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後宮の月


序章 



  太陽が山間に沈み、月が上ってくると、ヤヴァシュの町に神秘的な音楽が流れ始めた。

  笛や琵琶の音が闇の中に響き、月の神殿が篝火の中に白く浮かび上がる。

  町の人々は白く長いヴェールを纏い、ゆっくりと神殿を目指して歩いていた。


  同じような白い長衣と地面まで届く頭巾という巡礼服を被ったラシールとアシュランは、人の波にまぎれてキシュラ神殿の中へと入り込んだ。


「大人気だな。奇跡とやらがまやかしだとしても、大したものだ」


 ラシールが低く呟くと、アシュランがそれを聞きとがめて言った。


「そんな不信心なことを言っていると、怪しまれてしまいますよ」


「どうせ聞こえていない。見ろ、神官たちのお出ましだ」


 民衆から一段高くなった台座の上に、神官たちが半円を描くように立っている。

最後に銀の錫杖を持った大神官と、大神官に導かれるようにして、キシュラの化身とされるシールウェが姿を現した。

 その姿は、魔性かと見まがうほどに美しかった。
白い長衣に包まれた身体は雪を欺くほどに白く、細い首と胸元は大きな緑柱石と銀の首飾りによって飾られている。長い艶やかな黒髪が背中に流れ、繊細な美貌は目が眩むほど魅惑的だった。


 しかし長い睫毛に縁取られた目は悲しげに伏せられ、華奢な肩が微かに震えているのをラシールは見取っていた。
 歩む足取りは重く、哀れなほど怯えきっているようにも見える。


 この美しいがか弱げな存在が月神キシュラの化身と崇められていることに、ラシールは不信感を抱いた。


 やがて月光が白い神殿の中に満ちると、誰からともなく溜息が零れた。


 静寂が訪れ、月が天窓から姿を現す。


 その時、黙ったまま立ちつくしていたシールウェがはっと美しい顔を上げ、満月を見つめた。
魔性を宿したかのような緑柱石の双眸が大きく見開かれ、白い身体がびくりと震える。


 思わず息を殺していたラシールは、シールウェが鮮やかな変貌を遂げるのを見つめていた。

 今にも崩れそうなほど儚げだったシールウェは、天から降りそそぐ月光を浴びて圧倒的な存在感と気品を持つ存在へと変化していた。

 神官たちは一歩後ずさり、片膝をついて頭を垂れている。


「キシュラが降臨された。病める者、傷ついた者、悩める者は恩恵を請うがよい」


 大神官が朗々とした声で告げると、群衆の間からどよめきが起こった。

 人々は我先にと押し寄せ、女たちは金切り声を上げ、赤ん坊が大声で泣きわめき始めた。


「やかましいな。うんざりしてきたぞ」


 ラシールがぼそりとぼやくと、アシュランが苦笑しながら言った。


「生きた神話上の存在を目の当たりにする光栄に浴しているんです。少しは敬虔な気分になれないんですか?」


「お前と同程度にはなっているさ」


 その時、石像のように身動きをしなかったシールウェが声を放った。


「静まりなさい。吾はここにいるのだから」


 大きな声ではなかったが、玲瓏たるその声は神殿の中に響きわたった。

 その瞬間、ざわめいていた民衆が水を打ったように静まり返った。
 人々の目には敬いと畏怖、期待と不安が入り混ざっていた。


「聖なるキシュラよ、どうか光を失った我が子に光をお与え下さい」


 色あせた衣を纏った女が、涙を流しながら子供をシールウェの前に差し出した。
 シールウェは白い繊手を子供に差し伸べ、その閉ざされた双眸の上に置いた。
降り注ぐ月光の下で、やがて子供の瞼が開いた。


