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後宮の月


第2章

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 陽光の降り注ぐ窓辺の長椅子に座っていたシールウェのもとに、後宮を取り仕切る女官長ラスザーレが現れた。
 かつてファザイアの母であるエレディン皇后に仕えていたという彼女は、老年の域に達しているとはいえ、気品ある美しさを保持していた。
 むしろ年齢を重ねた威厳が加わり、容姿以上の美しさが備わったようでもある。
 肌は白く、灰色の髪と瞳はダルヴァートの人々には見られないものであり、その顔立ちはどこか人を拒絶しているような冷たさがあった。

「──ルシャリーン殿下。皇帝陛下よりの、贈り物の品々をご覧くださいませ」

 ダルヴァート帝国では、臥所を共にした者に贈り物をする習慣があった。
 満足の大きさに比例する高価な贈り物を、翌朝相手の女性に届けさせるのである。

 宝石が散りばめられた大きな箱の回りで、カルシアの侍女たちはしきりに騒いでいた。

「見てくださいな、殿下。この衣装の美しいこと。
 ヤヴァシュでは決して手に入らぬようなセムランの極上品ばかりでございます」

「ご覧ください、こちらの豪奢な首飾り。
 このエメラルドは、さぞや殿下の瞳を引き立てることでしょう」

 しかし、シールウェはどれほど豪華な衣装や宝石にも興味は示さなかった。

 ふと公子は、女官長の傍らに立っているラザヴァルの持った竪琴に目を奪われた。
 瞬く星のような淡い黄金で作られた竪琴は、白鳥の胸のような優美な弧を描いている。
 弦は銀色の煌めきを放ち、頂点に今にも飛びたたんとする飛竜の彫刻があった。
 その美しくしなやかな飛竜の彫刻は、精緻な水晶で作られており、きらきらと光る目には深いサファイアが嵌め込まれている。

「……ラスザーレ殿、その竪琴は?」

 シールウェが訊ねると、女官長は驚くほど鮮やかな微笑みを浮かべた。

「さすがに殿下はお目が高こうございますな。
 この竪琴は、どんな衣装や宝石よりも価値あるものでございます。

 これは<レイアディスの竪琴>と呼び慣わされているものでございます。
 かつて、陛下の母君、遙か西方のトゥロネス王国より嫁がれしエレディン様が、このヴァルーズにお持ちになられたもの。

 トゥロネスの王都、花咲けるファシル・エディンで幻の詩人イスラによって作られたこの竪琴には、不思議な由来があるのですよ。
 この水晶の竜の目は、かつてトゥロネスに存在した飛竜の涙より作られたそうです。
 そしてこの竪琴そのものは、イスラが光の妖精族より与えられたものだとか。

 そのせいなのかは判りませぬが、この竪琴を弾けるのは、レイアディスと共に生れた者だけであると言われています。
 しかし鳴らぬ竪琴とは言え、飾りとしても極上の物であり、エレディン様の形見の品でもございます。

 あなた様がお納めになるのが陛下の望みであれば、どうぞ、この幻の竪琴をお受け取りくださいませ」

 深く頭を下げたラスザーレを見つめ、シールウェは訊ねた。

「──エレディン様は、この竪琴をお弾きになられたのですか?」

「もちろんでございます。
 あの方はレイアディスと共に生れ、この竪琴に選ばれた御方でした」

 ラスザーレの言葉にシールウェは頷き、そしてふと首を傾げた。

「わたくしが弾いてみてもよろしいのですか?」

「もちろんでございます、殿下。
 ……ただ、申し上げた通り、これは鳴らぬ竪琴でございます。
 陛下ですら能わざることであったのですから」

 慰めるように微笑んだラスザーレに、シールウェは穏やかに微笑みかけた。

「──鳴らぬ竪琴……とても不思議な物なのですね。
 この世には、まだわたくしの知らぬ神秘がたくさん息づいているようです」

 シールウェは立ち上がると、台の上に置かれた竪琴に歩み寄った。
 そして銀色に瞬く弦に指をかけ、軽く弾いてみた。

 その時、<レイアディスの竪琴>は、水晶がきらめくような音色を漏らした。
 まるで主が来ることを待ち望んでいたかのごとく、見事に調律された竪琴は、空気そのものを光り輝かせるほどの澄んだ響きを奏でたのである。
 その玲瓏たる音はシールウェの心に染みこみ、深く澄んだ泉に美しい波紋が広がった。

「……おお、あなた様は、レイアディスと共にこの世に生まれ出た御方でございましたか。
 エレディン様亡き後、この竪琴が再び歌うのを聴こうとは……。
 あなた様にお仕えできることを、わたくしは、心より光栄に思います。
 レイアディスと共に生まれ、銀のアールドゥンに祝福されたる御方よ」

 ラスザーレの灰色の目から涙が溢れだし、彼女はシールウェの手を取って跪いた。
 彼女の顔は歓喜に輝き、その瞳は誇りに満ちあふれていた。

「ラスザーレ殿、教えてくださいますか?
 レイアディスというのは何です? そしてアールドゥンというのは……」

 シールウェはとまどったように訊ねていた。
 ラスザーレは指で涙をぬぐうと、暖かく微笑みながら公子を見上げた。

「お許しくださいませ、殿下。
 あまりの喜びに、わたくしとしたことが取り乱してしまいました。
 カルシア公国の姫君は、ご存じないことでございましたな。

 レイアディスというのは、こちらの言葉で『夕星』あるいは『宵の明星』を意味しております。
 そしてアールドゥンというのは、トゥロネス王国で崇められている主神のお一人です。
 かの神は闇を司る御方であり、光のエルクローワと対極をなしておられます。
 そしてレイアディスは、アールドゥンが最も愛された星。
 この星が地平線に上がる時に生まれた者は、この世ならざる者の姿を見ることができると、トゥロネス王国では言い伝えられているのです」

