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蜜月の熱夢


<1>



 キシュラの瞳──過去と現在、そして永遠の未来を見通すという月神の眼差しは、豊穣な大地の恵みを映し出し、緑柱石(エメラルド)のように輝いているという。

 大地の果てを、広大な海洋の行き着く先までをも眺め、そして生きとし生ける者全ての心の中を覗くことができる。

 何を感じているのか、何を考えているのか……たとえ、どれほど遠く離れていても判るのなら、何も心配することなく、いつも穏やかな気持ちでいられるのかもしれない。

 かつてニミラーン王国の都ダラル・カルヴァーンが存在したタルムーズ山を、ぼんやりと眺めていたシールウェは、ふっと小さなため息をついた。

「どうかなさいましたか、シールウェ様?」

 レイアディスの竪琴を爪弾いていた指先が止まり、物憂げな眼差しを壮大な白嶺に向けたシールウェに気づき、傍に控えていた侍女のニネヴェが声をかけた。

 黄昏の藍が溶け込み始めた東天には、偃月刀の刃のごとき月が昇っており、どこか神秘的な風が流れ始めている。

 シールウェは淡く微笑むと、白睡蓮の咲き乱れる水路に浸していた足を動かし、ぱしゃんと水面を揺らした。

「……わたしの目は、時々<キシュラの瞳>と呼ばれたりするのだが、本当にそうだった事は一度も無い。
 人の心が判るのなら……こんなに惑うこともないだろうにね」

 主の謎めいた言葉から、何となくその原因を察したニネヴェは、摘み上げたばかりの凛とした白睡蓮を見下ろした。

「もしや、陛下の事でお悩みなのですか、殿下?」

 ニネヴェの言葉に首を傾げたシールウェは、ゆっくりとかぶりを振って苦笑した。

「悩むというほどではないのだが……時々不安になって、胸が締めつけられる。
 この幸せは夢で、目覚めればまた、塔の中に閉じこめられているのではないかと。
 全ては、わたしの願望が見せた、幻なのではないかと……」

「まあ、考え過ぎですわ、シールウェ様。
 きっと今は幸せで満ち足りていらっしゃるから、ふとした拍子に、その幸福を失うことが怖くなってしまうのですよ。
 大丈夫ですよ、殿下──あなた様はちゃんと、ここにいらっしゃるではありませんか」

 ころころと明るく笑ったニネヴェは、腕一杯の白睡蓮に顔を寄せ、その芳香を嗅いだ。

「このお花をお風呂に浮かべておけば、鬱々とした気分も晴れてしまいますわ。
 今宵はどうぞ、陛下とご一緒に──」

 その途端、高貴な白い美貌が恥じらうように薔薇色に染まり、エメラルドの瞳が睡蓮の花束から逸らされた。

 皇帝が誰よりも熱愛し、毎夜のように肌を重ね合わせているというのに、シールウェは未だ男を知らない乙女のように清純な戸惑いを見せる。

 それを好ましく思いながら、ニネヴェは優しく微笑んだ。

 気を取り直したように、シールウェが再び竪琴を奏で始めたその時──。

 アルムタール宮の方角から、ひどく慌てた様子で、侍女のアジサが走り寄ってきた。

「シールウェ殿下……大変でございます!
 カルシアの、ルシャリーン様が──!」

 切羽詰まったアジサの顔色を見取り、シールウェはさっと顔を青ざめさせた。

「まさか、姉上の身に何か……?」

 カルシア王国の初代女王として戴冠したルシャリーンは、公女時代とは比較にならないほどの危険にさらされている。

 ルシャリーンがどれほど武芸に秀でていても、常に身辺を警戒できるとは限らない。

 最悪の想像をしてしまい、頽れそうなほど動揺してしまったシールウェを見返し、息を切らせていたアジサが大きく首を横に振った。

「い、いえ……ルシャリーン様は、ご無事です。
 ちょうど今……アルムタール宮に、いらっしゃいまして──」

 シールウェと共に驚いていたニネヴェは、アジサの言葉を聞き、思わず息を飲んだ。

「アルムタール宮にって……何の知らせも無かったじゃないの!?」

「そうなんだけど、本当なのよ──」

 大きくため息をついてそう言ったアジサは、木立の間から見えるアルムタール宮を振り返った。

「──シールウェ! 元気にしておったか?」

 その時、宰相アスタールと後宮の警備兵に護衛されながら、カルシア王国の女王ルシャリーンが姿を現した。

 凛々しい軽武装姿のルシャリーンは、シールウェの双子の姉でありながら、あたかも生まれながらの王者のように威風堂々としている。

 かつて背の半ばまであった艶やかな黒髪はばっさりと切られ、辛うじてリボンで結べる程度に短くなっていた。

 女王というよりは、むしろ美麗なる青年王──覇気と威厳に満ちた表情や、すらりとした立ち姿からは、女性を感じさせるようなものが見事なまでに削ぎ落とされている。

 シールウェは見惚れるように姉を見つめていたが、はっと我に返ったように王者に対する礼を取った。

「お久しぶりでございます、女王陛下」

 呆気にとられたようにルシャリーンを見つめていたニネヴェとアジサもまた、主に倣うように膝を突く。

 首を傾げて苦笑したルシャリーンは、シールウェと侍女二人に立つように促した。

「そんなに畏まらずともよい。
 わたしがここにおるのは、非公式ゆえな」

 ルシャリーンの言葉に、シールウェは微笑むと、同じエメラルドの輝きを宿した双眸を見返した。

「本当にお久しぶりです、姉上──どうしておられるのかと、ずっと案じていたのですよ。
 今日は突然の事だったので、本当に驚いてしまいました」

「そなたの驚く顔を見たかったというのもあるが、仰々しい式典にはうんざりしておったゆえな。
 アスタール宰相に密書を送り、皇帝陛下に非公式の会見を申し込んだのじゃ」

