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後宮の月


第1章

<8>



 やがて、夜の翼から明けの明星がこぼれ落ち、黎明を迎えた。

 深い眠りに落ちていたシールウェは、心が穏やかになり、何故か満ち足りた気分で目覚めた。

 夢の中で、誰かが優しく抱きしめていてくれたような気がしていた。

 天幕から外に出たシールウェは、草原に上る朝日を見た。

 燃え立つ炎は地平線を紅に染め上げ、空は東からどんどん明るくなってゆく。

 不意に、シールウェの緑柱石の瞳から涙がこぼれ落ちた。


──キシュラよ、感謝いたします。
 たとえ再び幽閉されることになろうとも、私はこの光景を一生忘れることはないでしょう。

 地に落ちた涙は、銀水晶のような光を放って弾け、朝靄に包まれて露を吹くんだ青草の一粒の雫となったのだった。


 緩やかな丘を上りきったところで、カルシア人を先導していたダルヴァートの親衛隊が進行を止めた。

 シャーラーンが公女の輿まで近づいてくると、片膝をつき、恭しく一礼した。

「──殿下、ここは<ニディールの丘>と申します。

 ダルヴァート代々の皇帝たちが、凱旋の度に馬を止め、帝都ヴァルーズの全景を見渡した場所。
 どうか、殿下のお住まいになる都の風景を、ご覧ください」

 シャーラーンに導かれ、丘の頂上に立ったシールウェは、眼前に広がる光景を見つめた。

 丘陵の向こう側には、途方もなく広大な谷間が広がっていた。

 森や林は瑞々しく光り、大きな河が谷間に横たわっている。

 そして、緑豊かな谷間のほぼ中央に、帝都ヴァルーズが広がっていた。

 カルシアから続く街道は真っ直ぐに帝都に吸い込まれ、美しく舗装されているためか銀色の道のようにも見える。

 丘を下った所から、まるで旅人を歓迎するかのように、街道の両側には糸杉が等間隔で植えられていた。

 都の中央にはいくつもの天蓋を戴いた宮殿、その周囲には空高く聳える幾多の尖塔。

 宮殿や神殿の天蓋は、ほとんどが青と金銀で装飾され、他は白を基調としていた。

 大河からはいくつもの運河が通され、水路が都の隅々にまで行き渡っている。
 その両側にはやはり糸杉が植えられているようだった。

 街路は全て真っ直ぐであり、町は白くきらきらと輝いていた。

 驚くほど多くの公園があり、そこには必ず豊かな緑と銀の流れがある。

 宮殿以外の家にも中庭が必ずもうけられているらしく、白い建物の中心には緑の彩りが見られるのだった。

「青と緑と白……まるで、楽園を見ているようです。
 ヴァルーズは、本当に豊かな都なのですね」

 壮麗ではあるが、どこか開放的な都を見つめていたシールウェは、横に控えていたシャーラーンを振り返った。

 シールウェの言葉を聞くと、彼は嬉しくて仕方がないといった様子で笑った。

「我が都と呼べるのは、このヴァルーズだけです。
 ヴァルーズは我々の誇りであり、大切な故郷でもある。
 異国にいる時などは、無性にヴァルーズが恋しくなりますからな」

 シャーラーンはシールウェを暖かな眼差しで見下ろした。

「殿下には、ぜひこのヴァルーズを気に入っていただきたいものです。
 月の都が恋しくなることもありましょうが、ヴァルーズは地上の都。
 ──もちろん、癇癪を起こした女のように、乾燥して埃っぽくなる時期もありますがね」

 その後、シールウェは侍女たちの手によって、カルシアの正装に着替えさせられた。

 ダルヴァート帝国の豊かさに圧倒されたカルシア人であったが、こちらもニミラーン王国の末裔という矜持がある。

 相手がどれほど豪奢であっても、優美さならばこちらも負けない。

 そういう思いからか、侍女たちは異様にはりきっていた。

 羽のように軽い白絹の長衣を着せられ、その上から襞の多い玉虫色の衣をさらに重ねる。
 袖は広く、緩やかに波打っており、袖口に小さな宝石が波模様に縫い込まれていた。

 胸の下あたりから、何連にも連なった繊細な銀細工の帯を締め、その上から袖の無い膝丈までの胴着を着させられた。
 それには金糸銀糸で複雑華麗な模様が描かれており、いたるところに宝石が輝いている。

