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後宮の月


第2章

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 湖畔の都ヤヴァシュからの長旅で疲労していた公子シールウェは、発熱し、そのまま病床に伏してしまった。

 熱が引き起こす悪夢にうなされ続けたシールウェは、7日目の朝、清らかな朝日を浴びて目覚めた。

 寝台の上で上半身を起こした公子は、寝室を見渡した。

 壁は美しい緑色の蛇紋石張りになっており、様々な文様や多彩な花模様が描かれた美しい外見をしていた。

 寝台には大きな天蓋がついており、彫り溝のある銀の円柱に水晶製の獅子がついている。

 垂幕は金糸入りの翡翠色をした錦織であり、縁は真珠で飾られていた。

 上掛けもまた金糸や銀糸がふんだんに使われており、敷布はすべすべとした白絹であった。

 床には美しい絨毯が敷かれ、その上に花模様が織り込まれた絹張りの紫檀の寝椅子が置かれている。

 見たこともないほど華麗な寝室に驚愕したシールウェは、侍女の1人が入ってくると、ここはどこなのかと訊ねた。

「後宮の御館の一つでございます、殿下」

 ヤヴァシュから付いてきた一番年若な侍女ニネヴェは、ふっくらとした顔に優しい笑顔を浮かべると、公子に紫水晶の杯を手渡した。

 薬湯を飲み干して顔をしかめたシールウェは、気になっていたことを聞いた。

「──ニネヴェ。わたしはどのくらい眠っていた? 謁見の記憶もあまりないのだが」

「7日間です。毎日のように、陛下もお見舞いにいらっしゃいましたわ」

 シールウェの細い肩に、銀色の毛皮で縁取りをした被着をかけたニネヴェは、白い頬をうっすらと染めてそう言った。

「とても立派な御方です。わたくしも思わず見惚れてしまいましたわ」

 と、その時、寝室の扉が開かれ、1人の黒人宦官が現れた。

 彼は、飾り気のない白絹の上着を着、幅広い帯を腰回りに巻いていた。
 たっぷりとした水色のズボンの下には、銀細工のついた革靴を履いている。

「ラザヴァルと申します。殿下のお世話をするよう言いつけられて参りました」

 胸の前で両腕を交差させてお辞儀をした宦官はまだ若く、せいぜい22か23歳という感じだった。

 宦官にしては引き締まった体躯をしており、黒い瞳には鋭い光が宿っていた。

 密林の黒豹を思わせるほど優美で端整な面立ちの宦官を、シールウェは困惑したように見つめていた。

「わたくしの世話は、わたくしの侍女たちが行います。そなたらの世話にはなりませぬ」

 キシェラムの身体をできるだけ秘密にするため、大公はその事を承知している侍女だけを公子の側につけた。
 後宮の宦官や女官に世話をされれば、すぐにその秘密は暴かれてしまう。
 いずれ暴かれるとはいえ、できるだけ時間を稼がなければならなかった。

「しかしながら、殿下。カルシアとは習慣も衣装も異なります。
 陛下の後宮に入られた以上、その習慣には従っていただかねばなりません」

「わたくしはカルシアの公女です。
 見知らぬ者の前で肌をさらすつもりはありません。
 ──できぬというなら、この場で命を絶ちます」

 悲壮な決意をした公女を見て、無表情だったラザヴァルが眉をひそめた。

 公女の手には鋭い短剣が握られており、その切っ先は雪のように白い喉に突きつけられていた。

 深い緑柱石の瞳が、ラザヴァルを見つめていた。
 その瞳には侵しがたい気高さと、深い悲しみが満ちている。
 あたかも、峻厳な山間に隠された、底知れぬ深い湖のように。

