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後宮の月


第2章

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 食事が半ばに差しかかった頃、踊り子たちが現れた。

 豊満な肉体を誇示するような薄物をまとい、誘惑的な踊りを披露しはじめる。

 しなやかな身体が、腕輪や足輪につけた鈴の音に合わせて動き、蛇のようにくねる。

 宙を舞う腕は幻惑へと誘っているようにも見え、食事をするのも忘れたシールウェは、蠱惑的な舞踏に見入っていた。

「シールウェ、許せ。
 騙したくはなかったのだが、真の名を告げることはできなかった。
 ──謁見で気を失わせたのは、わたしの責任だな」

 不意にファザイアがそう言い、シールウェの手を取ると、その甲に口づけた。

 柔らかい唇の感触に、公子の心は跳ね上がった。

「──わたくしの名は、ルシャリーンでございます、ファザイア陛下。
 それ以外の何者でもありませぬ」

 自分でも驚くほどに、声は冷たく抑揚がなかった。

 ファザイアは顔を上げ、訝しげにシールウェを見つめていたが、すっと双眸を細めた。

 その瞬間、空気が色を変え、気温までもが下がったような雰囲気が漂った。

「わたくしは、カルシア公国より参りました公女ルシャリーンでございます。
 拝謁を賜りましたのは、ここヴァルーズが初めて。
 かつて、一度もお目にかかったことはございません」

 底知れぬ恐れを感じながらも、シールウェは表情を隠し、淡々とした口調で告げた。

 その言葉が終わった途端、ファザイアはシールウェの細い手首をつかみ、強引に引きずり寄せた。

 皇帝は片手を振って楽人や侍従を皆下がらせてしまうと、その手で公子の細い喉をつかみ、唇を塞ぐ。

 痛みと息苦しさに喘いだシールウェは、それでも痺れていく身体を止められなかった。

 絡められる舌に快楽を感じ、流されそうになる。

 長い口づけから解放すると、ファザイアは公子の額に接吻し、手の力を緩めた。

「そなたはルシャリーン姫の身代わりとして差し出され、ここへ来た。
 わたしはそれを知っているが、咎めるつもりはない。
 むしろ、それこそわたしが望んだことだ。
 そなたは安心して、ここに住めば良いのだ、シールウェ」

