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後宮の月


第2章

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 カルシア公国の使節団と分かれたヒルダーンは、ゆっくりと馬に揺られながら大陸街道を進んでいた。

 一度はヴァルーズに入ろうかとも思ったが、思い直し、街道をやや戻った所にある分岐路を目指していたのである。

 急ぐ必要もないヒルダーンは、のんびりと口笛を吹きながら、今まで来た道を戻っていた。

 すると、前方から微かに馬蹄の響きが聞こえてきた。

 その音は、騎馬の民であるヒルダーンさえも、かつて聞いたことがないほど力強かった。

 馬の手綱を引いたヒルダーンは、前方から見事な青毛が駆けてくるのを見た。

 波うつ筋肉は活力に満ち、鋼鉄の蹄は岩をも砕くほどであった。

 疾風さえも追いつけないほど駿足の黒馬は、あっという間にヒルダーンの横を駆け抜けていった。

 すれ違い様、馬上の騎手がヒルダーンを一瞥した。

 その顔を見た瞬間、タクラン平原の戦士は愕然とし、大声で呼びかけた。

「──おい、ちょっと待て!」

 しかし、騎手はその声を意に返さぬように走り去っていく。

 慌てて馬首を巡らせたヒルダーンは、その後を追った。

 広い大陸街道を、二頭の馬が疾駆する。

 ヒルダーンは優れた騎手であったが、前方の黒馬の足には、乗騎の方が適わなかった。

「止まれ! ルシャリーン姫!!」

 さらに大声で呼ばわった時、ようやく黒馬が足並みを緩めた。

 近づいていくと、まぎれもなくシールウェとそっくりの騎士が馬首を巡らせた。

「そなた、わたくしを知っておるのか?」

 玲瓏たる声は公子よりも気持ち高めだったが、男装をした公女は、シールウェよりも遙かに凛々しい貴公子に見えた。

「あんた、というよりシールウェをな」

 ヒルダーンが答えると、ルシャリーンは動揺したのか、鮮やかなエメラルドの瞳で蛮人の戦士を睨みつけてきた。

「シールウェを? 弟とそなたと、どのような関係があるのじゃ。あれは無事か?」

 するとヒルダーンは唇をつり上げ、皮肉げな微笑を浮かべた。

「どのような関係と聞かれても困るんだが。
 ……まあ、かりそめの護衛兼情人といったところかな」

 からかうような調子で答えたヒルダーンを見て、ルシャリーンは美しい柳眉をつり上げた。

 そして優美な佩剣を抜き放ち、戦士の喉元に突きつけた。

「貴様! わたくしの弟に狼藉を働いたと申すのか」

 ヒルダーンは苦笑を浮かべ、公子より遙かに生気に満ちあふれた公女を、目を細め眩しげに見つめた。

「──おい、危ないぞ。まあ、誤解するな。
 おれが貰ったのは甘き唇だけで、その神秘なる身体には手をつけていない。
 ……しかし、やはりあんたたちは双子なんだな。
 怒った表情なんか、そっくりだ」

