Rosariel.com
後宮の月


序章 1




 かつて、地上で最も栄えた王国があった。

 王族は神々の末裔であり、その治世は二千年にもおよんだ。


 やがて、王国は滅びた。

 伝説によれば、王国を滅ぼしたのは一人の王子であり、その者は美しきキシェラムであったという。


 月神キシュラを崇めていた王国は、月神の愛し子によって滅亡したのである。


 




 ユタニア大陸の中央部に位置し、南北に連なるデザフ山脈のさらに南方に存在するカルシア公国。

 この小さな公国は、遙か昔ニミラーン王国より分かれてより、連綿と古い血統を保ち続けていた。
かつて栄耀栄華を極めた王国は滅亡し、ただカルシアのみが古の聖なる血を引き継いでいたのである。

 カルシア公国の領土は、デザフ山脈から続くベレーズ高原が大半を占めている。
そのため、隣国のダルヴァート帝国やヴァル・イン帝国に比べると、公国の勢力は小さなものでしかなかった。

 しかし水と緑が豊かな住み心地の良い気候と肥沃な土壌に恵まれ、さらには良質の鉄や宝石の鉱脈を有するため、カルシアは大陸の中の一粒の宝石として繁栄していた。


 カルシア公国の都ヤヴァシュ。

  藍青に輝くキアヴール湖の畔に栄えるこの都は、月神キシュラに守護された美しい都であった。

  銀の鏡のごとき湖に、白亜の都が映し出され、幻想的にきらめく。
  優美なヤヴァシュはキシュラが住まうという月の都を思わせ、それゆえに多くの尖塔がそびえ立つ大公宮は、「月神殿」の美称が与えられていた。


 その日、ヤヴァシュの大門を一群の隊商が通過した。

  重い荷を積み上げた駱駝の首には黄銅の鈴が取り付けられ、歩くたびに調子よくリンリンと鳴り響く。
 北方からは毛皮を、西方からは革製品や羊毛を、ダルヴァート帝国からは絨毯や金銀細工などを仕入れてきた隊商は、優雅を好むカルシア人相手に一儲けしようと目論んでいた。

「どうやら無事にヤヴァシュに到着しましたなあ。今回の護衛はいつになく優秀でしたよ、ラシールさん」

 隊商の殿を護っていた護衛隊長に、駱駝に乗った商人が話しかけた。

「いい商売ができるといいな」

 大きな黒馬に揺られていた大きな男が、商人の言葉にそっけなく応じた。
 長身であるがひょろ長いといった印象はなく、がっしりと鍛えられた戦士の体格である。
 特に手綱を握る両腕は鋼の縄が縒りあわさっているようにも見えた。
 その容貌は誰もがはっとするほど秀麗であったが、銀色の双眸が異彩を放っていた。

 黒い布で頭部を覆ったラシールは、日に焼けた褐色の顔をふとキアヴール湖の方へ向けた。

 塔の畔には白い塔が立っている。

「あれは何の塔だ?」

 ラシールが問いかけると、商人はそちらに顔を向け、ああと呟いた。

「カルシアの月神キシュラの化身が住んでいる塔だそうですよ。
人々は〈キシュラの塔〉と呼んでいます」

「キシュラの化身?
神々が現れるのは、神官どもの話の中だけだと思ったがな」

 ラシールは銀の双眸を細め、皮肉げな微笑を刻んだ。
 そうすると秀麗だが厳しい面持ちが僅かに崩れ、年相応の若者の顔になる。
 猛々しくも美しい獣を思わせる戦士の顔を、商人はほれぼれと見つめた。

 商人がラシールを隊商の護衛に雇ったのは、ダルヴァート帝国の帝都ヴァルーズにおいてであった。
 ヴァルーズからヤヴァシュまでは盗賊の多い峠や過酷な砂漠を越えねばならず、護衛つきの隊商でなければ目的地へたどり着くことは不可能であり、護衛がついていてさえ襲撃されることは多々あった。
 しかしラシールが率いる護衛隊は、傭兵とは思えぬほど見事に統率されており、盗賊の被害に会うことはまったくなかったのである。


 商人との契約が終了すると、ラシールは配下である十人の戦士たちと共に商人と別れた。

「ラシール様、宿はどういたしますか」

 市場にほど近い広場で馬を止めたラシールに、美しい少女のような容貌をした若者が問いかけてきた。
 長い白金の髪、氷の海を思わせる蒼瞳、雪花石膏のごとき白い肌。
 若者は、近隣の国々では見かけることのない希有な容姿をしていた。
 その白い首には奴隷であることを示す銀の首輪がはめられている。

 砂漠は、所有者のいない女や奴隷にとっては何時殺されるか判らないほど危険に満ちた場所であった。
 そのため首輪の裏には所有者の名を刻み込む習慣になっており、その名が女や奴隷を護る護符となっていた。

