Rosariel.com
後宮の月


第1章

<7>



 護衛たちは馬を止め、背後を振り返った。

 見れば、ルシャリーン姫を乗せたエシュタフトが、もの凄い速さで走り去っていく。

 気性の荒い青毛が暴走したと察し、護衛たちは慌てて馬の後を追った。

 しかし、エシュタフトは他のどんな馬もかなわぬほど駿足であった。

 夜になるまで公女の姿を必死で探し続けた彼らは、結局、エシュタフトの足取りを追う事ができなかった。

 絶望して帰路についた護衛たちは、心に重くのしかかる苦痛と悲嘆を抱え、宮殿に戻った。

 そして、落雷のごとき怒りを大公から受けたのである。

 首がはねられるかに思えた時、大公が衝撃のあまり床に倒れ、気を失ってしまった。

 慌てて侍医を呼びにやったが、大公の激しい苦悩と悲嘆は晴れず、そのまま病床に伏してしまったのである。

 一方、エシュタフトの背に跨ったルシャリーンは、疾風のごとき速さで帝都ヴァルーズを目指していた。

 一人きりの騎士を襲おうとした盗賊たちも、黒馬の駿足には到底適わなかった。

 公女は昼も夜もほとんど休まずにベルーズ高原を駆け抜け、たった四日で国境であるサマイア砂漠にたどり着いたのだった。


 ルシャリーン姫が追ってきているとは夢にも思わない一行は、ヘラン山地を越えると、果てしなく続く平原を行進した。

 丈の短い草の海原に、石畳の大陸街道が真っ直ぐに延びていた。

 もはや盗賊に出会う危険はほとんどなく、あと五日もすれば帝都ヴァルーズに到着する予定であった。

 やがて、長い旅もようやく終わりにさしかかり、帝都まであと一日の行程となった使者団は、深い安堵と共に最後の夜営を行った。

 慣れない旅に身体は極限まで疲労しており、シールウェは立っているのさえやっとであった。

 早く床についたにも関わらず、心と不安が恐怖に苛まれ、シールウェはなかなか眠りにつくことができなかった。

「ダルヴァート帝国の皇帝ファザイア陛下……か」

 シールウェはぽつりと呟いた。

 ルシャリーンから聞いた話では、ファザイア帝は覇気に満ち、絶対的な権力を持つ恐ろしい男であるそうだった。

 大陸最強と謳われる帝国の軍事力を背景に、近隣の小国を併合していく。
 領土は拡張し、今やその版図は西は聖エレヴィア王国、東はヴァル・イン帝国と接するまでになっていた。

 シールウェは思わず顔を覆っていた。

 もし、自分がルシャリーンではないとばれたら、その前にキシェラムというこの忌まわしい身体が不興を買ったら、どうすればいいのだろう。

「おまえは忌まわしいキシェラムだが、幸いなことに男に抱かれることのできる身体だ。
 顔もルシャリーンと区別ができぬほどよく似ている。

 その美しい顔と淫乱な身体で、皇帝を虜にするがいい。
 あの大神官を誑かしたのと同じ方法でな。

 だが、おまえはルシャリーンの身代わり。
 我が娘の名を汚すような真似をすれば、わしはどんな方法を使ってでも、おまえを殺すだろう」

 父親であるはずの大公は、まるで汚いものを見るような目でシールウェを見下ろした。

 その冷ややかな眼差しに傷つきながらも、シールウェはヴァラームの前に頭を下げた。

 明日はヤヴァシュを離れなければならない。
 せめて一言でも優しい言葉をかけてもらえれば、シールウェは喜んで父や姉、そして祖国カルシアのために命を捧げただろう。

 しかし、ヴァラームは決してシールウェを己の子だとは認めなかった。
 その瞳の中に親子の情愛はなく、ただ突き放すような無表情があるばかりだった。

 寝返りを打ったシールウェは、肩に掛かっていた毛布を引き寄せた。

「父上、あなたはわたしに皇帝に抱かれろと仰った。
 けれど純潔を失えば、わたしはもはや巫女ではなくなる。
 わたしの存在理由は、何一つ無くなってしまうのです。

 ──ただの人形として生きろと、父上は仰るのですか?」

 胸の中で、シールウェは父親に問いかけた。

 双眸に涙が溢れ、シールウェは自分の身体を強く抱きしめた。

「……まだ少ししか世界を見ていないというのに、世界はこれほとまでに美しいというのに、わたしは決して自由に羽ばたくことはできない」

 低く呟き、シールウェは目を閉じた。

 塔の中では、外の世界がどれほど美しいものなのかは想像さえできなかった。

 灼熱の砂漠でさえ、夜と夜明けは筆舌尽くしがたいほど美しい。
 なだらかな草原も山も空も、全てが光り輝いているように思えた。

 世界は力に満ち溢れ、強い美酒のように公子を魅了した。

 そして、何よりも心を奪われたのは、あたかも太陽神のように輝いている男だった。
 陽光を思わせる黄金の髪、稲妻のような銀の双眸、鎧のような筋肉を秘めた褐色の体躯。
 彼はまるで、誇り高く美しい黄金の獅子のようにさえ見えた。

