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後宮の月


第2章

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「大丈夫でしょうか、ルシャリーン様は」

 心配そうに呟くニネヴェに、ヒルダーンは確信に満ちた答えを返した。

「平気さ。あの姫君は、見かけによらず逞しいところがあるからな」

「そうでしょうか……」

「間違いない。ここしばらく、行動を共にしている俺が言うんだからな」

 ヒルダーンは安心させるように言うと、気がかりだったことを訊ねた。

「シールウェは元気にしているのか?」

 その問いを聞き、ニネヴェは重いため息をもらし、不気味な顔をヒルダーンの方へ向けた。

「一昨日の夜、皇帝にお呼ばれになりました。
 運ばれて来られた時には、気を失っておられて……。
 そのせいなのか、昨日は一日中眠り続けておられました。
 今朝は、だいぶお元気になり、お食事も摂られましたが」

 それを聞いたヒルダーンは、鋭く舌打ちをした。

「後宮に慣れるまでもうしばらく待つんじゃないかとも思ったが、獅子帝も存外手が早いな」

 ヒルダーンの言葉を聞き、ニネヴェは躊躇うような口調で小さく話はじめた。

「それが、皇帝陛下はずいぶんとシールウェ様を気にかけておられる様子なのです。
 殿下は、謁見の時も気を失われて、その後は7日間も眠り続けておられました。
 その間には何度もお見舞いにいらっしゃってましたし、昨夜もお気遣いになられたのか、御館の方まで来られたのですよ」

「──今朝のシールウェの様子はどうだった?
 変ったような感じはしなかったか?」

「ええ、特には。ただ少し、明るい表情がお戻りになったでしょうか。
 宮殿に入ってからというもの、ずっと気を詰めていらっしゃったのです。
 ルシャリーン殿下のように気丈に振る舞われていらっしゃいましたが、わたくしは痛々しくて見ていられなかった。
 でも、今朝は、不思議なほど穏やかな表情をされておられましたよ。
 陛下と、何かお話になられたのかもしれませんが……」

「ということは、皇帝は公子の純潔を奪えなかったというわけだな。
 それはそれは、お気の毒に──」

 くっと喉を震わせて低く笑ったヒルダーンを見上げ、ニネヴェはため息をついた。

「けれど、このままでは時間の問題ですわ、ヒルダーン様。
 後宮内でもっぱら噂になっておりますもの。
 皇帝陛下は、シールウェ様を皇后にお迎えになるおつもりなのだと」

 ニネヴェの言葉に、ヒルダーンはぴたりと笑いを止め、愕然としたように侍女を見下ろした。

「──何だと?」

「シールウェ様がお住まいになっている御館は、かつて陛下の母君であるトゥロネス王国のエレディン姫がいらっしゃったとか。
 春の女神のように美しい姫君を、皇帝は寵愛され、後に皇后とされているのです。
 エレディン様が亡くなってからずっと閉ざされていた御館を、シールウェ様のためにお開きになったのですから、そういう噂がでても不思議ではありませんわ」

 ニネヴェの話を聞き、床を蹴りつけたい衝動に駆られたヒルダーンだったが、必死で激情を胸の裡に押さえ込んだ。
 しかし完全には上手くいかず、檻に閉じこめられた黒豹のようにうろうろと歩き回った。

