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高宮義仁の思い出



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 広域指定暴力団「荒神会」の若頭補佐高宮義仁は、東林総合警備株式会社の地下にある総合本部事務所のデスクで、憂鬱そうな溜息をついた。

 今日は2月13日。

 明日は2月14日──世間一般でいうところのバレンタイン・デーである。

 そして明日は、若頭補佐である高宮にとって、一年でもっとも憂鬱でもっとも長く感じられる日でもあるのだった。

 毎年バレンタイン・デーが近づくと、総本部事務所につめている直若衆たちの態度が急に浮つき始める。

 どこの誰から何個チョコレートをもらえるか──。

 どうやら彼らは、極道になった今でもそんな事が気になっているらしい。

 チョコレートの数で男の器量が決まるとは思えないが、「誰が一番多くもらえるか?」とか「何個もらえるか?」などで賭博まで行われている。

 もっとも「誰が一番多くもらえるか?」に関しては、毎年、若頭である鷲塚が圧倒的に強くて賭けにならないらしいのだが……。

 とは言え、高宮を憂鬱に陥れるのは、そんな事ではなかった。

 毎年の恒例行事になりつつある、鷲塚のオンナ零からの手作りチョコの差し入れ──そして、それに伴って行われるであろう荒神会総長の娘前嶋薫のしょうもない悪戯。

 零と薫がセットになった時、必ず騒動が巻き起こる。

 そして、その騒動の後始末をするのは、何故かいつも高宮の役目なのだった。

(今年もまた、ろくでもない事を企んでいるんだろうな、あの人は……)

 前嶋薫──本名荒神薫の明るく華やかな美貌を思い出しながら、高宮は重々しい溜息をついた。

 いわゆるアラフォー世代になった薫であるが、年齢を重ねて落ち着くどころか、全く昔と変わっていないような気がする。

 良く言えば若々しい、悪く言えば成長が見られない。

(若頭は零さんと落ち着いたからいいが、薫さんはいったいどうなることやら……)

 幼い頃からの長い付き合いなだけに、薫の行く末が、時々ひどく心配になる高宮なのだった。




「──おい、義仁。急で悪いが、お前、明日から本家で暮らしてくれ」

 高宮義仁の父、高宮信仁(たかみや のぶひと)は、荒神組の大幹部だった。

 生まれた時から極道の家で育った高宮であったが、10歳になったある日、突然父からそう命じられたのである。

 それはちょうど一学期の終業式があった日で、明日からはいよいよ夏休みという心躍る日──そうなる予定の日であった。

「……俺、明日から夏休み」

 幼い頃から極度に寡黙で口下手であった高宮であったが、さすがにその時は驚いて、普段あまり顔を合わせることもない父親に反論していた。

「悪いが、もう決まったことだ。
 お前の面倒は、本家の部屋住みになっている古谷ってガキがみてくれる。
 ついでに言っておくと、お前の役目は、本家の若とお嬢のお守りだ。
 確か……若はお前より三つ年下、お嬢の方は五つ下だったかな」

 高宮の父信仁は、口よりも先に手が出るタイプの人間ではあったが、奇妙なほど人情に厚く、人から頼られると嫌とは言えない性分であった。

 後から聞いたところによれば、この時も、荒神組組長が七歳と五歳になる子供達の遊び相手を探していると聞いて、「自分の息子で良ければ」と名乗りを上げたらしい。

 もちろん、当の息子の心情や意見などお構いなしである。

 父が決めてしまった事は、いくら反論したところで覆ることはなかったため、高宮は嫌々ながらも了承することにした。

 それ以上反抗すれば、父のきつい拳骨が飛んでくるのは目に見えている。

 明日から夏休みとはいえ、特に決まった予定があるわけでもなかったため、ここで父に逆らって痛い目をみるのはバカげているとも思えた。

 そもそも命がけで逆らうほど嫌な役目であるとは、今のところは感じていないのだ。

「……道場にはいつも通りに行く。
 あと、小遣いくれるなら、やってやるよ」

 息子の言葉を聞いて、父はあからさまにほっとしたような表情を見せた。

 この頃からその辺の子供たちとは比べものにならないぐらいに大柄だった高宮が、もし真剣に反抗していたとしたら、父親もかなりしんどい思いをしていたかもしれない。

 当時、高宮は空手と柔道の道場に掛け持ちで通っており、全国大会では双方共に連覇を果たしていたのだ。

「おお、やってくれるか──もちろん小遣いは弾むぞ。
 道場にもいつも通りに通っていい」

 単純に喜んでいる父を見て、内心で「まあ、仕方がない」と小学生らしからぬ達観した思いを抱いた高宮であったが、まさかその後、人生を決定づける運命の出会いを果たすことになろうとは思いもしなかったのである。

