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後宮の月


第2章

<5>



 その容姿から獅子帝と謳われるダルヴァート帝国皇帝ファザイアから話を聞いた最年少の宰相アスタールは、思わず片手で顔を覆っていた。

「──嘆かわしい。それが皇帝たる者のする事ですか?
 無力な者を追いつめて、いたぶるなどと……」

 大きく、重々しくため息をついたアスタールを見やり、ファザイアは苦笑した。

「大人げないのは判っていたが、つい、やりすぎてしまった」

「よろしいですか、陛下。陛下は、この広大なダルヴァート帝国を統治される皇帝です。
 いくつもの王国、公国、自治都市を支配する王の中の王、それが陛下なのですよ。
 それほどの重大な責務を負ってらっしゃる陛下に、『つい』は絶対に許されません」

 壁にかかった大きな地図を指さし、そして歩き回りながら、宰相は厳しく言い放った。

「そなたに長々と説明してもらわずとも、そのくらいは心得ている。
 何のための帝王学だ?」

 執務机に座り、花押の彫られた玉爾を書類に押していたファザイアは、不機嫌そうに言った。

 アスタールは嘆息を漏らし、優雅な植物の文様が描かれた高い天井を見上げた。

「ええ、そうでしょうとも。役に立っているかどうかは謎ですけれどね。
 とにかく、陛下のあらぬ振る舞いのせいで、カルシアの姫は意識を失い、入れ替わりにキシュラ神が出てきたというわけですか」

「──そなたの毒舌も聞き飽きたぞ、アスタール」

 黄金の玉爾を机の上に放り出したファザイアは、厳めしい顔で腕を組んだ。

「言いたくもなりますよ、シールウェ殿下もお可哀想に。
 生きた心地もしなかったでしょうね、おそらく」

 途端に苦虫を噛みつぶしたような表情になったファザイアを、アスタールは棘を含んだ微笑で見つめた。

「言いたい事は尽きませんが、話が進まなくなるので、この辺で止めておきましょう。

──それにしても、キシュラが本当に存在しているとは、信じがたいものがありますね。
急いでカルシアの月神殿に詳しい者を探し、事情を探るようにいたしましょう。
まずは、シールウェ様がいつからキシュラを降ろすようになったか、その辺りの経緯を調べなければならないでしょう。

 ハーディルも忙しいようですから、この件はわたしがお預かりいたします。
 多少手荒な真似をしても、憂いは断つべきでしょうね」

「イディスはカルシアの守護神ゆえ、わたしを抱き込み、カルシアを守ろうとしているのだろう。
 カルシア公国なのか、それともカルシア大公家なのか……。
 どちらを重要視しているか、それが問題だな」

「大公家の守護神であれば、話はよりやっかいですね。
 ダルヴァート帝国は、大公家を潰せなくなる。
 いっそのこと、都に残っているルシャリーン姫に、我が国から適当な貴族を選び、夫君として押しつけてはいかがでしょうか?」

 アスタールの言葉に、ファザイアは考え込むように頬杖をついた。

「公女の夫となると、正妃を娶っている者はまずかろうな。
 今思い当たるのは、我が従兄弟のアンジャルだけだな。
 しかし、あれは母がヴァル・イン帝国の皇族ゆえ、カルシアとは関わらせたくはない」

 アスタールも同意するように頷いた。

「アンジャル殿下は、マヤムーラ姫と従兄妹であらせられましたな。
 アンジャル殿下の母君と、マヤムーラ姫の母君が、姉妹であったはず」

「そういうことだ。ヴァル・イン帝国がカルシアを狙っている以上、かの国の皇族をカルシアに赴かせるわけにもゆくまい。

 ──どうしたものかな。
 放っておくには、カルシアはあまりに危険な国ゆえ」

 机の上に両肘をついて考え込んだファザイアを見て、アスタールは首を傾げた。

「──ルシャリーン姫は、シールウェ殿下の事をどう思っていらっしゃるのでしょう。
 シールウェ殿下が神殿の力を利用するのを恐れていたのでしょうか。
 それとも、大公と同じく、大公家の醜聞としてシールウェ殿下を疎んじておられたのでしょうか」

「詳しいことは判らぬな。
 シールウェはルシャリーン公女を慕っているようだし、公女も塔には訪れていたようだ」

「──では、まずルシャリーン姫と接触を図られてはいかがでしょう?
 大公の心は動かせなくとも、ルシャリーン姫に対してならば、シールウェ様は人質としての価値があるやもしれません。

 どちらにせよ、陛下はルシャリーン殿下を妃にとはお考えになってはおられない。
 ならば次期大公としてお扱いになられてはいかがです?
 ヴァラーム大公殿下が万が一亡くなられれば、公女は次期大公となる。
 彼女との連携を深めておくことは、我が国にとっても損はないはず」

 アスタールの言葉に、ファザイアは傲慢な微笑を浮かべた。

「理にかなっているな、それは。──よかろう、アスタール。
 その言をもって、カルシア対策の方針となすがよい。
 カルシア公国にまつわる諸問題は、そなたに任せる。
 我が国に不利益になるようであれば、大公家も神殿も潰して構わぬ。
 全権を委任するゆえ、そなたの好きなようにやるがいい」