「わからん。どうして皇帝は、カルシアのような小国にそこまでこだわるんだ?」

 そんなヒルダーンを見ていたニネヴェは、小さな声で呼びかけた。

「どうした?」

「あの……この仮面、痒いんですけれど」

 その言葉に呆れたように見下ろしたヒルダーンは、大きくため息をついて言った。

「悪いが、我慢してくれ。シールウェが戻ってくるまでな」

 すると若い侍女は悲しげな口調で言った。

「顔が荒れてしまいますわ。
 ルシャリーン様は、よくこれにお耐えになられましたわね。
 何と気高きお心なのでしょう」

 今度こそ完全に呆れ果てたヒルダーンは、眉間を指で押さえて考え込んだ。
 己の侍女の認識に、とてつなく深い隔たりを感じたからである。

 仮面を考え出したのは公女であると侍女に教えてみたい気もしたが、ここまで心酔しているニネヴェの幻想を打ち砕くのは、何やら哀れにも思えた。

 我ながら似合わないと思いつつ、深いため息をついた蛮族の戦士は、白々とした簡素な小部屋の天井を仰いだのであった。


 公共的な施設の立ち並ぶ第一宮殿域、通常は外廷と呼ばれる敷地を通り抜け、堅牢な内城城壁の中へと無事に入り込んだルシャリーンは、安堵に胸をなで下ろした。

 「城壁無きヴァルーズ」と謳われる中で、皇帝や帝国内の重要人物が勢揃いするこの場所には、さすがに高い壁が巡らされ、警備も比較にならないほど厳重であった。

 しかしカルシア公女付きの侍女であるという身分証と、未婚のカルシア女がヴェールで顔を隠す習慣があることも手伝い、さほど厳しい尋問を受けることはなかった。

 「銀の通廊」と呼ばれる列柱の並んだ回廊の廊下の隅を、ルシャリーンは見とがめられぬように歩いていた。

 公女の侍女を現す銀の印を身につけているため、衛兵が近づいてくることはなかったが、近衛兵によって厳戒な警備がなされた内廷は、息苦しくなるほど緊迫していた。

 その時、大勢の者が歩いてくる足音を聞き取り、ルシャリーンは歩みを止め、建物の陰に身を隠した。

 角から現れたのは、御前会議を終えた大臣や宰相たちであり、その一行には20人もの近衛兵が護衛に当たっていた。

 息を殺して一行をやり過ごしたルシャリーンは、人の切れ目を狙って再び歩き始めた。

 角を曲がり、後宮に勤める宦官や女官たちが使う裏道へと続く門を探す。
 しかし迷路のような宮殿は呆れるほど広く、行けども行けども似たような列柱回廊が続いているようにも見えた。

「……甘かったか?」

 さすがにうんざりしてきた頃、ルシャリーンはぼそりと小さく呟いていた。

 と、廊下が交差する角を通り抜けようとしたルシャリーンは、左手から足早にやってきた者に危うくぶつかりそうになった。

 左方から現れた男は護衛もおらず、彼は何やら考え事をしていたのか、うつむいたまま歩いて来ていたのだった。

「──おっと、これは失礼」

 ぶつかる直前にお互いに気づき、慌てて立ち止まった男は、不覚にもよろめいたルシャリーンの腕をつかんだ。

 一瞬、顔を隠していたヴェールが揺れ、公女の顔が空気にさらされた。

 はっとしてヴェールをたぐり寄せたルシャリーンは、相手の男の顔を上目遣いに一瞥すると、小さく安堵の吐息をついた。
 どうやら、彼はルシャリーンの顔は見なかったらしい。

 その男は、簡素には見えるが最上の生地を使った長衣をまとっていた。
 一目で文官と知れる鵞ペンや墨壺を帯の間に挟んでいる。
 一見すると普通の文官に見えたが、編まれた長い髪やその双眸を見て、公女は思わず戸惑いを覚えた。

 まだ若いその男は、女のように優美な面立ちをしており、月光を思わせるような白金の髪と、冷たい海のような紺碧の瞳を持っていた。
 すらりとした痩躯の体型は華奢にすら見え、その物腰には気品があった。