──だが、彼はわたしが姉上ではないと知っている。
 違うと判った以上、皇帝に告げる義務があるだろうし、すぐに帝国は報復に転じるだろう。
 そうであるのなら、何故親衛隊は、公女でもない自分を公女として遇し、護衛しているのか。

「……諸国への見せしめのために、わたしを帝都に?」

 そこまで考えが至った途端、シールウェの身体はがくがくと震え始めた。

 カルシアの裏切りを万人の前で明らかにすれば、宣戦布告の格好の口実となる。
 帝国軍の侵攻は素早く、そして苛烈を極めるだろう。
 ダルヴァート帝国に従属する国々は、それを見て震え上がるに違いない。

 皇帝の親衛隊はシールウェを護衛するため、今もこの天幕を守っているはずだった。
 しかし隊長であるラシールは、帝都ヴァルーズに緊急で戻ったという。

 恐らく、皇帝に真実を報告するために。

 その事実があまりに悲しく、シールウェは胸をかきむしられるような痛みを覚えていた。

 様々な事を思い巡らせているうち、目が冴えてしまっていたシールウェは、不意に天幕に何者かが近づく気配を察した。

「──そこにいるのは誰です?」

 小さく誰何の声を上げると、闇の中からヒルダーンが現れた。

 シールウェは寝台の上に身体を起こし、近づいてきた戦士に訊ねた。

「わたしに何か用でもあるのか、ヒルダーン?」

 ヒルダーンは苦々しい微笑を浮かべ、寝台の端に腰を下ろした。

「別れの挨拶をしにな。……仰々しく帝都に入るのは趣味じゃないんでね」

 シールウェは驚いて目を見開いた。

「では、別の道を行くと?」

「ああ。ま、短い間だったが、あんたには楽しませてもらった。
 あんたの身の上に災厄が降りかからないように、俺なりに祈らせてもらうよ。
 俺みたいな不信心者の祈りは、あんたの神を怒らせるだけかもしれんがね」

 ヒルダーンは暗がりの中で笑うと、いきなりシールウェを組み伏せた。
 公子の唇から零れる抗議を封じるように、深く唇を重ねる。

 苦しさのあまり身をよじったシールウェは、何度も男の胸を叩いた。

 激しい情熱を込めて何度も唇を貪るうちに、強ばっていたシールウェの身体から力が抜けた。

 男を押しのけようとしていた腕が、力なく寝台の下に落ちる。

 ヒルダーンは、あまりの衝撃に気を失ってしまったシールウェを見下ろし、深くため息をついて苦笑した。
 白い頬には涙の跡がある。

「やれやれ、とんだ箱入り娘だ。カルシアの娘は床上手だと聞いていたんだがね」

 欲情に光る双眸を細め、ヒルダーンは低く呟いた。

 そしてシールウェのちょうど耳のすぐ後ろの首筋に唇を這わせると、淡い花びらのような痕跡を残した。

「ここでこいつを抱いてしまうと、皇帝陛下はえらくお怒りになるに違いない。
 ……まあ、この辺で止めとくとしよう」

 自分に言い聞かせるように独白すると、ヒルダーンは身体を起こした。

「あんたの幸運を祈るよ、公子様」

 最後にシールウェの白い額に軽く口づけると、ヒルダーンは音一つ立てず、闇の中へと姿を消した。


 夜が深まった頃、シールウェの天幕を護衛していた親衛隊の兵士が微かにざわめいた。

「どうなさったのです、こんな夜中に」

 突然、帝都にいるはずのラシールが現れ、シャーラーンの天幕に入ってきた。

「様子を見に来た。公女は無事か?」

 闇のような漆黒のマントをはずすと、ラシールはシャーラーンに渡した。

「姫はご無事です。しかし、お一人で来られたのですか、ここまで?」

 呆れたような口調のシャーラーンに、ラシールは悪戯っぽく片目をつぶって見せた。

「口うるさい奴がいるから、ここに来たのは内緒にしておけ。
 ばれたら、それこそ何を言われるか判ったものではない。
 たまっていた仕事を片づけてきたから、文句を言わせるつもりもないがな」