「予め言っておくがな、義仁。
 お嬢は素直ないい子だが、若の方はとにかく扱いづらい。
 その辺のガキと一緒だと思って油断するなよ」

 急に真面目な顔をして忠告してきた父親の言葉が、いろいろな意味で間違いであったと後に気づかされることになるのだが、この時はあまり深く考えることもなかった。




「今日からお世話になることになった、高宮信仁の長男、義仁といいます。
 ふつつか者ですが、よろしくお願いします」

 父親から教えられた通りの言葉を口にした高宮は、青々とした畳に両手をつき、丸坊主の頭を額が床につくほど低く下げた。

「お前が高宮の息子か──話には聞いていたが、本当にいいガタイしてるな」

 生成に茶と紺の縞模様が入った着物を着た荒神組組長が、感心したようにそう言った。

 庭では騒々しいほど蝉が鳴いており、真夏の太陽がギラギラと照りつけていたが、その広い和室は不思議なほど涼しく感じられた。

 床の間には二本の日本刀が飾られ、誰のものかは判らないが墨絵の掛け軸がかかっている。

 十二畳ほどあるその和室には、荒神組長の他に高宮の父親、そして壁際に小柄な中学生くらいの少年が同席していた。

 きっちりと正座をしている高宮に、荒神組長は「学校はどうだ?」とか「勉強は好きか?」などと訊ねてくる。

 体格がもともと大きく、最近は腹回りにでっぷりと脂肪がつき始めた父親とは違い、荒神組長は渋い着流しを着こなす粋な男に見えた。

 顔立ちはテレビの俳優並みに整っているのだが、ひ弱さは全く感じられず、華やかで豪放な雰囲気がある。

 凛々しい太い眉毛と、鋭く切れるような眼差しをした二枚目であり、夜の街に出歩けば、女たちが放っておかないに違いない。

(……でも、デブな親父でも、商売女には何故か人気があるからな)

 そんな事を思いながら、通り一遍の答えを淡々と返した高宮に、荒神組長は穏やかな声で言った。

「息子も娘も我が儘に育ってしまったから大変だろうが、よろしく頼むぞ。
 それから、お前の面倒は、そこにいる古谷がみてくれる」

 高宮が視線を向けると、古谷と呼ばれた少年は一瞬だけにやっと笑った。

「──よろしくお願いします」

 高宮が再び丁寧に頭を下げると、荒神組長は話をしめくくるように言った。

「古谷。高宮の息子を部屋に案内した後で、海琉と薫を紹介してやってくれ」

 古谷と共に和室を出た高宮は、立派な日本庭園に面した廊下を通って、荒神組の若衆が寝泊まりしているという離れの棟に向かった。

 廊下の角を曲がったところで、それまで黙っていた古谷がくるりと振り向き、居丈高な態度で言った。

「いいか、お前は今日から俺の舎弟だ。
 俺の事は古谷さんと呼べ。
 二人きりの時は兄貴でいい」

 背を高く見せようと頑張っているのか、仰け反るほど胸を張って、人差し指を振り立てている中学生の古谷と、まだ小学生の高宮はほとんど背丈が同じであった。

 髪をポマードで固め、オールバックのリーゼントにしている古谷だったが、背が低く痩せているためにどうにも「兄貴」という雰囲気ではない。

 しかし高い鷲鼻が顔の中で特に目立っており、眼光が鋭いせいで猛禽のような印象があった。

 上下関係に厳しい極道世界に生まれた時からどっぷりと浸かっている高宮は、口答えをせずにうなずいた。

 一日でも早く組に入った方が先輩──実際は年齢も関係ないのだ。

「──わかりました、兄貴」

 すると古谷は気をよくしたのか、弾むような軽い足取りで離れの部屋に高宮を案内し、あれこれと荒神本家のことを説明し始めた。

「ここじゃあ、俺が一番の下っ端だ。
 極道に入るにはまだ早いってぇんで、部屋住みにもなれやしねえ」

 高宮にあてがわれたのは古谷と同じ部屋で、隣室には四人ほど部屋住みの若衆がいるとのことだった。

 畳六畳の部屋は散らかっているかと思いきや、古谷は意外にも几帳面な性格らしく、物の置く場所を細かく指定され、家から持ってきた荷物は全て片付けさせられた。

「一ヶ月とはいえ、お前の住処だ──毎日、掃除しろよ。
 あと、夏休みの宿題を見てやってくれって、お前の親父さんから頼まれてるから、判らない事があったら何でも聞け」

 窓際に置かれた文机に、夏休みの宿題として出された計算ドリルや漢字ドリルなどを重ねて置いた高宮に、古谷はそんな事を言った。

 その数日後に、読書感想文を書くための本を相談してみたところ、古谷は自信満々の口調で答えた。

「谷崎潤一郎の『刺青』はいいぞ。
 短くてちゃっちゃと読める上に、エロい感じがこれまたイイ!
 前に俺もこれで読書感想文を書いてやったんだが、『女の人の裸を見ただけで、僕はハァハァしてしまいそうです。とても刺青は彫れそうにありません』とか、『ちなみに僕は足や背中よりおっぱいの方が好きです』とか書いたら、ボツになって突っ返された」

 古谷はしみじみとした表情で溜息をついた。

「男子連中には受けたんだが、国語の担当は女の先生だった。
 世界に誇る谷崎文学への中坊の素直な感想なんだからイイじゃねえか!と反論したら、読むに耐えんと言われちまったし。
 さらには太宰治の『人間失格』を読んでこいと言われるし……」

 この話を聞いた後、高宮は宿題の事を古谷に相談するのは止めようと素直に思った。