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後宮の月


第2章

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 闇に紛れるようにして広大な宮殿の周囲を探っていたルシャリーンは、その時、シールウェの悲鳴を聞いたような気がして、びくりと身をすくませた。

 主の感情の揺らぎに反応して、エシュタフトが低く鼻を鳴らす。

「──シールウェ。一体、何があった……」

 あと3日もすれば月はその姿を隠し、闇夜が訪れる。
 細い剣のような月を見つめていたルシャリーンは、衛兵に気づかれぬうちにその場から離れることにした。

 宿に戻る街路を進んでいた公女は、不意に背後に気配を感じ、長剣を引き抜いて馬首を巡らせた。

「──そこにいるのは何者だ?」

 確認するように低く誰何すると、建物の陰から一つの騎影が現れた。

 それを見たルシャリーンは、大きくため息をついた。

「何じゃ、そなたか。脅かすな」

「何だとはご挨拶だな。協力者に対しては、ちと薄情ではないか?」

 ルシャリーンの前に姿を現したヒルダーンは、嘆かわしそうに肩をすくめた。

 漆黒の衣をまとった姿は夜闇にまぎれ、あたかも闇を徘徊する魔物を思わせた。

「わたしは協力してくれと頼んだ覚えはない。
 そなたが勝手についてきただけじゃ」

 ふんと鼻を鳴らしてルシャリーンが言うと、ヒルダーンは揶揄するように笑った。

「帝都までの競争に勝てば、勝手にしてもいいと言ったのは、あんただぜ」

 すると公女は至極不機嫌そうな顔になり、無言で馬首を返すと、宿まで戻る道を進み始めた。

 すかさず横に馬を並べたヒルダーンは、にやにやと笑いながら、公女の美しく冷ややかな顔を眺めた。

「まあ、あんたは悪い騎手じゃないし、その馬は化け物並みだ。
 その馬が本調子なら俺が勝つのも難しかったかもしれんが、走らせすぎたのが運の尽きだったな」

「黙れ! 気に障ることをいつまでも喋り続けるな。
 黙らねば、終いにはその口を二度と喋れぬように縫いつけるぞ」

 鋭い双眸でヒルダーンを睨みつけたルシャリーンは、佩剣の柄に手をかけて脅迫した。

 すると北方草原の戦士は芝居がかった仕種で両手を上げ、大げさにため息をついた。

「──怖いね。ところで、最近ずっと気になっていたんだが、あんた、段々女のたしなみってやつを忘れてきてないか?」

 ヒルダーンは無表情で馬を進める公女の端麗な横顔を眺めて言った。

「言葉も荒々しくなったし、態度もずいぶん乱暴だ。
 昨日酔漢を殴りつけた時の迫力といったら、その辺の男どもも泣いて逃げ出すほどだったぞ。
 知らなければ、とても女とは思えなかった。
 公子の方が、まだおしとやかだったがね」

「阿呆か、そなたは。わたしは敵陣に単身で乗り込んできているのだ。
 身分がばれるような真似をするはずがなかろう?」

「そりゃまあそうだが、ずいぶんと慣れてる感じだぜ?
 とても初めて下町に来たって雰囲気じゃあない」

 訝しげにヒルダーンは公女を見やり、その美しい顔を眺めていたが、やがてにやりと納得したような微笑を浮かべた。

「あんた、実は始終お忍びで出歩いていたんじゃないか?」

 しかし公女の言葉は素っ気なかった。

「そなたに話す必要などない。弟に手を出そうとした不埒者めが」

 横目で睨まれ、闇の中で光る緑色の双眸に常ならぬ迫力を感じ、ヒルダーンは内心でやや驚いた。

「説明しただろうが。あれはお互いの合意の上で……」

「やかましい! そなたの言う事など信用できるか。
 大人しいシールウェにつけ込んで、無理強いしたに決まっている」

 厳しく断言され、ヒルダーンは唇をねじ曲げた。

 しかし何を言い返そうかと思い巡らせている間に、ルシャリーンはエシュタフトの足並みを速めて闇の中へと消えて行った。

 宿に到着したルシャリーンは、ヒルダーンの事はすっかり頭から追い出し、エシュタフトを厩舎に連れて行った。

 自らの手で鞍を外し、飼い葉や水桶を用意してやると、愛おしむようにその長い顔を撫でた。

「──疲れただろう、エシュタフト。ゆっくりお休み」

 闇から生まれ出たような黒い駿馬は、機嫌良く鼻を鳴らすと、公女の頭に顔をすり寄せた。

 宿泊代は前金で数日分支払っておいたため、ルシャリーンは階段を上がり、割り当てられた部屋に戻った。

 本来は2人部屋なのだが、無理を言って1人で使わせてもらったのである。
 倍額を要求されたが、金に不自由はしていない公女は、あっさりと承諾したのだった。

 軽い木の扉を開けたルシャリーンは、狭い寝台の上にヒルダーンが寝転がっているのを見た瞬間、思わず唖然とし、その後怒りに襲われた。

「なぜ、そなたがここにいる。そなたの部屋は別であろうが!」

 するとヒルダーンはわざとらしくため息をつき、悲しげな顔で笑った。

「好きでいるわけじゃない。ここの親爺に追い出されたのさ。
 新年祭のためか人が多くてな。空き部屋を作りたくないんだと。
 ──同行人なら、同じ部屋にいろと怒鳴られたわけだ」