 公女に近づくことすらできず、ラザヴァルは仕方なく一礼して部屋を辞した。

 ため息をもらしたシールウェは、固唾を呑んで見守っていたニネヴェに微笑んだ。

「さて、これが皇帝を怒らせることにならなければいいけれど」

 公子の艶やかな微笑を呆然と見返した侍女は、急いで首を振り、励ますように言った。

「大丈夫です。陛下はきっとお許しになられます」

「そうであればよいが。しかし、これからは気を使わねばなるまい。
 この宮殿には、人の気配が多すぎるゆえ……」

 寝台を下りたシールウェは、窓に近づき、中庭で水遊びに興じる女たちを見下ろした。

 楽しそうな、華やかな嬌声が響いてくる。

「美しいが、籠の中の小鳥だな。めいいっぱい翼を広げても、外に出ることはできない」

 シールウェは緞帳の陰に隠れるようにして立ち、嘆くように呟いた。

 その言葉に、ニネヴェが不審げに首を傾げた。

「皇帝の寵愛を得ることができれば、どんな富も思いのままです。
 それを望まぬ女がおりましょうか?」

「わたしには判らぬ。キシェラムの精神は、他の者とは違うのかもしれぬゆえ」

 苦い微笑を浮かべた公子は、窓から遠ざかると、疲れたように寝椅子に座った。

「お食事を用意させます。まずはお力を取り戻さなくては。
 そして、もう少しお眠りくださいませ」

 ニネヴェの言葉に小さく頷いたシールウェは、微笑んだ侍女を静かに見つめた。

「ねえ、ニネヴェ。わたしは、姉上の身代わりとしてここに来た。
 ──謁見の間に入った時、わたしは決意したんだよ」

 シールウェの足下に跪いたニネヴェが首を傾げると、公子は淡く悲しげに微笑んだ。

「わたしは、姉上として、そのように生きようと。 ──倒れてしまったけれどね。
 それゆえ、そなたたちもシールウェは死んだのだと思いなさい。
 たとえ誰が何と言おうと、わたしはルシャリーンその人だ。
 カルシアを守るために、皇帝に斬られたとしても、わたしはルシャリーンとして生きようと思う。
 そうでなければ、あの方は確実にカルシアを滅ぼしてしまうだろう」

 そう言ったシールウェの瞳には、今までの儚さとは別の強さを秘めた光があった。

 吸い込まれるような錯覚を覚え、ニネヴェは深く頭を下げた。

「すべて、殿下の仰る通りにいたします。他の者にもそのように」

「そうしておくれ。二度と、シールウェの名を呼んではいけない」

 公子はそう言うと、辛そうに目を閉じ、片手で顔を覆った。

「──夢を見ていた。ヤヴァシュが炎上し、人々が死に絶える夢を。
 わたしには、あれが現実に起こりうるような気がする。
 わたしのせいでヤヴァシュが滅びるのは、何としても防がなければ。
 そのためならば、わたしはこの身を滅ぼしても構わない」

 瞼の裏に、陽光のきらめく草原や、星くずの落ちてきそうな砂漠の夜が蘇る。

 シールウェの心は壮麗な宮殿から飛び去り、美しい夜明けの光景へと羽ばたいていた。



 広い執務室で宦官頭から報告を聞いたダルヴァート帝国皇帝ファザイアは、気の許せる家臣と3人だけになると、ほっと安堵のため息をもらした。

「まずは無事に目覚めて良かったというところだな、カルシアのお姫様は」

 本来ならば大宰相および宰相しか座ることのできない華麗な長椅子に、ハイファル卿ことハーディルは長々と寝そべり、書類を眺めながら言った。

 黒衣の貴族は、執務机で顔を伏せている皇帝を一瞥し、くすくすと笑った。

「ファザイア様が無理をさせすぎたのではないですか?
 ──ハーディル、その書類はそこに置いてください。
 もう一度審議にかけます」

 ファザイアの傍らに立ち、膨大な書類に目を通していた宰相アスタールは、感情のこもらない素っ気ない口調で言った。

「どういう意味だ、アスタール? わたしは何もしておらんぞ、今のところは」

 顔を上げた皇帝は、全く表情を消している宰相を睨んだが、恐ろしい早さで目の前に積み上げられていく書類を見て、思わず天を仰いでいた。

「よく仰いますね、陛下。
 この死ぬほど忙しい時期に、ラシール親衛隊長として好き勝手やっていたんですから、嘆きたくもなります。
 だいたい、どうして陛下ご自身が親衛隊を仕切らなければならなかったんですか?

 シャーラーン殿からいろいろお聞きしましたよ。
 まったく、ちょっと目を離すと、何をしでかすか判ったものじゃない」

 年若い宰相の毒舌に怯みながらも、ファザイアは問い返した。

「シャーラーンがそなたに喋ったのか?」

 手に持っていた最後の書類を机の上に置いた宰相は、眉をひそめたファザイアを、氷海色の瞳で見つめ、にっこりと微笑んだ。

「いいえ、あの方は忠誠の士ですから、自ら話すことはありません。
 ただ、鎌を掛けたら、ぽろっと。
 武官というのは、単純で本当に助かります。

 ──そもそも、ハーディルが皇帝の影武者として上手くやれると、本気で思っておられたんですか?」

「上手くやれなかったのか?」

 椅子の背によりかかったファザイアは、くすくすと笑っている貴族に視線を向けた。

「上手くやったつもりだがね、わたしは。声真似も動きも完璧だったはずだ。
 ただ、さすがに御前会議や謁見に出るわけにはいかないだろう?