 ラシールは軽く頷いて見せ、物腰優雅な若者の顔を見下ろした。

「アシュラン。湖のそばにあった塔について聞き込んでこい。
キシュラが住んでいるそうだからな」

「キシュラ? 月の神は月に住んでいるものと思っていましたがね。
まあ、情報収集ついでに聞き込んできましょう。
それで、宿はどうなさいます?」

「湖畔に面した宿を。
万が一に備えて、逃走経路は確保しておかねばな」

「承知しました。
それと、このまま出歩かれるのであれば護衛をお連れください。
何が起こるか判りませんから」

 笑みを絶やさないアシュランに、ラシールは皮肉げな視線を向けた。

「信用がないな。自分の身ぐらいは自分で護れるぞ」

「そりゃそうでしょう。わたしが守りたいのは、わたしの胃の方ですからね」

 にこりと微笑み、アシュランは恭しく腰を折ると、芦毛の馬に乗って雑踏へと消えていった。

「嫌味な奴め」

 喉の奥で低く笑ったラシールは、ふと蒼天を仰ぎ、眩しげに銀の瞳を細めた。

 ベルーズ高原では、太陽すらも常より澄んで見えた。
 どこまでも高く、透き通った空にはわずかに途切れた薄雲が浮かんでおり、それは陽光によって淡い金色に彩られていた。
 青い牧場に黄金の羊が戯れるような空模様を眺めていたラシールは、うっすらと微笑を浮かべた。


 湖に通じる運河沿いの宿に入ると、ラシールは馬から下りた。
 付き従っていた若者に手綱を渡し、ラシールはアシュランとあてがわれた部屋に向かった。

「さすがに風呂に入りたいな。身体中、砂でザラザラしている」

 麻のマントを脱いでアシュランに渡したラシールは、黒い頭布に手をかけた。
首もとまで覆っていた布をほどくと、きらめく黄金の髪があらわれた。

「ヤヴァシュの浴場は発達していますよ。
キアヴール湖が側にあるお陰ですがね。
この宿の地下にも浴場がありますが、面倒であればここに湯を運ばせましょう」

 てきぱきとした動作で荷物を片づけていたアシュランは、ラシールの剣帯を外してやった。
剣帯から優美な湾曲を描く剣を外し、壁に立てかける。

「ヤヴァシュはいい町だな。夏は過ごしやすそうだ」

「はいはい。砂を落としますから、鎖帷子もぬいで下さい」

 中庭を見下ろす窓からのんびりと外を眺めていたラシールは、アシュランに急かされて仕方なく鎖帷子をぬぎはじめた。

「そうそう、例の〈キシュラの塔〉について聞いてきましたよ。
何でも、生けるキシュラが住んでいるそうです」

「それは聞いた。その詳しい事情を知りたいと思ってな」

 ラシールが寝台の一つに腰を下ろすと、アシュランが渋い顔をした。

「寝るのは風呂に入ってからにしてくださいね。
それはそうと、そのキシュラの化身というのは、現カルシア大公ヴァラームの御子だそうです。
大公の跡継ぎであるルシャリーン姫に生き写しであるとか。
名はシールウェ。
満月の晩、キシュラはシールウェ様の身体に降臨し、民を祝福し、怪我や病に倒れた者を癒すそうです。
その奇跡の力を目の当たりにしたヤヴァシュの民は、熱狂的なキシュラの信者になっています。
キシュラ神殿には膨大な寄進物が溢れているそうですよ」

「それは有り難くない話だな。狂信者ほど扱いづらいものはない。
しかし、ルシャリーン姫に妹がいたとは初耳だ」

「それが、そのシールウェ殿下の性別が曖昧なのです。
ある者は公女だと言い、ある者は公子だと言っています。
しかし、人々は〈月神の花嫁〉と呼んでシールウェ殿下を崇拝しています。
キシュラは両性具有の神です。
それゆえか、巫女になるのは初潮前の童女と定められているはず」

 アシュランは不審そうに首を傾げた。

「ルシャリーン姫は今年で一八歳になるはずだがな。
女か男か、どちらにしても不可解には違いない」

 ラシールは無精髭の伸びた顎を撫でながら呟いた。
 アシュランは微笑んで先を続けた。

「ルシャリーン姫といえば、近隣の国々の王が、『我こそが花嫁に』と狙っているほど美しい姫君です。
ダルヴァート帝国が誇る獅子帝ファザイア陛下でさえも例外ではないほどの。
カルシアは軍事的にも経済的にも重要な国ですから、誰もがその跡継ぎである姫を手に入れようとするのは必定でしょう」

 ラシールはさも嫌そうに顔をしかめた。

「嫌な事を思い出した。しかし妙だな。
軍事的に弱いカルシアなら、姫が二人いる方が好都合なはずだ。
どうして塔に閉じこめ、世間から隠す必要がある?
公子だとすればなおさら奇妙だ」

「その辺りの謎は探る必要がありますね。
都合のいいことに今夜は満月です。
神殿にシールウェ殿下が現れるはずですから、もう少し探ってみることにします」

「わたしも行くぞ」

 ラシールの言葉に、アシュランは諦めたような表情を浮かべた。

「そう仰ると思っていましたよ」