 皇帝の命令を聞き、宰相アスタールは一歩後ろに足を引くと、恭しく一礼をした。


 黄金の火の鳥が翼から最後の炎をまき散らした後、鳥を喰らう漆黒の竜が現れ、全天を覆い尽くした。
 その頭には、老いて盲いた竜を先導する銀の鷺が、静かに座しているのだった。

 黄金の炎の鳥は太陽神の象徴、暗き竜は<夜>であり、銀の鷺は<月>とされた。

 ダルヴァート帝国がまだ辺境の小国に過ぎなかった頃から伝わる、それは神話であった。

 静謐の漂う寝台の上で夢の中から覚醒したシールウェは、最初、己がどこにいるのか判らず、寝室内を見渡した。

──ああ、ここは塔の中ではないのだ。

 ずっと<キシュラの塔>に幽閉されている夢を見ていた。

 どんなに泣き叫んでも抱きしめてくれる腕はなく、いつしか泣くことも忘れた幼子は、感情を殺し、時間の流れに身を任せる術を覚えたのだった。

 しかし長年かけて創り上げてきた氷の鎧は、ここにきてひび割れ、崩れそうになっていた。

 ふと、シールウェは己の頬を伝う涙に気づいた。
 そっと指でぬぐってみると、それは月光に照らされて輝いて見えた。

 呆然と涙を見つめていたシールウェは、緑玉の瞳から次々に雫がこぼれ、ぱたぱたと上掛けの上に落ちるのを見て驚いた。

 止めようと思っても止められない。
 何故、涙が溢れてくるのかすら判らなかった。

「……涙が、止まらない」

 低く呟いたシールウェは、何が起こったのかを全て思い出していた。
 その途端、胸の奥から熱いものが込み上げ、目頭が熱くなった。

 両手で顔を覆ったシールウェは、指の隙間から熱い涙が滑り落ちてくるのを感じていた。

 肩が震えだし、嗚咽がかすかに漏れる。

 己の感情が、シールウェには判らなかった。
 しかし胸の奥は苦しく、幼い頃の記憶と共に、深い孤独が押し寄せてきた。

 その孤独は、まるで底のない深い沼のようだった。
 どんなに苦しくてもがいても、助け上げてくれる手はない。
 力尽きて沈んだとしても、さらに底には深い闇が潜んでいる。

──あの方を、わたしは怒らせてしまったのだ。
 わたしを救い出してくれた存在を、わたしは自ら拒絶してしまった。
 あの方は、わたしをシールウェとして認めてくれていたというのに。

 大切な姉ルシャリーンと、カルシア公国という存在がなければ、あるいは差し伸べられた手を取ることができたのかもしれない。

 しかし、恐ろしかったのだ。
 ファザイアに抱かれてしまえば、巫女としての自分は消滅し、意志のない肉体しか残らない。

──あなた様は神聖なるキシュラの巫女。
 純潔を失えば、キシュラはあなたの魂と共に、この世から消え失せるでしょう。
 汚れたあなた様には、貴き価値は何もございませぬぞ。

 警告のように繰り返し聞かされ続けた大神官の言葉を思い出し、シールウェの目から新たなる涙がこぼれた。

 カルシアを守るため、ルシャリーンを守るために、人形になるわけにはいかない。
 ましてやこの身は醜い異形なのだから、ファザイアに秘密を知られてはならなかった。
 あの美しい銀の瞳に、もし嫌悪の表情が浮かべば、己は耐えられないだろう。 

 その時、薄暗い闇が揺らめいた。

 人の気配を感じてはっと顔を上げたシールウェは、寝台の横にファザイアの姿を見いだした。

 息を止めたシールウェは、驚愕して皇帝を見上げていた。

「──そなたは何故泣いている?」

 ファザイアの声は静かで、驚くほど穏やかだった。
 公子を見下ろす双眸には感情を読みとらせるものはなく、波立たぬ湖面のような静寂があるだけだった。

 胸を突き上げてくる激しい感情に支配されたシールウェは、手元に視線を落として目を閉じ、顔を上げると濡れた瞳でファザイアを見つめた。

「あなたには、わたしの境遇はお判りにならないでしょう。
 存在を否定され、厭われ続けた者の気持ちは……。

 どれほどの孤独や不安、恐怖を味わっても、それを慰めてくれる者はなく、閉ざされた暗黒の中に放り出されているだけだった。

 父上や神官たち、食事や衣服の世話をする侍女までもが、わたしを見るたびに予言を口にしてわたしを責め立てた。
 わたしが呪われた子なのだと、絶えず思い知らせた。

 夜になっても蝋燭さえともされず、小さな天窓から漏れる陽光だけが私の光だった。
 冬になっても暖炉さえたかれず、わずかな日溜まりの中で身を暖めようとした子供が、どれほど太陽に恋い焦がれたか、あなたにはお判りにならないでしょう!

