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目指せ 細マッチョ!



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 その日、買い物から帰ってきた零は、新堂と共にコーヒーを飲みながら、ある朝目撃した出来事をぼやいていた。

「……へえ〜、そんな事があったんですか」

 零からその話を聞いた途端、新堂は盛大にコーヒーを吹き出しそうになっていた。

 しかし話している零は真剣そのものである。

 それに、何といっても話題の主は荒神会若頭である鷲塚なのだから、ここで大っぴらに笑うわけにもいかなかった。

 腹筋にぎゅっと力を入れ、懸命に笑いを堪えながら相槌を打った新堂に、零は悩ましく溜息をつきながら話の続きを聞かせた。

「それを見てあんまりびっくりしちゃったものだから、思わず『ナルシストだったりする?』って海琉に聞いたんですけど……その後、もの凄く不機嫌になってしまって。
 でも結局、後から何やってたのか聞いても、全然教えてくれないんですよね」

 笑いを堪えているため、自分の顔が変な風に歪んでいるのを感じながら、新堂は死にもの狂いで平静さを装っていた。

 ここで一度笑い出したら、多分、腹がよじれるほど笑い続けてしまうだろうという予感がする。

 そんな自分自身の笑いのツボから意識をそらそうと、新堂は天井を仰ぎ、ふと思いついた言葉を口にしていた。

「若頭はどうだかわかんないですけど……男ってバカな生き物ですから、筋肉つくと嬉しくなっちゃって、必死で筋トレやったりするんですよね。
 腹筋が6つに割らそうと、張り切っちゃったりとか」

 それを聞いた零は、不思議そうな顔で首を傾げた。

「そうなんですか。私、そんな事、考えたことなかったけど……」

「まあ、零さんは……」

 女だし──と続けようとしていた新堂は、慌てて口を噤んでいた。

 最近、あまり考えることもなくなっていたが、零は両性具有という存在で、高校時代までは男として過ごしてきたのだ。

 それも中高一貫の男子校──周りにいたのはやりたい盛りの少年たちばかりだったと思うと、よくぞ何事もなく無事に卒業できたものだ感心するほどだった。

 それこそ奇跡だと思うのだが、それはさておき、自分をできるだけ格好良く見せたいという思春期の少年たちの健気で繊細なハートを、零は感じたことはなかったのだろうか?

 新堂はそんな事をふと思った。

「無駄な筋肉つけりゃあいいってものでもないんですけど、俺たちはほら、カタギに負けられないっていう自負もありますからね。
 高宮の兄貴ぐらいゴツければ、何もしなくても、みんな勝手に怖がってくれるでしょう?
 極道はカタギに怖がられてなんぼですからね。
 もっとも、鉛玉を撃ち込まれたら、鍛えてるかどうかなんて関係無いんですけど」

 新堂の説明を聞いて、零は少し納得したようだったが、別の疑問を抱いたようであった。

「でも、海琉が筋トレしてるとこ、見たことないですよ」

「──あれ、零さん、知りませんでした?」

 きょとんとした顔で見返してくる零に、新堂は笑いながら教えた。

「事務所の中とか、あと《コロッセウム》の中にもジムがあって、時間がある時にはマメに鍛えてますよ、若頭は。
 何もしないで、あの体格を維持できるわけないんですから。
 使ってないと、筋肉はどんどん痩せていっちゃいますからね」

 そう言いながら、新堂はふと首を傾げた。

「……でもここしばらく、確かにジム通いしてるの見てないな」

 ジムに通えなかった理由は、仕事が多くて忙しかったからなのだが、零と暮らし始める以前であれば、寝る時間を削ってでもトレーニングに当てていたはずである。

 しかし今は、この部屋に帰ることを優先させているから──。

 もしかすると鷲塚は、自分の筋肉に見惚れていたわけではなくて、痩せた事に気づいたのではないだろうか?