 衣装が段々と重くなっていくことを実感しながら、シールウェはふと思った。

 どれほど美しく装わされたとしても、結局自分は籠の中の鳥でしかない。
 美しく歌うことができなければ、すぐに用済みになってしまうのだろう。

 髪を複雑な形に結い上げられ、いくつもの髪飾りをつけた後、侍女たちはシールウェの首に大きなエメラルドの首飾りをつけた。

 彼女たちは少し離れた場所からシールウェを見つめると、皆一様にため息を漏らした。

 自分たちの作品の出来映えが思った以上に素晴らしく、感激しているようだった。

 最後に完璧な化粧が施され、薄く透けるヴェールを頭から下ろされると、長い作業はようやく終了した。

 鏡の前に立たされたシールウェは、そこに恐ろしいまでに妖艶な女が立っているのを見た。
 華麗な衣装と宝石で飾られ、男を誘惑するかのように作られた顔。

 もし、皇帝が気に入らないと思えば、カルシア公国は存続できなくなるかもしれない。

 シールウェがルシャリーンに代わって皇帝を誘惑できなければ、カルシアのもくろみは全て崩れてしまうのだ。

 そう悟った瞬間、シールウェはこれらの衣装全てが、己を縛り付ける鎖のように思えた。



 皇帝が住まう宏壮な宮殿の城門は、白大理石に輝く馬蹄型の門であり、その四方には高い四つの尖塔が天を貫く槍のように立っていた。

 宮殿の前庭には、帝国中から集まった使節でごった返していた。

 謁見の間に入りきれなかった者が、様々な異国情緒に富んだ献上品を携え、そこに並んでいるのである。
 獅子の子を連れた者や、驚くほどに首の長い獣を連れている者もいた。