 その声はあまりに優しく、シールウェの目から涙がこぼれ落ちた。

「──いいえ、わたくしはルシャリーンです。
 あなたが出会ったのは、砂漠が見せた幻。
 わたくしは、ダルヴァート帝国皇帝に捧げられた、人質なのですから」

 ファザイアの手から逃れたシールウェは、柱を支えにして立ち上がった。

 それを見やり、獣が身を起こすような油断のならない動きで皇帝も立ち上がると、鋭く厳しい瞳で公子を睨みつけた。

 銀の双眸は炯々と輝き、身体からは炎のような怒りが立ち上っているように見えた。

「──では、どうあってもそなたはルシャリーン姫であると?」

 恐怖に立ちすくみながらも、シールウェは頷いていた。

 その途端、ファザイアの唇がつり上がり、ひどく残酷なものを含んだ微笑を浮かべた。

「よかろう。ならば、そなたの義務を果たすがよい、ルシャリーン姫。
 夜はあまりにも短い。
 そなたを我が臥所へ案内しよう」

 ファザイアの声は淡々と響いたが、そこには殺気すら感じさせるほどの怒りがあり、シールウェの身体は硬直した。

 背筋に戦慄が走り、頭の中でけたたましく警鐘が鳴り響いた。

 シールウェは差し伸べられた力強い、大きな手を見つめた。

 皇帝が本気になれば、片手で己の細首を折ることくらい造作ないことだろう。

 鼓動はもはや心臓を張り裂かんばかりに激しく、胸がぎりぎりと締め付けられた。

 恐慌に陥ったシールウェは、ファザイアの手をかわすと、入ってきた扉に駆け寄ろうとした。

 しかし扉にすがりつく前に腕を捕まれ、床の上に引き倒される。

 苦痛に呻いたシールウェは、双眸を光らせたファザイアに伸しかかられていた。

「何の真似だ? そなたは己の境遇をわきまえてここに来たのであろう?
 ──今さら何を恐れる」

 ファザイアの声は腹の底にずしりと響くほど低く、どんな恫喝よりも威圧的だった。

 顔を背けたシールウェは、身体の戦慄を止めることができなかった。

「あなたは、小さな国の公女などではなく、他の美しい女性と共にあるべきです。
 わたくしは一生幽閉されてもかまいませぬゆえ、どうかこのままお見過ごしください」

 震える声でそれだけ言うと、ファザイアが身を起こし、呼吸が少し楽になった。

 感情の消えた瞳でシールウェを見下ろしたファザイアは、壊れてしまいそうなほど繊細な顔に手をかけ、己の方を向かせた。

「なにゆえに? 美しい花はわたしの手の中にあるというのに、触れるなと言うのか。
 できぬ相談だな、それは……」

 吐息が首筋にかかるほどファザイアの秀麗な顔が近づき、戦いたシールウェは、身をよじって逃げようともがいた。

 白い首の、どくどくと血が脈打つ場所に、ファザイアが口づけてきた。
 その途端、シールウェは悲鳴を上げ、死に物狂いで自由になろうと抗った。

 触れられた場所から、焼けつくような衝撃が走る。

 一瞬の隙をついてファザイアの身体の下から抜け出たシールウェは、息を喘がせながら扉に駆け寄った。

 ところが、閂(かんぬき)の下ろされた鉄扉はびくとも動かず、息を呑んで振り返ると、そこには泰然とたたずんでいるファザイアの姿があった。

「変った趣向だが、従順すぎる女にも飽きていたところだ。
 どこまで逃げられるか、楽しみだな、ルシャリーン姫」

 薄い唇には残酷な微笑が浮かんでいた。

 それを見た時、シールウェは悟った。
 自分が皇帝の隙をついたわけではなく、わざわざファザイア自身が隙を作ってみせたのだということを。

 そして今、皇帝は獲物を狩る喜びを見いだした獅子のように見える。
 戯れに無力な兎を追いつめる、恐ろしき獣だった。

 ファザイアが悠然とした足取りで公子に近づき、その身体を捕えようとする。

 シールウェは間一髪でそれをかわすと、皇帝が入ってきた扉に向かって走った。

 素晴らしい装飾のなされた青銅の扉は、その重さにも関わらず滑らかに動いた。

 別の部屋に飛び込んだシールウェは、そこにある大きな寝台を見て息を呑み、思わず後退った。

 目眩を起こすほどに甘い麝香が焚きしめられ、薄い紗幕の垂らされた美しい寝台はあまりにも官能的だった。

 その時、後ろで閂が掛けられる音がして、はっと振り返った時には身体が宙に浮いていた。

 ファザイアに抱き上げられたシールウェは、そのまま放り投げられ、柔らかい寝台の上で弾んだ。

「──もう逃げられぬぞ、姫。諦めて、大人しく抱かれることだ」

 皇帝の傲慢な言葉に蒼白になったシールウェは、伸しかかってきたファザイアに両手を身体の下に押さえ込まれ、身動き一つできなくなった。

 ファザイアの唇が重ねられた瞬間、声なき絶叫を上げ、張りつめていたシールウェの意志は砕け散った。


 急に力の抜けたシールウェを見下ろし、ファザイアは眉をひそめた。

 強烈な破壊衝動に身を委ねていたため、かなり残酷な事をしているという自覚はある。

 自嘲的な苦笑を浮かべたファザイアは、その時、シールウェの身体が淡く輝き、銀の光が放たれるのを見た。

「──月の子を喰らう気か、黄金の獅子よ」

