もまた一瞬気まずそうに口ごもると、全く動揺を示さない鷲塚に視線を向け、中に入るようにと軽く首を振って二人を促した。

「来てくれて嬉しいわ。
 だけど……零さん、ここに来て、大丈夫だったの?」

 悄然と肩を落とした芭月は疲れているようにも見えたが、二人を病室に招き入れると、零を気遣うような言葉をかけた。

 そして、それ以上何と言葉をかけて良いのか判らないと言うように視線を揺らし、鷲塚の顔を見上げる。

「海琉……ここは私一人でも大丈夫ですよ。
 早く帰って、零さんをしっかり休ませてあげなければ」

「ここに来たがったのは、俺ではなく、零の方です。
 どうしてもと言い張るから、仕方なく。
 とは言え、この先ずっと後悔するくらいなら、多少無理をさせてでも、今はやりたいようにやらせてみようかと」

 恐らく芭月は、鷲塚や薫から、ある程度の事は聞かされているのだろう。

 緊張していた零はそう考えると、腰を折って芭月に深く頭を下げた。

「ご心配をおかけして本当に申し訳ありませんでした。
 でも……どうしても、もう一度響子さんにお会いしたくて、無理を言って連れて来てもらいました」

 頭を上げた零を見返すと、芭月はほっと嘆息をもらす。

「本当にありがとう、零さん。
 あなたが来てくれて、きっと、響子も喜ぶわ」

 深々とお辞儀を返した芭月は、顔を伏せている間に、そっと指先で目許を拭う。

 その後、芭月に肩を抱かれるようにして、ベッドサイドの椅子に座った零は、最後に会った時よりもずっと衰弱している響子の手を握った。

 とても、冷たい──白蝋のような皮膚の下に、あたかも氷水が流れているかのよう。

 ベッドサイドに設置されている心電図の音が聞こえていなければ、生きているのか、死んでいるのか、とっさには判らなかっただろう。

「琉花ちゃん」と呼んでいた時はまだ、人肌の温もりも、ふわりとした柔らかさも感じられたのだが──。

「響子さん……私の声、聞こえてますか?」

 そっと呼びかけてみる。

 響子から反応が返ってくるとは、あまり期待はできないけれど。

 祈りを捧げるように両手で響子の手を握った零は、ずっと言おうと思っていた言葉を探すように、とつとつと話しかけた。

「聞こえていなくてもいいんです……ただ、あなたに聞いてもらいたかったから──。
 初めてお会いした時、私はまだ響子さんの事が全然判っていなくて、この人が海琉のお母さんなんだって、ただ、そう思っていました。
 目許の辺りは海琉によく似ていて……凄く綺麗な人だなあって……。
 でも、いろんな事があって、病気になってしまって……本当に可哀想な人なんだって──」

 語るうちに、不意に胸の中が熱くなり、目頭に涙が浮かびあがってくる。

 最初に新堂から話を聞いた時は、想像の中でしか思い描けなかった女性は、今ではずっと身近な存在として感じられるようになっていた。

 こぼれ落ちそうになる涙を堪えながら、零は言葉を継いだ。

「だけど……今なら、あなたの気持ちが少しは判ります。
 響子さんが、どんなに怖い思いをして……大切な人を失って、悲しく苦しかったかも」

 零自身は、鷲塚に助け出してもらえたから、そして彼もまた無事だったから、ここにこうしていられるのだ。

 響子の顔から目をそらした零は、ベッドの足許から離れた壁際にたたずんでいる鷲塚を見つめた。

 芭月と共に遠巻きに見守っている鷲塚は、勝手にしろとでも言いたげな表情で、ついと視線を外してしまう。

 もしかしたら、立ち入ってはいけない領域まで、自分は踏み込んでいるのかもしれない。

 本当はここに来る気も無かったのだろうが、鷲塚は零の願いを叶えるためだけに、この場に連れてきてくれたのだろう。

 そう感じながら、零は響子に意識を戻し、語りかけた。

「海琉がいてくれるから、私の心は救われたんです。
 そんなはずはなかったのに、私は小さな頃から独りぼっちのように感じていて、いつも心のどこかで寂しいって思ってました。
 だけど、海琉に会えて、傍にいられて、凄く幸せだって感じられるようになりました」