 しかしルシャリーンの腕を掴む力は驚くほど強く、男が見かけほど脆弱ではないことを公女は素早く察した。

「失礼しました。つい考え事にふけってしまい、あなたに気づかなかったのです」

 男は端麗な顔に驚くほど優しい微笑みを浮かべ、謝罪するように腰を折った。

 そしてヴェールに覆われたルシャリーンの顔を見つめ、好奇心を含んだ声で言った。

「ルシャリーン殿下の侍女の方ですね。殿下はお元気ですか?」

 男の声には警戒心や敵愾心といったものはまるでなく、ただ素直な疑問があるだけのように思えた。

「はい、長旅でお疲れでしたが、少しはお元気になられたように思えます」

 礼を失せぬようにお辞儀をして答えた公女は、白鹿のような貴公子を見つめた。

「そう、それは良かった。我々もご心配申し上げていたところだったのです。
 ところで、殿下の侍女ならば丁度よい。
 少しお訊ねしたいことがあるので、私の執務室に寄っていただけませんか?」

 男の言葉に微かに動揺したルシャリーンは、慎重に言葉を選んで話した。

「わたくしは、殿下から早く戻るようにと命じられております。お許しくださいませ」

 しかしその言葉は、文弱の貴公子風情の男によってにべもなく断られた。

「そうもいかないのですよ。これは殿下の御身にも関わる重大事。
 カルシアの命運を揺るがしかねぬ事ですから、おそらく姫君もお許しになられるでしょう。
 ──さあ、こちらです」

 ルシャリーンの腕を強引に引いて歩き出した男に、公女は慌てたように言った。

「わたくしは、まだこの壮大なる宮殿に来て身が浅い身、閣下の御名を存じ上げませぬ。
 どうぞ、あなた様の御名をお聞かせ下さいませ」

 その名次第で態度を決めようと考えた公女は、腕をつかんだまま歩いていく男に向かってそう言った。

「私の名はアスタールです。知っていたところで、あまり役には立ちませんけれどね」

 答えた男の名前は、ルシャリーンに大きな衝撃をもたらした。
 アスタールと言えば、皇帝の寵臣であり、25歳の若さで宰相にまで引き立てられた者であったからである。
 その才は政務や軍務を問わず、カルシア攻略の際には全権大使を務めたほどであった。

「これは逃げられぬ」とルシャリーンは内心で呟いた。

 その白鹿のように優美な姿からは想像できぬほど、アスタールは油断のならぬ者であったからである。
 皇帝ファザイアの秘蔵の剣とまで言われるほどに。

 諦めたルシャリーンは覚悟を決め、宰相アスタールの執務室へと入った。

 そこは絢爛豪華な宮殿の中でも、不思議なほど質素に作られた部屋であり、内心で公女は首を傾げてしまった。

「驚いておられるのですね。
 わたしはその昔、遙か遠い北方の国で生れたのですよ。
 そこにはまだ、これほどきらびやかな文明はありませんでした。
 城も薄暗く、重苦しい。
 しかしわたしは、極彩色の壁に囲まれているよりは、こういった部屋の方が落ち着くのです」

 公女の腕を放し、散らかった執務机の方に歩んでいった若き宰相は、使われていない暖炉の傍にある長椅子にルシャリーンを座らせた。

「──さて、何からお話すべきでしょうかね、ルシャリーン殿下?」

 執務机に寄りかかったアスタールは、そう言葉を発した。

 それを聞いた途端、ルシャリーンの身体に戦慄が走った。
 公女はヴェールの中から宰相を睨むと、口調だけは冷静に答えた。

「何のことでございましょうか、宰相閣下。
 わたくしは、殿下の侍女にすぎませぬ」

 すると優しげな微笑を浮かべたまま、アスタールは首を傾げて公女を見つめた。

「言い訳は無駄ですよ、姫。
 わたしは先ほど、あなたの美貌を見ましたし、何より声を聞いていますからね。
 謁見の間にいたわたしは、あなたの類い稀な美声に感動を覚えたほどです。
 ──聞き間違うはずはないのですよ、双子でもなければ」