 風邪をひいたと偽って、後宮にずっと潜り込んでいたのさ」

 両手を開いて肩をすくめたハーディルは、腕組みをして睨みつけてくるファザイアを、黒曜石のように深い瞳で恐れもなく見返した。

「適当な侍女とずっと遊んでいたら、マヤムーラ姫が怒り狂ってな。
 哀れ、その侍女は、あの気位の高い姫君から、後宮追放を賜ったというわけだ」

 あたかも歌うように抑揚をつけた豊かな声でハーディルは語り、声を上げて笑い出した。

「マヤムーラ姫の侍女に手をつけたのか、そなたは?」

 呆れ果てたようなファザイアの声に、ハーディルは笑いを抑えながら言った。

「知らなかったんだ、当たり前だろう?
 後宮に入れる男は皇帝1人と、はるか古来より決まっている。

 その贅沢極まりない権利を放棄したのは、後にも先にもあなただけだろうよ、ファザイア陛下。
 まあ、そのおかげでわたしは、世にも稀な体験ができたというわけだが」

「──時々、どうしてそなたを臣下に加えたのか、判らなくなる時がある」

 重いため息をもらして額を押さえたファザイアを見て、アスタールは仕方がないといったように肩をすくめて見せた。

「だから言ったじゃないですか、ファザイア様。
 この男に代役を頼むのは止めた方がいいと。
 こうなることは予想できた、そうでしょう?」

「その『だから言ったじゃないですか』というのは止めろ、アスタール。
 頭が痛くなる。
 ──とにかく、今はカルシアの公女をどう遇するかを考えねばなるまい。

 ハーディル、ヘラン山地の盗賊を雇った者は、まだ正体がつかめぬのか?」

「今少しお待ちを、ダルヴァート帝国皇帝陛下。

 ヤヴァシュにいる誰かというのは判ったが、そこから先はルカイダに調べさせている。
 奴がさっさと報告してくれば、すぐに正体は明らかになるさ。
 組織だった盗賊ではなさそうだが、所詮、蛇の道は蛇というだろう?
 突き止めるのは時間の問題だな」

 その名前を聞き、ファザイアは片眉をつり上げた。

「──ルカイダ? あのヤヴァシュの盗賊は、そなたの知り合いか?」

「何度か仕事を一緒にしたことがあってね。
 まあ、顔つきは悪いが、そう悪い奴じゃない。
 友人は多いにこしたことはない、特に使える友人は。そうだろう?」

 あっさりと言ってのけたハーディルを、ファザイアは呆れたように見つめた。

「あの男、このわたしの首を取ると脅してきたのだぞ」

「お怒りなさるな、皇帝陛下。
 あの男は陛下の顔を知らなかったんだ、多分ね。
 我々の仕事は何よりも信用と用心が大切だ。
 短剣一本で契約が保証されるなら、安いものだと思うがね」

 くすくすと笑うハーディルを睨み、ファザイアは目だけで高い天井を仰いだ。

「まあよい。その件はそなたに任せる。
──しかし、今の段階で、カルシアの姫と他の妾姫との差をつけるのはまずいな。
 ヴァル・イン帝国の神経を逆撫ですることになるゆえ」

 椅子から立ち上がったファザイアは、考え込みながら部屋の中を歩き回った。

「カルシアはかの帝国の鼻先だ。
 我が国に完全に服従していない以上、ヴァル・イン帝国に寝返る可能性は残されている。
 世継ぎであるルシャリーン姫がカルシアに残っているなら、カルシアはその可能性に飛びつくかもしれんな」

「間諜の報告によれば、ヴァル・イン帝国は密かにカルシア攻略を目論んでいた様子。
 紙一重で我々の方が早く併合を成し遂げましたが、その分怒りは収まらないでしょう。
 肥え太った獲物が、目の前でさらわれたわけですから。

 ──シールウェ殿下は、カルシアに対しては切り札にならないとお考えですか?」

 アスタールの問いに、ファザイアは重々しく頷いた。

「殺すと脅せば、神殿と民衆は反応するかもしれん。
 ただ、それはあくまで<キシュラの化身>としての話だ。
 ──が、大公の意志は動かせまい」

「となると、先手必勝、ヤヴァシュを潰しておくか?」

 珍しく真面目に考え込んでいるハーディルを見やり、ファザイアは首を振った。

「町を破壊するのは、わたしの本意ではない。
 だが、大公家は潰しても構わぬ。
 古い因習に縛られている王家など、目障りなだけゆえ」

 ファザイアの刃を思わせる銀の双眸が鋭く光った。

「そう言えば、奴隷のアシュランとしてヤヴァシュにいた時、面白い話を聞きましたよ。
 ──ルシャリーン姫と大神官は、お互いを蛇蝎のごとくに嫌い合っていると」

 最年少の宰相の言葉に、ファザイアは興味をそそられたように訊ねた。

「何が原因で不仲になったのか、判るのか?」

「さあ、そこまで詳しい話は。
 ただ、ルシャリーン姫は、シールウェ様が<キシュラの化身>として神殿に出向くことには、かなり激しく抗議なされていたようです」

 ハーディルの正面の椅子に座ったファザイアは、双眸を細め唇をつり上げた。
 威厳あるしなやかな獅子のようにゆったりと足を組んだ皇帝は、傲岸な微笑を浮かべた。

「──確かに面白い。その情報が真実なら、カルシアに乱を起こすことができる」

 ファザイアの顔は冷徹な為政者のものであり、宰相アスタールはそれに満足した。

「ハーディル。そなたは今の話の真偽を探れ。
 真実であれば、神殿と大公家を衝突させることができる。
 ダルヴァートに反逆する余裕はなくなるだろう」

 皇帝の命令に、宮廷一教養に富んだ貴族と名高いハイファル卿は、椅子から立ち上がると、誰も追随できないほど優雅な敬礼をしてみせたのだった。