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後宮の月


第2章

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 広く開け放たれた城門が見える所まで馬を進め、壮麗な宮殿を仰いだヒルダーンは、隣に漆黒の駿馬を立てたルシャリーンに苦々しげに訊ねた。

「おい、本当にこんな馬鹿馬鹿しい作戦でいくのか?」

「無論じゃ。それに、馬鹿馬鹿しいかどうかは、やってみなければ判らぬであろうが」

 あっさりと頷いた公女を見て、ヒルダーンは辛辣に毒づいた。

「知ってるか? 後悔ってやつは、必ず後に来るものなんだぜ」

 するとルシャリーンは可笑しげに笑い出した。
 それはどう聞いても、一国の公女とは信じがたいものだった。

「──そなた、思ったよりも心配性じゃな」

「あんたが考えなさすぎなんだ。
 しかし、他にこれといった策も思いつかぬし、奇策で勝負するしかないか」

 大げさに嘆息してみせたヒルダーンは、慎重に布で顔を隠しているルシャリーンの横顔を眺めやると、不遜な笑みを浮かべた。

「では、出陣と行きますか」

「頑張ってくれよ、ヒルダーン。
 そなたが棒芝居をしたのでは、私の苦労が水の泡だからな」

「無論、心得ておりますよ、月のごとくに麗しき姫君」

 軽口をたたき合った後、2人は旅人を装い、宮殿の大正門へと近づいていった。


 城門の両側にそびえ立つ塔から見張りをしていた門衛は、2人連れの旅人が城門の前を通り過ぎるのを無感動に見つめていた。

 1人は見事な青毛に跨っており、もう1人の方も連れの騎馬には劣るものの、駿足そうな葦毛に乗っていた。

 いずれはあんな駿馬を手に入れたいものだと呑気に考えていた門衛は、その青毛に乗っていた旅人が急に落馬し、地面の上でもがき苦しみ始めたのを見た。

「──おい、しっかりしろ。大丈夫か?」

 葦毛に乗った連れが、倒れた者の傍らに降り立ち、腰を屈めて声をかけた。
 そして驚愕の声を上げ、慌てて後退った。

 何か異変があったことを察した門衛は、同僚に合図を送った。
 すると塔の下にある詰め所から控えの門衛が姿を現し、苦しんでいる旅人に歩み寄った。

「おい、何事だ?」

 すると、葦毛の旅人は驚いたようにお辞儀をし、恐る恐る仲間を指さした。

「わたしたちはヴァル・イン帝国の遙か東方にあるセムラン王国より参った商人ですが、途中で立ち寄ったカルシアで、どうやら友人が悪疫をうつされたようでして」

「悪疫だと!?」

 門衛は、倒れてもがき苦しんでいる旅人の方へと近づき、乱れた頭巾の中に見える顔を覗き込んだ。

 その瞬間、短い悲鳴を上げると、2、3歩後ずさりした後、地面に尻餅をついた。

 旅人の顔は、原形をとどめぬほど膨れあがり、毒茸のようにぼこぼこになっていた。
 唇と鼻は歪み、瞼は蝋のように垂れ下がっている。
 その醜い顔からは、鼻につくような異臭が立ちこめていた。

「近くに医者でもいれば良いのですが、何せこのヴァルーズを訪れたのは初めてでして、右も左も判らぬのでございます」

 砂よけの頭巾を取った商人は、黒髪に琥珀色の双眸という珍しい容貌をしており、セムラン王国を知らない門衛は、あっさりと信じ込んでしまった。

「よ、よし。この宮殿には、民のために開かれた施療院がある。
 そこに案内してやるから、とにかくその仲間を連れてまいれ。
 厄介な悪疫であれば、帝都をウロウロされては困るゆえな」

 腰を抜かしかけた門衛は、威厳を取り戻すかのように何度か咳払いをすると、ふんぞり返って歩き始めた。

 仲間の身体を馬に乗せた商人は、顔を隠すように頭巾を深く被ると、二頭の馬の手綱を取り、その後について歩き始めた。

 宮廷施療院は、城門から入って広い前庭をずいぶんと歩き、右手の方に送水所や宮廷厩舎などと並んで建っていた。
 白い長衣を着た医師たちが忙しく働いており、馬に乗せられた病人を見ると、手の空いていた医師の1人が足早にやって来た。

「どうした。どこが悪いんだ?」

 医師は奇妙な甲高い声で訊ねてきた。
 門衛が状況を説明すると、医師は重々しく頷き、白い担架を持ってくるようにと近くにいた女奴隷に命じた。

 悪疫にかかった者は、必ず隔離される。
 窓一つない小部屋に連れて行かれたヒルダーンは、簡素な寝台に寝かされたルシャリーンを見て内心で笑っていた。

 悪疫がうつらないように、頭巾や手袋をつけた医師に、ヒルダーンはでっち上げての病状を事細かに説明した。
 その経緯を聞くにつれ、医師の顔が苦々しくなり、話し終えた頃には顔全体に皺が寄っているほどであった。