 ぬけぬけと言うヒルダーンを睨み、双眸を怒らせたルシャリーンだったが、まったく敵意のない相手に剣を向けるわけにもいかず、仕方なく鞘に収めた。

「面の皮の厚い男じゃな、そなたは。わたくしに何の用じゃ?」

「聞くまでもないと思うがね。
 公子はあんたの身代わりとして帝都に行ったんだろう?
 それなのに、何故あんたがこんなところをうろついているんだ?」

 するとルシャリーンは憂いを含んだ瞳で男を見つめ、深く嘆息した。

「そこまで知っておるのか、そなたは。

 確かに、シールウェはわたくしの身代わりとなった。
 しかしわたくしはそれを黙って見過ごすわけにはいかなかった。
 それゆえ、ヤヴァシュを出奔してきたのじゃ。

 わたくしは、皇帝の手がつく前に、あれを救い出したい」

 淡々とした調子でルシャリーンは言い、憂鬱そうな瞳でヒルダーンを見つめた。

「そなた、シールウェの身体の事を知っておるのか?」

「ああ。この世のものとは思えぬほど麗しいキシェラムの身体には、ついに触れることが叶わなかったがね」

 薄笑いを浮かべたヒルダーンに、公女は冷淡な眼差しを注いでいたが、嘆息すると馬首をめぐらせた。

「うつけ者め。そなたは自身の道を行くがいい。わたくしは帝都に向かう」

 そのまま立ち去ろうとする公女に、なおもヒルダーンは追いすがった。

「あんた、1人で後宮に忍び込んで、シールウェを助け出すつもりか?
 そりゃ、無謀ってもんだぜ」

「後宮に入れるのは、女か宦官だけじゃ。
 わたくしは女ゆえ、侍女にでも化ければ忍び込める」

「あの獅子帝が、そんな手ぬるい警備をさせていると思うのか?
 あんたが見つかったら、それこそカルシアはお終いだぞ」

 するとルシャリーンは馬を止め、厳しい目でヒルダーンを睨んだ。

「カルシア大公家を継ぐのはシールウェじゃ。
 世継ぎを皇帝の後宮に置いておくわけにはいかぬ」

「だからと言って、女1人で皇帝に挑もうってのか?
 馬鹿な真似は止すんだな」

 ヒルダーンの言葉に苛立ったように、公女は瞳に怒りを浮かべた。

「そなたは、わたくしの邪魔だてするのか!
 さっきから皇帝、皇帝と繰り返しおって。
 シールウェが皇帝の餌食になるのを、見過ごすわけにはいかぬ!!」

 公女に激しい言葉を浴びせかけられても、ヒルダーンは顔色一変えず、軽く肩をすくめただけだった。

「この厳しい状況を冷静に認識しているだけのことさ」

「では、早々に立ち去れ!」

 片腕を振った公女に、ヒルダーンは不遜な微笑を浮かべて見せた。

「俺は気まぐれでね。興味が沸いたから、あんたについていくよ」

 目尻を鋭くつり上げたルシャリーンは、ややあって不敵な笑みを浮かべた。

「エシュタフトの足についてこれるか?
 城門に着くまで離されずについてこれるなら、勝手にすればよかろう」

 そう言い置いて、ルシャリーンはエシュタフトの腹を蹴り、次の瞬間には疾走を開始していた。

 すぐにヒルダーンも馬を駆りたてる。

「──勝手にさせてもらうさ」

 余裕に満ちた微笑を浮かべて呟くと、ヒルダーンはエシュタフトから僅かな距離を置いて、馬を走らせ続けたのだった。



 黄金の円盤が西の地平線で燃える頃、シールウェのもとにラザヴァルが現れた。

「陛下が、ご一緒に夕食をと申されております。

 入浴の方は、侍女の方にお任せいたします。
 ですが、衣装に関してはわたくしどもがお世話いたします。
 宦官頭がそう申しておりました」

 それがぎりぎりの妥協だというように、ラザヴァルが厳しい瞳で公子を見つめた。

 寝椅子に座っていたシールウェは、諦めたように苦く笑うと、糸杉のようにすらりと身体を立ち上がらせた。

 白い簡素な長衣をまとうだけの姿であったが、他の豪奢に着飾った愛妾よりも美しいと、ラザヴァルはふと思った。

「では、入浴が済み次第、そなたを呼びましょう。
 今はまだ下がっていてよい」

 若い宦官は一礼すると、部屋から出ていった。

 様々な部屋で構成されている小離宮は、宦官や侍女の控えている部屋もあった。

 しかしまだ寝室のみしか見ていないシールウェは、初めて浴室に入ると、その広さと壮麗さに思わず目眩を覚えた。

 丸屋根は青硝子で造られ、西日の光が柔らかく射し込んできていた。

 最初の部屋はごく小さい部屋だったが、床には厚い絨毯が敷かれ、低い長椅子が置かれてある。

 そこは脱衣所であり、長衣を脱ぎ落としたシールウェは、続く部屋へと移動した。

 美しく飾られた金箔張りの鉄扉を通って中に入ると、広い白大理石の浴槽が埋め込まれていた。
 壁際にある見事な彫刻の施された大理石の給水盤からは、湯気を立ち上らせた湯が噴き出している。

 細い大理石の柱が壁際に並び、その間には磨かれた鏡が取り巻くように嵌め込まれていた。

 よい香りのする花が浮かべられた湯船につかり、身体を洗ったシールウェは、侍女たちが長い艶やかな黒髪を洗い終えるのを待った。

 浴槽から上がると、白い裸体を拭くために駆け寄ってきたニネヴェが、柔らかな布で公子を包み込んだ。

 そのまま寝椅子に横になり、入念に香油をすりこまれていく。
 麝香は息苦しいまでに官能的な芳香を放ち、上質の絹の長衣が肌の上を覆った。

 神秘的な裸体が完全に隠されると、侍女がラザヴァルを呼びに行った。

 彼は恭しく一礼すると、両手を叩いて後宮の女官を呼んだ。

 長椅子に座ったシールウェは、女官によって手足の爪を染められ、髪を梳かれた。

 抵抗する気もなかった公子は、ただ人形のように女官たちに身体を預けていた。

 金糸銀糸で縁取りされたゆったりとしたズボンをはかされ、その上から緑玉をあしらった金の輪を足首で止める。
 袖のない足首まで届く上着には、真珠や宝石が縫い込まれており、動くたびにきらきらと光った。

