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後宮の月


第1章

<6>



 ダルナーンが隊列を組み直すために離れて行くと、シールウェは傍らに立つ大きな戦士を見上げた。

「シャーラーン殿。隊長のラシール殿はどうなさったのですか?」

 心の動揺を悟られないように用心しながら、シールウェはそう質問してみた。

 するとシャーラーンは困り切ったような表情を浮かべ、そして苦笑した。

「あの方は……そのう、神出鬼没でして。
 緊急な用事ができたとかで、先に帝都にお帰りになりました。
 おかげで、わたしはまた、親衛隊の面倒を見なければならなくなった」

 広い肩をすくめて見せたシャーラーンは、暗い表情になったシールウェに気づくと、慌てたように言葉を続けた。

「大丈夫ですよ。心配なさらないでください、殿下。
 親衛隊長がいなくとも、我々は全力をもって殿下の護衛をいたしますゆえ、どうぞご安心を。
 隊長はいつもいないようなものですから、親衛隊の実力は今とさほど変わりません」

 かなり的はずれな言葉ではあったが、公子はその言葉に少し慰められるような気がした。

 ラシールがいないことが悲しいのか、彼が傍にいることの方が辛いのか、シールウェは自分自身の気持ちが判らなかった。



 湖畔の都ヤヴァシュの「月宮殿」に留まっていた公女ルシャリーンは、豪奢な絹のクッションにもたれたまま、形の良い薔薇色に染まった爪を噛んだ。

「姫様、爪の形が悪くなってしまいますよ」

 公女の乳母であるライアラが優しくたしなめた。

 幼い頃に母親を亡くしたルシャリーンにとって、ライアラは母親代りであり、どんな事でも相談に乗ってくれる大切な味方であった。

「ライアラも、ニネヴェの事が心配でしょう?」

 寝椅子の上に寝そべったルシャリーンは、刺繍を続けている乳母に訊いた。

「ニネヴェはしっかりした娘ですから。
 ヴァルーズにたどり着けば、何とかやっていけるでしょう」

 針を動かす手を休ませることなく、ライアラは答えた。

「姫様が心配なさっているのは、あの御方の事でございましょう?」

「あの子の事を考えると、眠れない。
 父上や神官たちに利用され、どれほど苦しんでいるでしょう。
 こんな事になる前に、わたくしはどうしてあの子を助け出してやらなかったのか」

 両腕の中に顔を埋めたルシャリーンを、ライアラはいたわしげに見つめた。

 刺繍をテーブルの上に置いた乳母は、ルシャリーンの傍に座ると、その背中を優しく撫でた。

 ライアラはひかえていた侍女たちを別室に下がらせると、ルシャリーンに言った。

「姫様、きっとこれもキシュラのお導きです。
 今までどれほど巧妙な策を練っても、シールウェ様を助け出すことはできなかったでしょう?
 今回、ヴァルーズに行かれることが、キシュラの定めた運命だったのではないでしょうか」

 その言葉に、ルシャリーンは顔を上げて乳母を見つめた。

「あの子は、わたくしの大切な半身なのです。
 わたくしは皆に守られ、何の苦労もなく育ってきた。
 皇帝に召還されたのも、本当はわたくしであった。
 それなのに、わたくしが本来受けるべき苦しみを、全てあの子が背負ってしまう」

 寝椅子から身体を起こした公女は、窓から見える月のない闇夜を睨んだ。

「わたくしは、シールウェを助けたい。
 あの子に幸福を与えてやりたいのです。

──それが、わたくしにどんな運命を与えるとしても」

「ニネヴェには、心を込めてシールウェ様にお仕えするように言ってあります。
 何か手助けができるのであれば、喜んで従うでしょう」

 微笑みを浮かべたライアラに、ルシャリーンはこくりと頷き、その肩に頭を寄せた。

「ありがとう、ライアラ。
 ……母上が生きていらしゃれば、きっとこんな事にはならなかったのに。
 シールウェもわたくしも、きっと分け隔てなく愛してくれたはず。
 父上もきっと、シールウェを可愛がってくださった」

 白い頬に、ひとすじの涙がこぼれ落ちた。

 住み慣れた宮殿は変わらず優美だったが、ダルヴァート帝国に併合されて以来、監視官の目が至ると所に光っていた。
 宮殿はまるで牢獄のように窮屈になってしまっていた。
 さながら、火竜に見張られた宝石箱のように。

