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 ガス灯の明かりが濃い霧の中で揺れ、石畳の上に不気味な影を落としていた。

 アリス・フォードは、不安な心を押し殺しながら、足早に歩いていた。

 ロンドンに来て間もなく、この大都市に不慣れな彼女は、横を通り過ぎる辻馬車の音にも、いちいち敏感に反応してしまっていた。

(……怖い。どうして馬車にしなかったのだろう)

 後悔しても遅かった。

 彼女の下宿からロイヤルオペラハウスへは、歩くと思ったよりも距離があった。

 大きな道を歩いていけば大丈夫と思っていたのだが、どうやら道に迷ってしまったらしい。

 狭い路地から必死に抜け出そうと思っているうちに、どんどん違う方向に移動してしまったようであった。

(しっかりしなさい、アリス。故郷ではお転婆で有名だったじゃない)

 アリスは心の中で言い聞かせた。

「なあ、恵んでくれないか、奥様」

 突然しわがれた声が聞こえ、アリスは思わず飛び上がりそうになった。

 周囲を観察する余裕すらなかったアリスは、その時初めて自分が数人のゴロツキに囲まれていることに気づいた。

 ひっと喉が鳴り、彼女は持っていたバッグを必死で握りしめた。

「ちょっとで良いんだよ。テムズ川に浮かびたくないだろう?」

 男の声がさらに低くなり、ぎらぎらとした目で詰め寄ってきた。

 建物の壁に追いつめられたアリスは、恐怖に負けて、ぎゅっと目をつぶった。

 その時、まるで救世主のような涼やかな声が響いた。

「止めろ、おまえたち。レディに失礼だろう」

 男たちは怪訝そうに振り返り、アリスもそっと目を開けて声の主を確かめた。

 そこには艶々と光るシルクハットをかぶり、正装の黒服を着た紳士が一人立っていた。

 銀の握りがついた細身のステッキを持ち、男たちを恐れる様子もなく、悠然と構えている。

「何だ、おめえはよ!」

 ゴロツキが恫喝すると、紳士は笑みを含んだ声で応じた。

「単なる通りすがりだ。彼女から離れたまえ。
 金なら私が払ってやろう」

 その瞬間、ゴロツキたちの視線が、アリスと紳士の間を行き交う。
 彼らは、その紳士を次の獲物と見定めたようだった。

 アリスはその紳士をじっと見つめた。
 暗くて顔はよく分らないが、男にしてはずいぶんと細身だった。
 立ち姿は優雅であったが、ゴロツキ相手に格闘ができるようには見えなかった。

「さあ、いくら欲しい?」

 そんなアリスの心配をよそに、紳士は余裕のある口調で訊ねた。

「──そんなに言うなら、もらってやるよ。
 有り金全部、よこしやがれ!」

 男たちが一斉に飛びかかっていく。
 アリスは声にならない悲鳴を上げた。

 しかし紳士はまるで踊るかのような動作で男たちを交わすと、みるみるうちに、彼らを路上に叩き伏せていった。
 故郷の男たちのように筋骨逞しいわけではないのに、紳士は5人ものゴロツキを、ほぼ一発で仕留めていく。
 その動きは流麗で、全く無駄な動きがなかった。

「やれやれ。言い値で払ってやろうと思ったのにね」

 シルクハットを粋にかぶり直した紳士は、男にしてはやや高い声でそう呟くと、震えていたアリスに視線を向けた。

「さあ、お嬢さん。こんな危険な路地から早く出るんです。
 きちんとしたレディがいるべき場所ではない」

 凛とした声でアリスに呼びかけた紳士は、彼女が呆然として動けないのを見て取ると、強引にその手を取って歩き始めた。

「どちらに行かれるのです? 送っていきますよ」

 足早に歩きながら、紳士はそう訊ねてきた。

 路地から出ると、そこには二輪馬車が待たせてあった。

「あの、助けていただいてありがとうございます。
 でも、もう大丈夫ですから」

 顔を赤くしてアリスが告げると、紳士は苦笑したようだった。

「夜のロンドンは危険です。レディの一人歩きなんてもってのほかだ。
 あなたがこの路地に入っていくのを見て、慌てて追いかけてきたのですよ」

 そう言った紳士の顔を、アリスは驚いたように見上げた。
 そして、その白い容貌を認識した途端、彼女は目を見開いた。

(……なんて、美しい人)

 ガス灯の下で見る紳士の姿は、まるで夢を見ているような気分にさせた。
 双眸は漆黒、後ろになでつけられた髪も同じく黒い。つややかな髪は長く、背中のなかほどまでもあった。それを銀の飾りで結んであるため、正面から見れば、それほど違和感はない。

 だが、その恐ろしいまでの美貌は、故郷のアメリカでも、このロンドンに来てからも見たことのないものだった。神秘的なオリエントの血でも混ざっているのか、彼の白い顔は絹のような滑らかさだった。

「わたくし、アリス・フォードと申します。
 オペラ・ハウスに行く途中でございましたの。
 よろしければ、あなた様のお名前を……」

「ああ、失礼。私の名前は、ロキ・アーヴィングといいます。
 ブリストルで医師をしているのですが、今日、ロンドンに出てきたのです。
 偶然ですね、オペラハウスなら、私も行くところですよ。
 遠慮なさらずに、どうかご同行ください」

 紳士は胸に片手を当て、優雅でお辞儀をした。

 アリスは不思議な名前の紳士を見つめ、ようやく微笑みを浮かべることができた。

「変わったお名前ですわね、アーヴィング様」

 アーヴィングは軽く肩をすくめ、魅惑的な笑みを浮かべた。

「父の趣味です。北欧神話カブレだったのですよ。
 兄はジークフリートでしたけれどね。
 そっちの方がだいぶマシだったかな」

 紳士の軽やかな会話に、アリスは緊張がほどけていくのを感じた。