 ごまかしがきかぬことを察したルシャリーンはヴェールをつかむと、荒々しくそれを引きずり下ろした。

「それで? わたくしををどうするおつもりじゃ、宰相閣下?
 陛下に引き渡すのか、逃亡者として」

 後宮から逃げ出した者の罪は重く、多くは処刑されていたし、許されても鞭打ちぐらいは免れないと聞いていた。

 ルシャリーンの秀麗極まりない顔を感嘆の面持ちで見返していたアスタールは、唇に不思議な微笑を刻んで答えた。

「さて、どういたしましょうか。
 わたしが見たところ、殿下は後宮に戻られようとしていた。
 逃げ出したわけではなさそうですが、違いますか?」

 問いかけられ、不審に思いながらもルシャリーンは頷いていた。

「では、陛下に申し上げる必要はなさそうですよ」

 アスタールはにこりと笑った。

 しかし抜け目ない宰相の言葉を信用しなかったルシャリーンは、鋭く双眸を光らせてアスタールを睨みつけた。

「そなたの言葉は信じられぬ。
 皇帝に隠し事をするとも思えぬゆえな。
 わたくしを嬲るつもりなら、今すぐにでもこの部屋を出ていってやろう。
 自分から素顔をさらすことなど、わたくしは厭いはせぬゆえ」

 公女の言葉は、しかしアスタールを喜ばせただけであった。
 彼は可笑しそうにくすくすと笑い、思惑を秘めた瞳でルシャリーンを見つめた。

「これは、謁見の間でお倒れになった姫とも思えぬ気丈なお言葉。
 そよ風に吹かれただけでも倒れそうなたおやかな姫君が、これほど意志の強い御方だったとは誰が思いましょうな」

「──黙れ。わたくしはそなたと無駄口を叩いている暇はないのじゃ。
 後宮に戻るゆえ、さっさと用件を言わぬか」

 ルシャリーンが立ち上がると、アスタールは目を細めて公女を見つめた。

「それでは申し上げましょう。
 何の御用件で後宮を出る気になられたかは詮索いたしませぬが、護衛の者をつけますので、早急にご自分の御館にお戻りなさい。

 陛下は、今宵もあなた様をお呼びになられるでしょう。
 ずいぶんとご執心のようですからね。

 陛下の機嫌を損ねるのは得策ではありませんよ、姫。
 あの方は誰よりも激しく強い御心を持っておられます。
 本気で怒らせてしまえば、烈火のごとく、あなたを焼き尽くしてしまわれるでしょう」

 アスタールの言葉に、ルシャリーンはやや戸惑った。
 そして優美に微笑む宰相を見返す。
 若い宰相が何を考えているのか、この時、公女は図りかねていた。

「わたくしを、見逃すというのか?」

「あなた様はご自分の意志で後宮に帰ろうとなされた。
 それで十分なのではありませんか?

 さあ、ヴェールをおつけなさい。
 公女の侍女を、後宮まで送らせますから」

 アスタールはルシャリーンを見つめ、一癖も二癖もありそうな謎めいた微笑を浮かべた。

 ルシャリーンは忌々しく思いながらも宰相の言葉に従い、ヴェールをつけた。

 するとアスタールは手を叩き、宦官の1人を呼び寄せると、静かに命令を下した。

「この侍女殿を、ルシャリーン殿下の御館までご案内せよ」

 宦官は宰相に向かって恭しくお辞儀をすると、扉を開いて公女を待った。

 歩みだしたルシャリーンは、ふと宰相アスタールを振り返り、一言告げた。

「──そなた、変わり者じゃな」

 するとアスタールはくすりと笑い、紺碧の双眸を細めた。

「ご用心なさい、殿下。後宮には古来より魔物が住むと言われています。
 第一の寵姫となられた御方は、その魔物を必ず刺激いたしましょう」

「ご忠告に感謝いたします、宰相閣下」

 侍女らしく優雅にお辞儀をしたルシャリーンは、宦官に伴われて執務室を出ると、今度は隠れることもなく後宮に向かったのだった。