「お行きなさい。あなたの子供は再び光を見ることができるだろう」


 静かな声が響くと、母親は号泣してシールウェの足下に跪き、その足に口付けをした。


 その後、列をなして病を癒してもらおうとする人々が続いた。
 シールウェは慌てる風でもなく、堂々と落ち着いた物腰で人々の願いを叶えていった。


「おかしい。さっきとはまるで別人だ」


 ラシールが呟くと、アシュランも頷いた。


「確かに。月神が憑いたということなんでしょうか。
演じているとすれば、見事というしかありません」


 ラシールはしばらく黙り込み、人々に優しく微笑みかけるシールウェを凝視していた。


「思った以上に危険だな。よくいるかたりの者とは違うらしい」


 ラシールの表情は硬くなり、その声音も低く変化していた。


「はい。やがてこの噂は他の国々へと広まるでしょう。
信者が増えれば、カルシア攻略は難しくなってきます」


 アシュランが同意すると、深くかぶった白い頭巾の下でラシールの銀の瞳が光った。


「先に帰っていろ、アシュラン。わたしはあの麗しい月神に会ってくる」


「気は確かですか、ラシール様!」


 アシュランが愕然として言うと、ラシールはにやりと笑って片目をつぶって見せた。


「馬鹿な真似はせん。心配するな」


 引き留めようとするアシュランの手を振り切り、ラシールは群衆をかき分けるようにして前方へと進んだ。
 足が萎えた男が歩けるようになって帰っていくと、ラシールはシールウェの前に立った。


 恭しく跪き、その衣の裾に口づけると、ラシールは顔を上げた。


「美しきキシュラよ。わたしの罪をお許しください。
わたしは多くの人々を殺め、傷つけてきました。
わたしの罪を許し、祝福をお与え下さい」


 ラシールの言葉に、シールウェは鮮やかな緑色の双眸を向けた。
その瞳には限りない慈悲と憐れみ、そして理知の光があった。


「罪深き者よ。そなたの名は?」


「我が名はラシール」


 シールウェは淡く微笑むと両手を伸ばし、ラシールの顔を包んだ。
ひんやりとした手の感触が頬に触れた。


 その途端、穏やかだったシールウェの顔に動揺が走った。
緑柱石の双眸が大きく見開かれ、ラシールの銀の瞳を凝視する。


 シールウェはラシールの耳元に顔を寄せると、囁きかけるような声で言った。


「そなたは、いずれ吾を殺める。
吾の存在を消滅させるだろう。西より来たる猛き獅子よ、そなたはこのカルシアに混乱をもたらす者、月の子を喰らう者。
とはいえ、吾は祝福しよう、太陽に愛されたる者よ。
そなたの身に平安が訪れるように。だが、早々にこの国を去れ。
二度と、吾の前に姿を見せてはならぬ」


 言い終えた後、シールウェの身体から力が抜け、糸が切れた人形のようにくずおれた。


 何が起こったのかを理解する前に、ラシールは反射的にその細い身体を抱き留めていた。
澄んだ花の香りがふわりと鼻をくすぐる。
驚くほどに軽い身体は、力を込めれば折れてしまいなほどに華奢であった。


 その時、近くに控えていた神官たちが慌てふためいたようにその身体を奪い取った。


「聖なるお体に卑しき者が触れてはならぬ。早々に出ていくがよい」


 壮年の大神官がラシールを睨み付け、錫杖で出口を示した。
その顔には驚愕と疑念と深い怒りの表情が浮かんでいた。


 ラシールは深々と頭を下げると、踵を返してざわめく群衆の中に紛れ込んだ。


「キシュラはお帰りになられた」


 神官が大声で告げると、人々の間から落胆の叫びが上がる。


 その声を背後に聞きながら、ラシールは神殿の外に出た。
頭巾の下の表情はひどく険しく、眉間に深い皺が刻まれていた。

 シールウェの言葉は、予言というには単純なものだった。
意味を理解しえる者があの場にいたとしても不思議はない。
だがあの声が聞こえたのはおそらく自分一人だろう。
そう思っても、疑念が小さな棘となってラシールの心に突き刺さっていた。