 詫びるようでもなくヒルダーンがそう言うと、ルシャリーンは憤怒で身体を震わせた。

「偽りを申すな」

「嘘じゃないさ。そう思うなら、ここの主人に聞いてきな」

 白くなるまで拳を握りしめた公女は、踵を返して階段を駆け下りた。

 厨房にいた主人に強く問いつめても、返ってきたのはヒルダーンと同じ説明だった。

「──約束が違うだろう」

「ですがね、ここにはもう空き部屋がないんですよ。
 お嫌なら、よその宿に移られることですな。
もっとも、この時期はどこも混んでおりますし、あなた様ほどのご立派な身分ともなれば、泊まれる所も自ずと限られてきます。
 木賃宿でよければ、いくらでもありますがね」

 商売人らしい強かな笑みを浮かべてそう言い、主人は探るような目で公女を見つめた。

 殴りつけたい衝動に駆られたルシャリーンだったが、必死で自制し、口をつぐんだままその場から離れた。

 部屋に戻ると、にやにや笑っているヒルダーンがわざとらしく聞いてきた。

「どうだった、空き部屋はあったかな?」

 後ろ手で扉を閉めたルシャリーンは、つかつかと蛮族の男に近づくと、男の胸倉を掴み上げて睨みつけた。

 公女のエメラルドの双眸は、あたかも危険な獣のように爛々と輝いていた。

「いいか、わたしに手出ししようなどとちらりとでも思ったら、その命は無いと思え」

 ルシャリーンは低く警告した。

「心配しなくても、あんたみたいな暴れ馬には興味ないね。
 しかし、満月のごときルシャリーン姫がこんなに凶暴だと知ったら、カルシアの民はさぞやがっかりするだろうな」

 不遜な笑みを浮かべて公女を見つめ返したヒルダーンは、挑発するように言った。

 すると公女は手を離し、優美な弧を描く長剣を素早く引き抜くと、男の喉元にぴたりと切っ先を突きつけた。

「わたしを侮辱する気か、そなたは?」

 ルシャリーンが危険な光を宿した双眸を細めると、ヒルダーンは無造作に片手で切っ先をそらし、逞しい上半身を起こした。

「まさか。驚いているだけだ、あんたの正体を知ってね。
 始終怯えていたシールウェに比べ、あんたは恐ろしいほどに猛々しく、勇ましいお姫様だ。
 ──これも、育てられた環境の違いか?
 カルシアを継ぐ者として育てられた公女と、本来ならば抹殺されていたキシェラムの公子の」

 ヒルダーンの言葉を聞き、ルシャリーンの瞳に一瞬稲妻のような怒りが過ぎったが、公女は宝剣を鞘に収めると、突然声を立てて笑いはじめた。

「──かつて、カルシアの宗主であったニミラーン王国は、麗しきキシェラムの王子によって滅ぼされた。
 これは有名な伝説じゃな。
 だが、知っているか、ヒルダーン? 隠されてきた真実を?

 キシェラムの王子は<月の子>として崇められ、神聖なる者として敬われてきた。
 キシュラは常に半神半人として地上に存在したという。
 それゆえに、その王子は<キシュラの化身>として崇拝を受けていた」

 唐突に古い伝説を語りだしたルシャリーンを、ヒルダーンは眉をひそめて見つめた。
 公女は微笑みの形に唇をつり上げると、窓から見える細い弦月を仰いだ。

「……その王子の兄王は、王子を誰よりも愛し、慈しんだという。
 だが、時が流れ、兄王は自分の欲望を抑えきれなくなった。

 王は弟である王子を陵辱し、その純潔を奪った。
 背徳の王国ニミラーンに相応しい頽廃に満ちあふれた話であろう?