 華麗な衣装を着せられた後、腕輪や首飾りで飾られる。
 されに化粧を施され、目の回りを黒墨で縁取られ、唇を深紅に染められた。

 目に施された化粧のせいで、エメラルドの瞳は妖しく輝き、唇をまるで血を啜ったようだった。
 己の中に魔性を見いだしたシールウェは、強い視線を感じてそちらを見た。

 惜しみない賛美を注いでいたのは、宦官のラザヴァルだった。

 その強い眼差しに戦いた公子は、すぐに視線をそらし、額にエメラルドの冠を嵌めた。

 最後に床まで届く長いヴェールをつけると、ラザヴァルは慇懃に公子を導いた。

 公子の館から、長い回廊を通り抜け、さらに巨大な宮殿へと案内される。

 天に届きそうな高く大きな扉を開けたその部屋は、ヤヴァシュの宮殿が粗末に見えるほど素晴らしく、贅のこらされたものだった。

 様々な楽器を持った楽人たちが壁際の絨毯に座り、官能的な旋律を奏でている。

 一段高くなっている、毛足の長い絨毯の上に座らされたシールウェは、怯えたように周囲を見渡した。

 その部屋に、皇帝の姿は見えなかった。

──ここで狼狽えては、不審に思われてしまう。

 鼓動が激しくなり、胸が苦しくなる。

 震えだした体を、シールウェは必死で押さえようとした。

 やがて、奥の扉から、皇帝ファザイアが姿を現した。

 銀の刺繍が施された黒い上衣に、さらに長い外衣をまとった皇帝の服装は、不思議なほど装飾的なものがなかったが、輝く黄金の髪がどんな宝石よりも豪奢に輝いていた。

 カルシアの伝統に則り、絨毯の上に額ずいたシールウェは、ファザイアの気配をすぐ傍で感じ取り、思わず目を閉じた。

──動揺してはいけない。私は、ルシャリーンなのだから。

 怖じ気づく心を叱咤し、シールウェは赤い唇を噛んだ。

 シールウェの前で片膝をついたファザイアは、無造作にヴェールを払いのけ、細い顎を上向かせた。

 強引にファザイアの顔を見させられたシールウェは、整った顔の中に輝く銀の瞳を見て、身体に戦慄が走るのを感じた。

「顔色はだいぶ良くなったが、少し痩せたな……」

 動揺してはならないと判っているのに、銀の双眸が稲妻のように心を貫いてくる。

 微かに震える体を指先に感じ、シールウェの怯えに気づいたファザイアは、穏やかな微笑を浮かべた。

 皇帝はシールウェの手を取って楽に座らせると、その横にクッションを引き寄せ、くつろいだ様子で座った。

「そんなに緊張しなくても良いのだが、とりあえず食事にしよう」

 ファザイアが手を叩くと、楽人は音楽を奏で始め、様々な料理が運び込まれてきた。

 見たこともないような珍しい料理や、瑞々しい果物が銀の食器に盛られている。

 湯気を立てる鴨肉を噛み千切っているファザイアをそっと見ながら、シールウェは果実と一緒に美しく飾られたエビを口にしてみた。

 エビは驚くほど甘く、果実もまた緊張して乾いていた喉を癒やした。

 少しずつではあったが食べ物を口にしているシールウェを見つめ、ファザイアはゆったりとした口調で訊ねた。

「館の住み心地は? 何か不自由があればそろえさせるが」

 響く深い声を聞いただけで、シールウェの決意はもろく崩れそうになる。

 何も知らなければ、すがりつけたのかもしれない。

 涙が込み上げてくるのを堪えながら、シールウェは首を振った。

「──十分すぎるほど良くしていただきました、陛下」

 できるだけ冷静に答えると、ファザイアは微笑んだ。

「そうか。あそこはやや狭いが、わたしの母が気に入っていた館だ。
 そなたにはいずれ別の場所に移動してもらうが、しばらくはあそこで暮らしてほしい」