「そちには悪いが、この病気は治りそうにもないぞ。
 苦しむだけなら、いっそ楽にしてやった方が良いのではないか?」

 甲高いがかすれた声でそう言った医師は、眉をひそめた長身の男を見上げた。

「冗談じゃない。こいつは俺に多額の借金をしているんだ。
 それを返してもらうまでは、死んでもらっちゃ困る」

「そちの言い分は判るが、そちまで悪疫が伝染しては元も子もあるまい?」

 医師が人差し指を振り上げながら言った。
 それを見下ろしたヒルダーンは、気難しげな顔になると、やがて名案を思い出したように両手を打ち合わせた。

「カルシアには、この病によく効く薬草があるそうだ。
 月香花というのだが、知っているか?」

 そんな薬草の名前を聞いたこともなかった医師は、ゆっくりと首を横に振った。

「知らぬ。どんなものじゃ、それは?」

「カルシアでは割と有名な花らしい。
 女どもの香水や、爪を染めるのによく使うらしいんだが、薬効もある。
 しかし問題なのは、その薬草がカルシアでしか手に入らないってことだ。
 知り合いにカルシア女でもいればいいんだが、何しろヴァルーズは初めてでね」

 ヒルダーンは嘆くように宙を仰ぎ、友人を悲しげに見下ろした。

「おまえも不運な奴だよな。ここがカルシアならば助かったものを」

 すると、何やら深く考え込んでいた医師が、重々しい声で言った。

「城壁無き悠久の都で、治せぬ病などあってはならん。
 それが属国であるカルシアで治せるという病であれば、なおさらじゃ。
 ──カルシアの女が、その月香花とやらを持っているのじゃな?」

「十中八九はな。カルシア女は、爪を染めることに関しては驚くほど神経質なんだ。
 月香花は、乾燥させてすり潰すと桜色になるんだが、染める直前に潰さないと綺麗な色が出ないらしいぜ。
 だから、彼女たちは革袋に常に乾燥させた薬草を入れているのさ。
 ところで、何でそんな事を聞く?」

「皇帝陛下の後宮に、カルシアの公女が入られたのだ。
 侍女を伴って来られておるから、案外誰かが持っているやもしれぬと思ってな」

 医師は納得したように頷くと、手を打って傍に控えていた女奴隷に言った。

「すまぬが、後宮から1人カルシア女を連れてきてくれ。
 できれば、綺麗に爪を染めている若い女がよい」

 女奴隷が出ていくと、医師は嬉しそうに唇を歪めながら頷いた。

「いやはや、わしも長い間ここで医師をやっておるが、これほどひどい悪疫は初めてじゃ。
 そちは良いことを教えてくれた。
 さっそく薬草学を調べ直してみて、論文を発表しよう。
 わしの名声もさぞかし上がるじゃろうて」

 気味の悪い笑い声を上げながら、医師は小部屋の外へと出ていった。

 気配が遠ざかったことを確認したヒルダーンは、低く笑い出した。
 医師の反応があまりにも可笑しかったからである。

 すると、寝台で横になっていたルシャリーンが、抑えた声でそれを窘めた。

「静かにしておれ、馬鹿者。
 病人を看護する者が笑っていてどうする」

 しかしヒルダーンの笑いは止まらなかった。

「あの医師の言葉を聞いただろう? 論文を発表するとさ。
 さぞかし大恥をかくだろうと思ってな」

「──あの医師は宦官だ。宦官というのは概して単純な者が多いというからな。
 残忍だったり傲慢な者も多いが、この特徴だけは案外皆に当てはまるらしい」

 醜い顔から漏れる声は玲瓏たる美しさで、その不釣り合いが奇妙であった。

「で、どうする? 侍女を抱き込むつもりか?」

 ヒルダーンが問うと、醜い顔をしたルシャリーンが低い声で答えた。

「シールウェにつけた侍女の大半は、わたしの侍女だった者じゃ。
 シールウェを大切に扱うように厳しく言っておいたからな。
 まあ、わたしの顔を見れば、全員が従うだろう」

「そうであることを願うね」

 皮肉げに笑ったヒルダーンは、それっきり黙り込むと、侍女を連れた女奴隷が戻ってくるのを部屋の外で待った。


 気が遠くなるほどの時間が過ぎ、ようやく女奴隷が戻ってきた。

 彼女はヴェールを被った1人の若い侍女を連れていた。

「すまんが、薬草をすりつぶす道具と、湿布する布を持ってきてくれないか。
 あと、医師にここには誰も近づくなと伝えるように言ってくれ。
 薬草を塗っても、伝染しないとは限らないからな。
 俺は仕方がないからここに残る。
 それも、医師に伝えておいてくれ」