「同情申し上げますよ、宰相閣下に」

 シャーラーンが嘆息とともに呟いた。

 ラシールはシャーラーンと共にシールウェの天幕を訪れると、音を立てないように注意しながら中に入り込んだ。

 寝台の横に立ったラシールは、深い眠りに落ちているシールウェの顔を見下ろした。

 顔にかかる長い髪をそっと払ってやる。
 何故か小さな白い顔が悲しげに見え、ラシールは秀麗な顔に憂いを浮かべた。

 ラシールはシールウェの枕元に片膝をつくと、寝台から落ちていた腕を取り上げた。
 忠誠を誓う騎士のように、手の甲に接吻すると、そっと毛布の中に戻してやる。

 顔の両脇に手をついたラシールは、シールウェの唇と額に、羽毛がかすめるような口づけを落とした。

「もうすぐだ、シールウェ。そなたが来るのを、帝都で待っている」

 耳元で小さく囁いたラシールは、ふと白い首筋に視線を落とした。
 そこにはまるで所有の証のような赤い跡があった。

 それを見た時、ラシールの胸の裡を言いようのない感情が吹き荒れた。

 それを見るまでは切なさや愛おしさがいり混ざった暖かな気持ちであったというのに、次の瞬間には凍り付いたようだった。

 氷の中から、やがて灼熱の溶岩が吹き上げてくる。

 大切に思い、どんな事をしてでも守りたいと思う存在が、この時は陵辱し破壊し尽くしたいという衝動を覚えさせた。

 凶暴な感情に押し流されそうになりながらも、ラシールは双眸を閉ざし、辛うじて理性に踏みとどまった。

 再び目を見開いた時、ラシールの瞳はひどく暗い影を宿していた。

 彼は憎しみさえ覚えるその場所に唇を落とすと、歯を立て、透き通るほどに白い首筋をきつく吸い上げた。

 その感触に、シールウェの瞼が震えた。

 所有の印を刻みつけたラシールは、もう一度シールウェの唇に口づけを与えた。

 天幕から出ると、シャーラーンが厳めしい表情をして待っていた。

「酔狂もほどほどになさいませ。
 姫はあなたがこれまで相手にしてきた女たちとは違います。
 ──純粋で無垢な方なのですから」

 ラシールは憂鬱な気分でシャーラーンを睨んだ。

「さあ、どうであろうな。それに、まだ何もしていないぞ、わたしは」

 その言葉を聞き、シャーラーンはわざとらしく驚いてみせた。

「おや、夜這いをかけに来られたものと思ってましたがね。
 百戦錬磨のあなたが、まさか一目惚れをしたなんて、今でも信じられませんよ」

「アシュランの毒舌がうつったようだな、そなたも」

 肩を並べて夜営地を歩きながら、ラシールはじろりと横目で睨んだ。

「まさか、あの方の足下にも及びませんよ。
 それより、ルシャリーン殿下のことで、少々気になることがありまして」

 ラシールは歩みを止め、感情を消し去った顔で有能な部下を見た。

「あのバイル族の戦士です。どうやら、姫に興味を持ったようで、ずいぶん接近しています。
 物静かな姫にしては、よく話をしている様子。
 殿下も憎からず思っていらっしゃるのではないかと」

 シャーラーンの言葉を聞き、ラシールの銀の双眸がすっと細くなった。

「姫が、あの男に惹かれているというのか?」

「それはまだ判りません。ただ、あの方の微笑みは全てを魅了するようです。
 親衛隊にさえ、あの方のために命を投げ出しそうな者がおります。
 カルシアの護衛隊も骨抜きにされているようですし……」

 シャーラーンは深くため息をつき、表情を改めた。

「わたしはルシャリーン殿下に好感を抱いております。
 しかしお怒りを覚悟で申し上げれば、あの姫は危険です。
 あなたでさえも虜になった。
 姫の意志とは関係なく、周囲の者が心を乱される。
 そこから何が生じるのか、神々でなければ予測もつかぬことです」

 真剣なシャーラーンの顔を見返し、ラシールはぎらりと双眸を光らせた。

「その言葉、絶対に公女の前では口にするな。
 あれを傷つけるような言葉は、そなたとて許さぬ。
 わたしは確かにあの姫に惚れたかもしれぬ。
 だが溺れてはおらぬし、あれを『傾国』にするつもりはない」

 その言葉に、シャーラーンは無言で深く頭を下げた。

「それより、バイル族の戦士を見張れ。
 これ以上公女に接近させてはならぬ。
 もし不埒な真似をした時は、拘束してわたしの前に引っ立てよ」

 ラシールはそう命じると、荒れ狂う感情をなだめるように深呼吸をした。

 何故これほど動揺するのか、自分自身でもよく判らなかった。
 常に冷静沈着であれと教育され、それに応えてきただけに、ラシールは感情を制御できないことに苛立ちを覚えていた。