 最初は好奇心に満ちた目を各国の使節団に向けていたシールウェだったが、カルシアの使節が謁見の間に入る順番が回ってくると、途端に胸がしめつけられた。

 息がつまるような気分になり、顔が青ざめる。

 なだらかな傾斜を上がって皇宮に入った使節団は、高い円柱で囲まれた謁見の間の入り口を抜けた。

 そこは太い支柱が立ち並ぶ広大な広間だったが、何百人もの人々と膨大な献上品の山でひしめき合っていた。

 華やかな色彩と喧噪に満ちた広間は、呆れ果てるほどに慌ただしかった。

 そこに皇帝の姿はなく、不思議の思った公子が首を傾げていると、近くにいたダルナーンが大声で説明した。

「皇帝がいる場所は、ここと壁一つ隔てた奥の広間です。
 諸国の使者は順に拝謁し、貢ぎ物を捧げます。
 ここは騒々しいし、何より臭すぎますからな」

 ダルナーンは鼻に皺を寄せていた。

 確かに、使者達が焚きしめた香や香水の香りが様々に入り混ざったせいで、広間には奇妙な臭気が漂っていた。

 微かに笑みを浮かべた公子は、徐々に人が少なくなっていく前方を見つめた。

 途端に緊張感が押し寄せ、呼吸することも困難になった。
 胸が苦しく、締め付けられていく。

 息を喘がせたシールウェは、無意識に喉を押さえていた。

 やがて、式部官に案内され、奥の部屋まで進んだ使節団は、廷臣の居並ぶ威厳に満ちた部屋に思わず息を飲んだ。

 その部屋まで、外の喧噪は入り込んでこなかった。

 荘厳華麗な大広間には重い静寂が立ちこめている。

「カルシア公国の公女ルシャリーン殿下、および使者の方々」

 式部官がおごそかな声で声を張り上げた。

 広間前面の高い壇上には、豪奢な黄金で飾られた玉座が置かれていた。

 玉座を囲んでいる深紅の華麗な帳は、金糸ときらめく紅玉で飾られ、壮麗さを深めていた。

 そしてそこに座するのは若き皇帝ファザイアであり、彼の鋭い視線はカルシアの使節団に向けられていた。

 内心で震え上がった使者の代表が、ゆっくりと前に進み出て、跪き、両手を広げて恭しく皇帝に拝謁した。

「偉大なるダルヴァート帝国の君主ファザイア陛下に、カルシア公国ヴァラーム大公殿下よりの貢ぎ物を献上いたします」

 代表がカルシア大公の挨拶を長々と伝え終わると、輿の中にいたシールウェは侍女に手を撮られ、薄絹の帳の外へと連れ出された。

  公子が分厚い絨毯の上で両膝をつき、皇帝の前で額ずくと、居並ぶ廷臣の間からため息にも似た感嘆が漏れた。

 彼らは公女の類い稀なる優艶な姿に一目で魅了され、視線で最大の賛辞を送った。

 微かにざわめいている廷臣の中で、1人の貴族が隣にいた若く優美な宰相に囁いた。

「ずいぶんと儚げなお姫様だが、本当に大丈夫なのか?」

「静かに、ハイファル卿。公式行事に出席した時くらい、大人しくしていなさい」

 稀有な白金色の長い髪を編んだ優美な宰相は、美しい顔に厳しい表情を浮かべ、長身の貴族を睨んだ。

 宮廷一の教養人であり、漁色家としても名高いハイファル卿は、髪と同じ漆黒の瞳を悪戯っぽく輝かせ、最も若年の宰相に流し目を送った。

「私も散々苦労させられたのだから、少しは教えてくれてもいいんじゃないか、アスタール閣下」

 瞳と同じ黒い衣装をまとい、数は少ないが精巧で洗練された銀の装飾をつけたハイファル卿は、あたかも闇から生まれ出たかのような雰囲気があった。

「お断りします、閣下。苦労をさせられたのは、私も同じですからね」

 優しい雰囲気にはそぐわない棘のある口調で言ったアスタールは、氷海色の瞳でカルシアの公女をじっと見つめた。

 極度の緊張で、シールウェの身体は小刻みに震えていた。
 これほどの人目にさらされた経験は、カルシアにいた時ですら無い。
 民衆の前に立たされた時ですら、恐怖で気を失うこともしばしばだったというのに。

──だが、ここで倒れては、カルシアの名誉が損なわれる。

 今の己は、誇り高いルシャリーンの身代わりなのだ。
 双子の姉であれば、どんな時でも毅然と頭を上げ、周囲を睥睨するに違いない。

「よくぞヴァルーズに来られた、ルシャリーン姫。
 余はそなたを歓迎しよう。
 自分の宮殿と思い、くつろがれるがよい」

 よく響く、張りのある低い声が、頭上から聞こえた。

 その声を聞いた瞬間、シールウェの顔から血の気が失せた。

──この声は、まさか……。

「──陛下の御慈悲に感謝いたします。
 どうかこの卑しき端女を、末永くご寵愛ください」

 緊張のあまり喉はからからに乾いていたが、シールウェは毎日のように教え込まれた口上を必死で述べた。

 身体に突き刺さるような、鋭い視線を感じる。

 顔を上げる事を許され、シールウェはヴェールから透けて見える皇帝を見上げた。

 そのものが宝冠のように輝く黄金の髪、他を圧する銀の双眸、威厳に満ちた秀麗な面立ち。
 あたかも太陽神が地上に舞い降りたような……。

 シールウェは、自分が見ているものが信じられず、呆然と目を見開いた。

──なぜ、ラシール殿が玉座に座っている?

 全てを見通す銀の双眸が、公子を射抜くように見つめていた。

 その瞬間、押し寄せてきたのは、抗うことすらできぬ恐怖だった。

 高波に飲み込まれ、溺れた公子は、そのまま意識が遠ざかっていくのを感じ、床にぐったりと倒れ伏した。

「どうやら、姫君は長旅でお疲れのようだ。
 すぐに後宮に案内させるゆえ、そこで休まれるがよかろう」

 壇上の玉座から倒れた公子を見下ろしていた皇帝ファザイアは、後宮の任務を司っている宦官頭を呼び、公女を連れて行くように命じた。

 連れ添ってきた侍女たちは後宮に入ることを許されたが、使者団や護衛隊はそのまま謁見の間から退出させられた。

 広間から出たカルシアの使節団は、もはや二度と出会うこともないであろう公子シールウェを思い、少しでも幸福になることを心から願ったのだった。