 ──汚された王子の身体から、当然のごとく月神は消え失せた。
 そしてまた、心根の清らかな王子の心もまた、キシュラと共に失われたという」

 ルシャリーンは重々しくため息をついて視線を伏せると、謎めいた瞳を蛮族の男に向けた。

「弟王子を失った兄王は、その悲しみから狂気に取り憑かれ、自らの手で王国を破壊した。
 こうしてニミラーン王国は滅びたわけだが、形を変えて伝説だけが残った。

 ──キシェラムの王子が国を滅ぼした?
 笑わせてくれるではないか、滅ぼしたのは汚れた欲望に溺れた王だったというのに。

 国を生かすも殺すも、全ては統治者の行い次第。
 大公位を継ぐべく、わたしはそう教えられてきた。
 それゆえ、ニミラーン王国が滅びたのは、兄王自身の暴政のせいだと思っている。

 だが、父上は、ニミラーンの伝説に囚われておいでじゃ。
 災いの芽をつむように、シールウェを幽閉し、その存在を封印した」

 ルシャリーンは拳を握りしめると、忌々しげに壁を強く叩いた。

「わたしは統治者となるため、あらゆる教えを受けてきた。
 だが、もしシールウェがキシェラムではなく、普通の公子であったら?

 大公位はわたしではなくシールウェに受け継がれたであろうし、わたしは公女としてどこかの国に嫁いだだろう。
 ──もしかすると、やはりダルヴァート帝国だったかもしれないが。

 キシェラムとして生れてきたばかりに、シールウェは全てを奪われた。
 わたしは、それをあの子に返してやりたいのじゃ。
 幸福を奪われて育ったあの子に、幸せな時を過ごしてもらいたいと思っている」

 ルシャリーンの双眸には涙が浮かんでいたが、彼女は天を仰いでそれを振り払い、強い光を宿した瞳でヒルダーンを見つめた。

 ルシャリーンの語った言葉に、さすがのヒルダーンも驚愕したが、、不意に訝しげな表情になると、琥珀の双眸を公女に向けた。

「──今の話からすると、もし皇帝がシールウェを抱いたら、キシュラはシールウェの魂ごと持って月の宮に帰ってしまうということか?」

 するとルシャリーンは挑戦的な微笑を浮かべた。

「ほう、そなたにしては上出来な質問じゃな。

 その通り。──もし皇帝がシールウェを抱けば、キシュラは消え失せ、シールウェの心もまたこの世から失われるはずじゃ。
 実際、大公位がどうのという話よりも、そちらの方が重大なこと。

 父上は、シールウェが生ける人形になってもかまわぬと仰せじゃ。
 そちらの方がむしろ、カルシアにとっては好都合なのだと……」

 ルシャリーンは片手で顔を覆うと、深い嘆息をもらした。

「なにゆえ父上があそこまでシールウェを疎まれるのか、わたしには判らぬ。
 その一方で、父上はわたしを溺愛された。
 亡くなられた母上の形見として。

 ……父上は、母上の死がシールウェにあると思っておられるのやもしれぬな」

 疲れたように首を振ったルシャリーンは、気丈に顔を上げると、強く弦月を睨みつけた。

「新月が近づくと、キシュラはシールウェの身を守れなくなるだろう。
 不完全なる神の力はもろい。
 それゆえに、わたしは闇夜になる前に、あの子を後宮から救い出したいのじゃ」

 呟くように言ったルシャリーンは、銀色に輝く大きな鷺が、ヴァルーズの夜空を舞っているのを見つけた。

 その鷺は皇宮のある広大な敷地の上を優雅に飛び回り、貯水池に泳ぐ魚を狙っているようであった。

 大きな翼が、細い月光を浴びてきらきらと光っていた。

「──話はだいたい分ったぞ。それで、どうするんだ?
 シールウェを助けに、あの宮殿に乗り込むつもりなんだろう」

 腕組みをしたヒルダーンが神妙な口調で言うと、ルシャリーンは頷いた。

 そして見惚れずにはいられないほど華やかな微笑みを浮かべると、ヒルダーンを見つめ、わずかに首を傾げた。

「本来であれば、この話はカルシアの最も禁忌とされる機密事項じゃ。
 ここまで話してやったのだから、そなたにも決断してもらおう。

 勝手についてきたのはそなたじゃぞ、ヒルダーン。
 もし気が変ったなら、早々にこの部屋を出ていくことじゃ。
 止めはせぬし、そなたの口を塞ごうとも思わぬ。

 それでもまだわたしについてくるのであれば、その力をわたしに貸せ」

 公女の尊大な微笑を見つめ、ヒルダーンは軽く肩をすくめた。

「仕方がないから協力してやる。
 あんたにつきあってると、退屈はしなさそうだからな」

 傲岸な微笑を口許に刻んだ蛮族の男は、ルシャリーンに片目をつぶってみせた。

「キシュラの御前にて契約は交わされた。
 これを破る者は、逃れること能わざる地獄へと堕ちることになるであろう」

 片手を上げ、ルシャリーンが厳かに宣誓した。
 それはカルシア公国に伝わる、遠いニミラーン王国から続く契約の言葉だった。

「我が神ドーマの御名にかけて誓約する」

 バイル族の主神である天神の名を口にしたヒルダーンは、片手を上げると、恭しく白い公女の手に重ね合わせた。