 ヒルダーンの言葉に、女奴隷は無言で頭を下げてお辞儀をすると、小部屋から出ていった。

「声が出せないのかな、あの女は」

 ふと疑問に思い、ヒルダーンが呟くと、伴われてきた侍女が口を開いた。

「舌を抜かれてしまっているのです。
 わたくしに伝える時も、紙に書いて用件を告げましたから。
 ……何か御用があるとか聞きましたが」

 顔を見られないように厚いヴェールを被った侍女が、顎を上げてヒルダーンを見上げた。

「あんたの名前は?」

「ニネヴェと申します。ルシャリーン公女殿下のお世話をいたしております」

 優雅に一礼したニネヴェを見て、ヒルダーンは愉快そうな微笑を浮かべた。

「俺を覚えているか、ニネヴェ?」

 顔を覆っていた頭巾を取り、容貌をさらしたヒルダーンはそう訊ねた。
 彼の顔を見上げたニネヴェは、驚いたように声を上げた。

「まあ、あなたはヒルダーン様。今までどこにおられたのですか?」

「ちょっと訳ありでね。──さて、時間がないから用件に移るぞ。
 いいか、今から何を見ても絶対に驚くなよ。
 声も立てるな。判ったな?」

 ヒルダーンの言葉に驚いたニネヴェであったが、素直に頷いた。

 小部屋の中にニネヴェが入ると、寝台に横たわっていた人物が身体を起こした。
 その身の毛がよだつほどの醜悪な顔を見て、ニネヴェは悲鳴を上げかけたが、ヒルダーンの言葉を思い出して必死で息を呑み込んだ。

「心配するでない、ニネヴェ。わたくしじゃ」

 ルシャリーンは、顔を覆っていた樹脂の仮面を脱ぐと、呆気にとられている侍女に優しく微笑みかけた。

「──ルシャリーン様! どうしてここへ!?」

 ヴェールを取り払ったニネヴェは、床に膝をつき、公女の膝にすがりついた。

 ルシャリーンは艶やかに微笑むと、侍女の手を優しく取り上げた。

「説明をしている暇がないのです。わたくしはシールウェを救いに来ました。
 そなたはわたくしの力になってくれますね?」

 公女の美しい顔を陶然と見上げていたニネヴェは、少しも疑念を抱かずに頷いた。

「はい、殿下。殿下がお望みならば、炎の中さえくぐり抜けてみせましょう」

 褐色の双眸を輝かせたニネヴェに、ルシャリーンは微笑んだ。

「さほど難しいことではありませぬ。
 そなたはわたくしの代わりにここに残り、そなたの衣装を貸してくれさえすれば」

「仰せの通りにいたします、ルシャリーン様」

 ニネヴェは床に跪き、ルシャリーンの衣に恭しく接吻した。

 その様子を呆れたように見守っていたヒルダーンは、公女の鋭い声を聞いて肩をすくめた。

「ここで着替えるゆえ、こちらを絶対に見てはなりませぬぞ」

 そのくらいの恥じらいは残っていたのかと感心しつつ、公女の言葉に従ったヒルダーンは、こちらに向かってくる微かな足音を聞きつけ、警告を発した。

「早くしろ、人が来る」

「……終わった。もうこっちを向いてもよいぞ」

 間一髪で変身は終了していた。

 安堵のため息をついたヒルダーンは、女奴隷が入ってくると、愛想の良い笑みを浮かべて感謝の言葉を述べた。

「ありがとうよ、お嬢さん。さて、あんたも逃げているんだ。
 せっかくの綺麗な顔を、台無しにしたくはないだろう?」

 すると奴隷女ははにかむような微笑を浮かべると、足早に外へと出ていった。

「さて、ニネヴェ。宮殿の様子を説明してくれないか。
 姫はこれから、1人で後宮に戻らなければならないんでね」

 ルシャリーンの代わりに醜い仮面を被らされたニネヴェは、小さな声で説明をしはじめた。
 そして最後に付け加える。

「お気をつけ下さいませ、殿下。
 後宮までは、国政庁や大宰相府などの建物の横を通り過ぎていかねばなりませぬ。
 大臣たちや近衛兵が至るところにうろうろしておりますゆえ」

 湿布の布を顔に巻かれ、さらに不気味な形相となったニネヴェは、侍女の服装になったルシャリーンを目だけで追った。

「感謝します、ニネヴェ。いずれ、また会いましょう」

 そう言い残し、ルシャリーンは足早に小部屋から外に出ていった。