 ──あなたは、全てを持っていらっしゃる、皇帝陛下。
 ならばせめて、わたしを、どうかこのままお見過ごしください。
 決して、帝国の利を損なうような真似はいたしませぬゆえ……」

 かつてないほど激しい口調で続けざまに言い放ったシールウェは、目尻から堰をきったように涙が流れ出したことに気づかなかった。

 息切れさえしてきた公子は、すぐ傍にファザイアが座ったのを感じ、びくりと身をすくませた。

 ファザイアの手がシールウェの頬に触れ、指先が優しく涙をぬぐった。

「そなたを傷つけたことを、詫びようと思っていた。
 そなたがどれほどの苦悩と痛みを抱えているかも考えず、わたしは酷い真似をしたな。
 時々、力加減を忘れる時がある。わたしの未熟さゆえんだが──」

 思ってもみなかったファザイアの言葉に、シールウェは驚愕し、目を見開いたまま皇帝の秀麗な顔を見返した。

「──泣かないでくれ。そなたの涙を見るのは辛い。
 そなたの深い悲しみを知っても、わたしにはどうすることもできぬ。
 悪夢にうなされぬよう、傍にいるぐらいしかな……」

 繊細な硝子細工に触れるように、そっと顎に指をかけると、ファザイアはシールウェの涙に接吻した。
 ──止めどなく溢れる孤独を癒やすように。

「──陛下、わたくしは……」

 不意に自分の立場を思い出したシールウェが口を開きかけると、ファザイアは指で公子の唇を封じ、穏やかに微笑んだ。

「何も言うな。そなたが何者であっても、もはやわたしには関係ない。
 シールウェであっても、ルシャリーンであっても、あるいはキシュラであっても。
 ──だが、わたしの傍にいてくれ。
 いつの日か、そなたの全てを奪い尽くしてみせよう。
 我が愛と、そなたの名に誓って」

 ファザイアはそう言い、シールウェの手を持ち上げて接吻し、さらに額に口づけを落とした。

 あたかも神聖なる儀式を受けているような錯覚に陥り、公子は身をゆだねていた。

 やがて、ファザイアが優しくシールウェを抱きしめた時、公子の頬にきらめく涙が滑り落ちた。

 それは、今までにない不思議な感情を含み、月光を浴びて美しく輝いた。

 胸の奥の空虚に、何かがゆっくりと満たされ始めていた。
 それは、不思議なほど穏やかで暖かいものだった。

 シールウェを広い胸元に引き寄せたファザイアは、その艶やかな黒髪を優しく撫でた。

 いつの間にか孤独が消え、穏やかな気持ちになっていたシールウェは、力強い心臓の拍動を聞きながら、だんだん瞼が重くなっていくのを感じた。

「夜が明けるまでこうしていよう。安心して眠るがいい」

 ファザイアの声は驚くほど優しく、魔法をかけられたように、シールウェは深い眠りに落ちた。

 悩まされ続けた悪夢を見ることもなかった。まるで守護の翼に包まれたように。

 翌朝目覚めたシールウェは、いまだかつてないほど、己の心が平穏であることを感じた。

 ──波のないキアヴール湖のごとき静寂。

 暖かく、力強い腕が己の肩に回されたまま、シールウェの隣でファザイアが眠っていた。

 人を圧倒する銀の瞳が閉ざされていると、迸るような覇気は感じられない。

 優れた彫刻のような顔は穏やかで、いつもより幾分若く見えた。
 髪よりも濃い色をした睫毛は驚くほど長く、右目の下に細い小さな傷跡があった。

 身動きをすれば起こしてしまうとも思ったが、シールウェが身体を起こしても、皇帝は深い眠りから目覚めることはない。

 ためらうように指先を伸ばしたシールウェは、ファザイアの黄金の髪に触れてみた。
 思ったよりも遙かに柔らかくてしなやかな髪は、まるで朝陽のように輝いていた。

「──あなたに出会えた事こそが、わたしにとっては奇蹟なのかもしれません」

 胸の中で小さく呟いたシールウェは、祝福を与えるかのごとく、皇帝の額に口づけを落とした。

 その時、不意にファザイアの唇が笑みの形につり上がり、驚いたシールウェはうなじを引き寄せられていた。

「愛しい妃が優しく起こしてくれるとは、至福に満ちた朝だな」

「──起きておられたのですか?」

 シールウェが顔を赤く染めると、ファザイアはくすりと笑った。

「そなたが逃げ出すようなら、捕まえてやろうと思っていた。
 だが、状況は思ったよりも悲観的ではないらしい」

 ファザイアは誘うような眼差しでシールウェを見上げ、細い身体を抱き寄せ、唇を奪った。

「──月神に誓った身ではあるが、接吻は許されている。
 誰が何と言おうと、そなたはわたしの妃だ。
 わたしに愛されるということがどういうことなのか、覚えておくのだな」

 怯えたように身体を硬くしたシールウェの額に、ファザイアは軽く口づけした。

「今日のところは許してやろう。わたしから逃げなかっただけでも、大した進歩ゆえ」

 くすくすと楽しげに笑ったファザイアは、驚いているシールウェを見つめると、もう一度深く、溶けるほどに甘い口づけを与えた。