 意識を失っているはずのシールウェが、目を閉じたまま、ひどく冷たい声で言った。

 そして閉ざされていた瞳が不意に開き、そこには冷たく輝くエメラルドの瞳があった。

「闇夜が近づく今、吾にそなたを退ける力はない。
 だが、気をつけるがよい、太陽の申し子よ。
 そなたがシールウェを汚せば、二度と、月の子は地上には戻らぬ」

 その口調に違和感を覚えたファザイアは、急速に冷静になっていく己を感じ、シールウェであった者からゆっくりと身体を離した。

「──イディスか、そなたは。
 また邪魔をしに出てきたというわけか?」

「邪魔とは異な事を言う。吾は、そなたに警告をしておるだけのこと」

 ファザイアの刃のごとき瞳を恐れもなく見返したイディスは、口許に微かな笑みを刻んだ。

「この身体より純潔が失われれば、吾は地上に降臨すること能わず。

 我が慈悲と恩寵を、人は永遠に失うであろう。

 ──そして、シールウェの心もまた、吾とともに失われる」

「どういう事だ?」

 ファザイアが厳格な声で問うと、イディスは清冽で哀れむような微笑みを浮かべた。

「そなたは、月の子の身体が目当てか?
 そうでなければ、退くがよい。

 シールウェの存在意義は、吾の巫女であること。
 神である吾が失せれば、巫女であるシールウェの存在意義は消滅する。

 ──残るのは、心を失った器のみ」

 イディスは、ファザイアの意志を試すかのように、しなやかな腕を伸ばした。

「吾に触れても良いのは、吾を崇めるものだけ。
 触れたければ、吾を崇めよ、ダルヴァート皇帝よ。

 そうすれば、吾はそなたに世界を与えると約束しよう。

 ヴァル・イン帝国も、聖エレヴィア王国も、西の果てにあるトゥロネスでさえも、このダルヴァート帝国に跪くことになる。

 そなたは、そんな世界を見てみたくはないか?」

 鮮やかに光る双眸を見返したファザイアは、口許にふっと微笑を刻むと、公子の長い黒髪を指で梳き上げた。
 艶やかに光る黒髪を一房すくい上げ、ファザイアは口づけた。

「このわたしに世界をくれると?
 それはまた、魅惑的な申し出だな、イディス」

 ファザイアを見つめた月神は、どこか闇を感じさせる暗い微笑みを浮かべた。

「吾にしてみれば、容易いこと。

 だが、月の都を滅ぼすことは許さぬ。
 吾に欲望を注ぎ、この身を汚すことも。

 そなたは太陽の申し子ゆえ、神官と同じように、接吻し、愛撫することは大目に見てやろう。

 だが、それ以上は叶わぬことと心得よ」

 エメラルドの瞳は、冷たい冬の湖面のような輝きを放っていた。

 その言葉を聞いたファザイアは、イディスを寝台の上に残すと、金箔の装飾が施された美しい水晶の酒杯に、黄金の液体を注いだ。

 酒杯を手に寝台に戻ると、皇帝は腕を伸ばし、月神の白き手に接吻をした。

「──我が愛を、シールウェに。
 巫女とそなたが一体である以上、わたしはそなたを崇めよう」

 銀の双眸が射抜くようにイディスを見つめ、月神は満足したように目を細めた。

「誓いの口づけをそなたに──イディス」

 ファザイアは甘い美酒を口に含むと、イディスの頬に手をかけて仰のかせ、唇を重ねた。

 欲望のない、神聖なる口づけ。
 あたかも魂を捧げるかのように、唇から唇へと、甘い雫が流れ込んでいく。

 ごくりと白い喉が液体を飲み下すと、ファザイアは白い額と、手の甲にもう一度接吻した。

 ファザイアは静かに身体を離すと、表情の無い月神を見下ろした。

「しかし、なぜシールウェはそなたの巫女に選ばれたのだ?
 双子であるなら、ルシャリーン姫でも構わなかったはず」

 ファザイアの問いに、イディスは神秘的な微笑みを浮かべた。

「そなたはまだ知らなんだか? 
 シールウェは、キシェラムとして生まれ出た。

 生れながらに神を降ろす器であったが、それゆえに大公に疎まれ、幽閉された。
 永遠の王国と謳われたかのニミラーン王国が、キシェラムの王子によって滅びたがゆえに。

 偉大なる宗主を失ったカルシアにとって、キシェラムは憎き敵でしかない。

 しかし吾を呼び降ろしたことによって、巫女として生きることを条件に、生きることは許された」

 昔語りをするかのように、淡々とした口調で語っていたイディスは、突然がくりと頽れた。

 ファザイアは焦る様子もなく、その華奢な身体を抱きとめた。

 腕の中で意識を失っている公子の白い額に、万感の思いを込めて口づけたファザイアは、重い嘆息を漏らした。

「──悪いが、イディス。
 わたしが触れたいと願うのは、そなたではない。

 シールウェを失うわけにはゆかぬゆえ、この世につなぎ止める方法を見いだすとしよう。

 我が治世に、そなたの力は必要ない。
 世界が欲しくなれば、わたしは自らの手で奪ってみせる」

 目が眩むほど峻烈な誇りと覇気を放つ銀の双眸を光らせたファザイアは、強力な睡眠薬で眠りに落ちたイディスに囁きかけるように、低く呟いた。

 そして、シールウェの身体を胸の中に抱き直したファザイアは、祈るように目を閉じると、微かに開かれた公子の唇に口づけを落とした。