 独り言のように呟いた新堂の声は、幸いにも零には聞こえていないようだった。

「新堂さんもトレーニングやってるんですか?」

 興味を引かれたのか、零がそう訊ねてくると、新堂は思わず胸を張ってしまった。

「そりゃあ、俺だって筋トレ頑張ってますよ。
 効いてるな〜と思うと、確かに満足感はありますもんね」

 シャツの上から、新堂が片手でパシパシと脇腹を叩いて見せると、零のセピア色の瞳が好奇心で輝いた。

「もしかして、新堂さんも腹筋割れてる人ですか?」

「え? ええ、まあ……一応、鍛えてますから」

 何だか急に嬉しくなり、自慢したいような気分になっていた新堂の顔はにやけてしまう。

 ところが急に立ち上がった零が、

「凄〜い。触らせてください!」と近づいてきた瞬間、新堂の顔は引きつった。

「止めておけ」と諫める天使の心と、「この際だから、触ってもらえ」という下心ありありの悪魔の声が脳内で谺し、ぐるぐる回っている。

 そんな新堂の葛藤も知らず、零は無邪気に笑っているが、新堂にとって、その無邪気さが今は何より罪作りであった。

「……え? ま、まあ……いいですけど。大した事ないですよ」

 結局、あっさりと悪魔の声に屈した新堂は、「別に変な事をするわけじゃない」と自分に言い聞かせ、零の手の感触を味わわせてもらうことにした。

「わ〜、ホントだ。硬いですね〜」

 もちろんシャツの上からではあったが、感心したように腹筋を撫で回している零の手は、新堂の脳内に広がった妄想と相乗効果を起こし、かなりエロティックに感じられた。

 目を瞑っていると、そのセリフと甘い手の感触が、股間にビンビンと響いてくる。

(──や、やばいかも……)

 このまま撫でられていると、性的愛撫だと勘違いした自分の肉体が暴走しそうだった。

 切羽詰まった肉体に新堂が焦りを感じ始めた時、零は満足したように手を引いた。

「私も腹筋、鍛えようかなあ。
 仕事辞めてから、あんまり動かなくなったし。
 もっと鍛えろって、海琉にも言われちゃったし……」

 思い悩んだように、Tシャツの下の脇腹を摘んでいる零を見上げながら、新堂はほっと安堵したのと同時に落胆も感じていた。

 もう少し、あとほんの少し、天国を感じていたかったようにも思う。

 そう騒ぎ立てる悪魔の声を無視して、心に平静を取り戻すよう努力しながら、新堂は零にアドバイスをした。

「腹筋だったら……椅子とかに足を上げてクランチすると、かなり効きますよ」

 すると零は首を傾げ、新堂が座っているソファを指差す。

「これで大丈夫ですか?」

「ソファだとスプリングがあるから、反動ついちゃってダメですねえ」

「じゃあ、ダイニングの椅子で」

 そう言って、零はダイニングチェアを指し示した。

「──はい?」

 意味が判らず、新堂が思わず問い返すと、零はにっこりと笑った。

「お手本見せてください、新堂さん。
 私も今日から腹筋、頑張りますから」

 その言葉に唖然とした新堂であったが、まさかその後、とんでもない事態が引き起こされるとは想像もしなかった。




「……う、ううっ……もう…ダメ…っ」

「大丈夫、まだいけますよ、零さん──ほら、息止めちゃダメです。
 腰をしっかり下ろして、もっとゆっくり」

 眉間に深く皺を寄せ、苦しむような表情で身体を丸めている零を励ましながら、新堂はついついにやけてしまっていた。

 零の汗ばんだ顔、乱れ始めた呼吸、そして苦しみ喘ぐようなその声。

 話の成り行きで始まった腹筋運動の指導ではあったが、思いがけないほど堪能できた。

「……くっ…うう…ううぅっ──新堂さん……も、もう…無理っ……死んじゃう…っ」

 さすがに限界に達したのか、はあはあと息を大きく喘がせながら、零は床にぐったりと倒れてしまった。

 手足を無防備に投げ出し、苦しげな呼吸を繰り返して両目を閉じているが、上気して紅潮した顔と、わずかに緩んだ唇が、エクスタシーに達した時のようで艶めかしい。

 先ほど腹部を這い回った手の感触とセットで、今夜の「おかず」にするには十分である。

(いいなあ……エロくて──)

 何もない平穏な日常の中で、これほどエロティックなシチュエーションが生まれようとは、いったい誰が想像できよう。

 ましてや、ここは二人きりの密室。

 事務所に帰ったら、これは是非とも「零ちゃん親衛隊」の若いものに自慢をしなければ。

 いや、それともこれは自分の胸の中だけの甘い、甘い秘密に……。

 ところが新堂のピンク色の妄想に冷や水を浴びせるかのように、突然リビングのドアがバタンと大きく開き、険しい顔をした鷲塚が入ってきた。

 その背後では、若頭補佐の高宮が呆れたような顔をして立っている。

 鷲塚の鋼色の双眸で睨まれた途端、新堂の身体は一瞬で凍り付き、全身から引き潮のように血が引いてゆく音が聞こえてきた。

「あ、海琉──おかえり〜」

 仰向けに倒れて呼吸を整えていた零は、首を仰け反らせて鷲塚の姿を見上げると、危機感の欠片もない暢気な声でそう言った。