 もしも奇跡があるとするなら、何の接点も無かった二人が出会い、愛し合うようになれたことだろう。

 そして、ここにいる響子が苦悩の中で生きることを選んでくれなければ、その奇跡もまた起こりようがなかった。

「──だから、海琉をこの世界に送り出してくれたお母さんに……本当にありがとうって、言いたかったんです。
 あなたは強い人だったんだって、今は感じています。
 絶望の中であなたが海琉の命を大切に守ってくれなければ──私たちは……出会えませんでした」

 胸の奥から感情がせり上がってくると、喉が震えて声が途切れてしまい、零は涙を堪えながら唇を噛みしめた。

 その時、不意にふわりと温かな気配を感じた。

 まるで誰かの優しい腕の中に包み込まれ、そっと励まされているような感覚。

 以前にも、同じような事があった。

 夢と現(うつつ)の境で降り注ぐ、いたわりに満ちた言葉と、誰かの深く大きな愛情。

 心が壊れてしまいそうなほど追い詰められた時、あたかも救いの手を差し伸べるかのように、目に見えぬその人が抱き締めてくれていた。

 目を閉じていれば、その人の優しい顔や声が、すぐ近くにあるようで……。

 自然と流れ始めた涙を、無理に抑えることはないのだと教えられる。

 悲しみでも苦しみでもなく、この涙には、深い魂の喜びが閉じ込められているから。

 両手で包み込んでいた響子の冷たい手さえも、じんわりと温かくなったような気がして、零は目を開けた。

 すると、固く閉ざされていた響子の青白い瞼が小刻みに震え、微かに薄目を開く。

 視線が合ったと思えた瞬間、響子がほんのりと微笑を浮かべたように見えた。

 その奇跡のような淡い笑顔に息を呑んだ零は、強く手を握り締め、無意識に飛び出してきた言葉をとっさに声にしていた。

「お願いです……一度だけでいいから……海琉をちゃんと見てあげてください。
 これから先は、お母さんの分まで……私が、海琉の傍にいますから……」

 これがきっと、最期の瞬間。

 響子の目線がわずかに揺らぎ、酸素マスクの下の唇が震えるようにその名を刻む。

 まるで声なき呼び声に引き寄せられたかのように、鷲塚がベッド際の足許に歩み寄り、氷のごとき無表情で響子を見下ろす。

 冷ややかな鋼色の双瞳に映っているのは、いまわの際の衰弱しきった女の姿なのだろうか……それとも──?

 そして、響子の目から見上げる鷲塚は、全ての苦しみをもたらした恐るべき悪魔……あるいは死を宣告する無慈悲な死神にしか見えていないのだろうか?

 零が息を止めた刹那、枯れ木のように細い響子の手がすうっと上がり、鷲塚に向けて伸ばされる。

 彼女の唇が、もう一度、「海琉」と呼んでいる。

「……海琉、お願い──」

 どうか、拒否をし続けた響子の事を、許してあげてほしい。

 彼女は苦しみ続けた……愛する人を失った絶望と孤独の中で。

 命を繋ぐことだけで精一杯で、我が身から生まれた子供に愛情を注ぐ力は、きっと残されていなかったのだろう。

 零の声が届いた瞬間、鷲塚の長身がわずかに揺らぎ、途方に暮れたような逡巡が鋼の瞳に浮かび上がる。

 いつの間にか傍に立った芭月の手に背中を押されると、鷲塚は静かに足を踏み出した。

 時が遡り、初めて母親の存在を知らされ、病室に見舞いに来た幼い少年の姿が、幻影のように重なる。

 お互いの手が重なり合うのは、瞬くほどの時。

 溢れ続ける涙の向こうで、断ち切られていた絆が初めて結び合ったようにも見えた。