 くすくすと明朗な笑い声を立てたルシャリーンは、背後に控えていたアスタールに皮肉げな眼差しを送った。

「そなたを驚かせたいと告げたら、こちらの宰相殿も陛下も喜んで同意してくれたぞ」

「わたしと言うより、陛下が大層乗り気だったのですよ。
 シールウェ様がお喜びになったお顔が見たいと──そう仰られまして。
 ここのところ、シールウェ様が少し鬱ぎ込んでおられるようでしたから、陛下もご心配なさっていたようです」

 優雅に頭を下げてアスタールはそう言い、はっと驚いたようにエメラルドの双眸を瞠ったシールウェに穏やかな微笑を向けた。

「けれど……本当に悔しがっておられましたよ。
 ルシャリーン陛下がお見えになったのが、逃げ出せない会議の真っ直中だったものですからね。
 もう少ししたらファザイア様もいらっしゃると思いますが、その前に、このわたしが女王陛下をご案内する光栄に浴したというわけです」

 シールウェが戸惑ったように瞳を揺らすと、アスタールはわずかに首を傾げ、全てを見通そうというように氷海色の双眸を細めた。

「陛下にも申し上げられないお悩みがあるのなら、どうぞこの機会に、姉上様にご相談なさってください。
 わたしは内廷に戻って、陛下がちゃんと御政務をされているか、監視して来なければなりませんからね。
 目を離すと、これ幸いとばかりに、後宮に戻って来られるかもしれませんから」

 アスタールが嘆息しながら肩をすくめると、シールウェとルシャリーンはほとんど同時に小さく吹きだしてしまった。

「まあ、大雑把なダルヴァート人に、カルシア人の繊細な機微は察せまいよ。
 それより、シールウェ、先に紹介しておこう。
 そなたもよく覚えておろうが──この者は、ダラル・カルヴァーンの神官見習いであった、キシュラじゃ。
 ヤヴァシュの神殿で一通りの神学を修め、来月からヴァルーズの神殿学院で学ばせることになった」

 ルシャリーンが振り返って手招きをすると、すらりとした長身の人物が護衛団の間から歩み出て、シールウェの前で跪いた。

「お久しぶりでございます、シールウェ殿下。
 女王陛下が推薦状を書いてくださったおかげで、この度、帝都の神殿学院に入門することが叶いました」

 月光を紡いだかのような銀色の髪、永劫の神秘を宿したエメラルドの瞳、そして神々しいまでに整った白皙の美貌──。

 月神キシュラと同じ名を持つ若者は、初めて出会った時にはまだ幼い表情が残っていたというのに、月日を経て、まさに現身の月神のごとき美丈夫に成長していた。

 その美貌は、悲しいほどに失われた月神イディスを思い起こさせ、シールウェの双眸から涙の雫が溢れた。

「──キシュラ……大きくなりましたね、見違えてしまいました」

 キシュラは静謐な微笑を浮かべると、聞く者が心地良くなるような魅力のある声で応じた。

「早く一人前の神官になりたいと、そればかりを考えて修業しておりました。
 食べるものにも、寝る場所にも困らずに学べたのは、ルシャリーン様やシールウェ様のお陰です。
 まだまだ若輩者ですが、及ばずながらも何かお役に立てれば良いと思っております。
 どうぞ、わたしにできることがあれば、何なりとお申し付けください」

「この若者は非常に優秀でな──いずれ、わたしの廷臣に加えたいと思っている。
 じゃがその前に、耄碌ジジイどもを押しのけて、キシュラ神殿の総大神官になってもらわねば困る。
 早く出世しろと、日々叱咤激励しておるのじゃ」

 ルシャリーンが面白がるように言うと、傍で話を聞いていたアスタールがわずかに柳眉をひそめた。

「なるほど……なかなか野心的な将来ということですね」

 わずかに棘のある揶揄するような言葉にも、キシュラは顔色一つ変えなかった。

 静穏な微笑を浮かべたまま、熱を帯びた眼差しで一途にシールウェを見つめている。

 崇拝というよりは恋慕に近い、夢見るような、キシュラの瞳──。

 深く冷たい水底に己の思惟が引き込まれていく……そんな錯覚に囚われそうになり、シールウェは戸惑いながら、銀髪の若者から姉の方へと視線を移した。

「……せっかく中庭にいらっしゃったのですから、四阿でお茶を頂きましょう。
 どうぞ、キシュラも一緒に──。
 ここから見る夕暮れの風景は、とても素晴らしいのですよ」

 主人の言葉を受けて、控えていたニネヴェとアジサが、慌てたようにアルムタール宮へと駆け戻っていく。

 シールウェがルシャリーンたちを楽しげに案内してゆくと、その優美な後ろ姿を見送ったアスタールは、憂えるような細いため息をついた。