 薄幸の弟シールウェの身を片時も忘れず案じながら、ルシャリーンは露台に出た。

 公女は重いため息をつき、満天の星空を仰いだ。

「今宵は新月。……イディスはシールウェを守ることができない。
 キシュラよ、どうしてシールウェにこれほど過酷な運命をお与えになったのです?」

 月に住まう神に問いかけた公女は、しかし天啓を期待していたわけではなかった。

 鮮やかな緑柱石の瞳を煌めかせたルシャリーンは、糸杉のように優美な身体を翻した。

 
 靄う夜気が宮殿を満たし、大半の者は睡りに沈んでいた。
 深青の天鵞絨(ビロード)に包まれたような闇の中を、公女は足音を立てずに密かに歩み、まだ眠りについていない父親の私室を訪れた。

「どうした、ルシャリーン。こんな夜中に?」

 驚いたヴァラームは愛娘を部屋の中に招き入れ、豪奢な長椅子に座らせた。

「いつまでわたくしは身を隠さねばならぬのです?
 毎日、毎日、外に出ることすらできず、息がつまりそうです。

 父上、わたくしをどうか狩場に出かけさせて下さい。
 このままでは、気が狂ってしまいます」

 するとヴァラームは厳めしく顔をしかめ、ゆっくりと頭を振った。

「ならぬ。そなたは大切なわしの世継ぎなのじゃ。
 ダルヴァート帝国との関係が安定すれば、また元のような生活に戻れる。
 それまでは我慢するのじゃ、ルシャリーン。
 そなたに万一の事があれば、カルシアはどうなると思う」

「夜までには戻って参ります。
 ──護衛も連れてまいりますゆえ。
 それに、父上もわたくしの馬や剣の腕を知っておられましょう?
 並大抵の男には負けませぬぞ」

 公女がどんなに頼んでも聞き入れなかった大公は、しかし最後には娘に根負けし、渋々と頷いた。

「わかった、わかった。行ってくるがよい。
 ただし、そなたはここに存在しないことになっている。身を隠して行け」

 するとルシャリーンは顔を輝かせ、父親の首に抱きついた。

「ありがとうございます、父上。それと、エシュタフトの手綱を取ることをお許しくださいますか?」

 公女の言葉を聞いて眉根を寄せたヴァラームは、苦々しい笑みを浮かべた。

「──あの駿馬は我が国が誇る宝。
 あれに乗りたいのであれば、気をつけることじゃ。
 漆黒の身体の下に、烈火のごとく炎が渦巻いておるゆえ」

 ルシャリーンは大輪の薔薇のごとき微笑を浮かべた。

 そして緑色の大理石の床に片膝をつき、大公に深く敬意を表した。

「感謝します、父上。必ずヤヴァシュに戻って参りますゆえ、ご安心を」

 ルシャリーンはそのまま自室には戻らず、闇に身を隠しながら、大公宮内にあるキシュラ神殿を訪れた。
 そこは、大公家に連なる者たちが、祈りを捧げる場であった。

 音もなく静まりかえった神殿の中は、篝火によって照らされていた。

 正面の台座の上には、4本の腕を持つキシュラ像が立っている。
 白い顔は美しく端麗であり、双眸をわずかに伏せた眼差しは悲しげにさえ見えた。

 額には大きなエメラルドが輝いている。
 それは全てを見通すキシュラの「真実の瞳」であり、その巨大なエメラルドはニミラーン王家から伝わるという宝石であった。

 キシュラの上半身は少年のようにほっそりとしながらも、鍛えられた戦士のように引き締まっている。
 四つの手にはそれぞれ、銀の天秤、玉、錫杖、剣があった。
 くっきりとくびれた腰から下のしなやかな曲線は女性的であり、官能的ですらあった。
 キシュラの足下には、銀の満月を模した大きな鏡が置かれている。

 ルシャリーンは、キシュラ像の前で片膝をついて頭を垂れると、意を決したかのような表情ですらりと立ち上がった。

 公女はキシュラ像の一番左の手から剣を取り上げた。
 ずしりと心地良い重みを感じ、ルシャリーンは微笑みを浮かべた。 

 神剣はまるであつらえたかのように公女の手の中に収まった。
 鞘から剣を抜くと、シャンと鈴を鳴らしたような音がする。
 まるで三日月のような曲線の剣は、ルシャリーンを待っていたかのような澄んだ光を放った。

「──キシュラよ、我がカルシアの宝剣をお借りいたします」

 剣を鞘に収めたルシャリーンは、振り返りざま、思わずぎょっとして一歩後ずさった。

 そこには、白い長衣をまとった男が立っていた。
 長い髭が胸元まで垂れているが、その顔はまだ若々しく、威厳があった。

 銀糸をふんだんに使った帯と外衣をまとった男は、灰色の目に疑惑を浮かべ、ルシャリーンをじっと睨んでいた。

「ルシャリーン殿下。こんな夜中にどうなさった?」

 その問いかけに、ルシャリーンは優雅に一礼した。

「大神官ヴァルムード様。わたくしはあなた様の祈りを妨げてしまったでしょうか?」

 首を傾げて無邪気に微笑んだルシャリーンに、大神官は冷ややかな眼差しを向けた。

「人は姿形で本質を判断しようとする。
 しかし殿下の美しさは、見事に正体を隠しておりますな」

 髭の下で冷笑を浮かべたヴァルムードに、ルシャリーンは軽く肩をすくめて見せた。

「何の事を仰っておられるのか判りません。
 それより、しばらく神剣をお借りいたします。父上の許可は得ておりますので。
 ──それでは、ご機嫌よう」

 あまりにも無礼な言葉に怒りを覚えながらも、ルシャリーンは微笑みを浮かべていた。

 そんな公女の顔を睨み、ヴァルムードは持っていた杖で床を強く叩いた。

「何故、シールウェがヴァルーズに行かねばならなかった。
 あれは紛れもなくキシュラの化身であったというのに」

 立ち去りかけたルシャリーンは、微笑を消し去り、大神官を振り返った。

「それは父上がお決めになったこと。わたくしには逆らえませぬ」

「皇帝がシールウェの純潔を汚せば、キシュラはもはや地上には降臨せぬ。
 それはカルシアにとって、大いなる損失なのだぞ!」

「シールウェを利用していたのは、そなたらも同じ。
 あの子がいなくなって一番困るのは、大神官、そなたでしょうね」

 ルシャリーンは全てを凍てつかせるほど冷たい微笑を浮かべた。

「わたくしは知っているのですよ、そなたがシールウェに何をしてきたのか。
 最初は父上の耳に毒を注ぎ込み、そして無垢なあの子の心につけ込んだ。

 わたくしは、そなたの汚らわしい下心を知っている。
 今の地位を失いたくなければ、これ以上、わたくしを怒らせないことです」

「黙れ! シールウェはわしのものだ。
 命を奪おうとするヴァラーム公から助け出し、巫女として育てたのは、このわしだ!
 あの美しいキシュラを、どうして野蛮なダルヴァート人になど差し出さねばならん!!」

 歯ぎしりをした大神官を、ルシャリーンは冷めた目で一瞥した。

「……愚かな。シールウェは誰のものでもない。
 誰かを伴侶として選ぶとしても、それはあの子が決めること。
 そなたの出る幕はないのですよ、大神官」

 そう言い残し、ルシャリーンは足早に神殿から立ち去った。

「女狐めが。キシュラはわしのものだ。あの美しい身体も、力もな」

 低く罵り、ヴァルムードは正面の美しいキシュラ像をじっと見つめた。


 黎明の最初の陽射しが窓から差し込んできた時、ルシャリーンは侍女たちに命じた。

「わたくしは狩場に行きます。護衛の者に伝えておくれ。それから、衣装の用意を」

 公女に仕える美女たちは、急な命令に驚いたようであったが、それでも慌てずに命令に従った。

 男のような身なりを整え、被着のかわりにマントを羽織った公女は、宮女たちが思わず見惚れるほど凛々しい騎士姿になった。

「剣を誰か持ってきておくれ」

 その言葉を聞き、侍女たちは争うようにして剣を取りに行き、勝ち取った者が恭しく公女に宝剣を差し出した。

 狩猟用の弓矢も準備させた公女は、厩舎に赴くと、カルシア最上の名馬と謳われる青毛のエシュタフトを引き出した。

 厩舎係の侍童は呆気にとられたように目を見開いていたが、急いで馬に鞍をつけた。

 ルシャリーンはエシュタフトに近づいて轡(くつわ)をつかむと、鐙(あぶみ)に足をかけ、軽やかに飛び乗った。

「さあ、エシュタフト、私のために働いておくれ。
 そなたには見えない翼がある。
 今の私には、その翼がぜひとも必要なのだから」

 艶やかで優しい声で話しかけられると、夜を凝縮したかのごとき漆黒の馬は、大人しく耳をそばだてた。

 護衛の者を従えたルシャリーンは、城門を抜け、広々とした草原へと向かった。

 キアヴール湖に立つ塔を横目で見た公女は、微かに眉宇を曇らせたが、決然とした表情で前方を見据えた。

 草原は天上の庭のように広く、青草が生い茂っていた。

 この季節には滅多に人も訪れないため、狩場は羚羊、兎、鹿などの遊び場になっていた。
 彼らを狙う草狼や狐の姿もちらほら見えた。

 矢を放ち、狩猟に興じる護衛たちを注意深く眺めながら、ルシャリーンはエシュタフトの歩みを止めた。

 それに気づかず、護衛兵はどんどん公女から遠ざかっていく。

──その時、突然、草原に甲高い悲鳴が響き渡った。