 ラスザーレは立ち上がると、黄金作りの竪琴を愛おしげに見つめた。

「エレディン様と共に国を出てから、長い時が流れました。
 ファシル・エディンの春と謳われたあの方がお亡くなりになった時、この竪琴もまた時を止めてしまったのです。
 しかしながら、どうやらこれは、あなた様の手に渡されるべきものであったようです」

「──陛下の母君は、とても美しい御方だったのですね」

 シールウェの言葉を聞くと、ラスザーレは涙を溜めた目で頷いた。

「このヴァルーズにあっても、絶世の美姫と讃えられました。
 陛下を見ていると、わたくしはエレディン様を思い出します。
 あの方の黄金の髪は、まさしくエレディン様より受け継がれたものです」

 ラスザーレはシールウェを見つめると、もう一度深く腰を折った。

「エレディン様の竪琴を、あなた様がお弾きになられた。
 そしてまた、ファザイア様もあなた様を愛されておられるご様子。
 今までこの竪琴をどなたにもお与えにならなかったのが、その証と申せましょう。
 どうかルシャリーン殿下、陛下のお気持ちを、御察し下さいませ」

 ラスザーレが宦官を連れて退室すると、シールウェは残された<レイアディスの竪琴>をじっと見つめた。

 見つめているだけでも心が癒やされていくような、そんな不思議な存在感がある。

 ふとシールウェは<キシュラの塔>での暮らしを思い出した。
 少しでも弟の孤独を癒やそうと考えたルシャリーンが、ある時竪琴を持ってきたのだ。
 公女自身はあまり得意ではないという竪琴を、幼いルシャリーンはそれでも一生懸命、丁寧に教えてくれたものだった。

 それ以来、他にすることもなかったシールウェは、長い1日を竪琴を弾きながら暮らしていた。
 しかし<キシュラの化身>と崇められ、神殿に連れ出されるようになってから、ぱったりと竪琴を弾く事はやめてしまっていた。

 長椅子に腰掛け、宝石のような竪琴を撫でたシールウェは、即興で竪琴を奏で始めた。
 かつてルシャリーンが教えてくれた曲の中から、一番美しく哀しみ満ちた曲、今まさに戦におもむかんとする恋人を引き止めようとする乙女の悲しみの歌──。

 <レイアディスの竪琴>から流れ出した妙なる音色は、風に乗って後宮中へと響き渡り、皇帝の訪れを待ちわびる妾姫たちの胸をうった。
 ある者は悲嘆に暮れ、ある者はさめざめと涙を零す。
 どれほどの奢侈を与えられようと、閉じこめられた姫君たちは皆、深い孤独を抱えていた。


 塔での長い暮らしを思い出しながら竪琴を弾いていたシールウェは、扉が開き、宦官に伴われたニネヴェが戻ってきたことに気がついた。

 月香花を持って出ていった侍女は、シールウェの傍まで歩み寄ると、奇妙なほどに低い声で告げた。

「──申し上げたき事がございます。どうか、お人払いを……」

 その侍女の声は、シールウェの心の琴線に触れた。
 心の中にある湖が波紋を立てる。
 落ちてきたのは、あまりにも美しいエメラルドの欠片だった。

「……判った。皆、しばらく下がっていなさい」

 竪琴を抱きしめたまま、寝室の扉を開け、シールウェは侍女を中に招き入れた。
 確実に扉を閉めると、用心を重ねて閂を下ろした。

 そして、シールウェが振り返った時、そこに懐かしい姉の姿を見いだした。
 ヴェールをとった双児の姉は、優しく微笑み、公子の身体を強く抱きしめたのだった。

「──すまない。そなたを辛い目にあわせてしまったな」

 ルシャリーンの声はいたわるような優しさに満ち、抱きしめられたシールウェの瞳から、ひとひらの涙が滑り落ちた。

「……姉上」

 慟哭するように声が揺らぎ、半身に抱きしめられたシールウェの身体は震えた。

 啜り泣くシールウェをしばらく抱きしめていたルシャリーンは、やがてくすくすと笑い出した。

「そなたがこれほど泣き虫になっていたとは思わなかった。
 塔の中でも決して泣けなかったそなたが、ようやく泣けることができたのなら、わたくしは嬉しくさえ思う。
 氷に閉ざされていた心が、ようやく溶けはじめたのだから」

 すると涙をぬぐったシールウェは、微笑んで公女を見返した。

「姉上こそ、また悪い癖が出てきているようですね。
 我慢しようと思えば、いつでも物腰艶やかなままでいられますのに」

「こんな敵陣まで来て、己を偽る必要もあるまい?」

 にっと不敵な微笑を口許に刻んだルシャリーンは、シールウェが大事そうに抱き抱えている竪琴に視線を落とした。

「──ところで、それは?」

「<レイアディスの竪琴>という名だそうです。陛下からの贈り物の中にありました」

「ダルヴァートの嫌な習慣というやつか。
 ──何もされておらぬのか、そなた?」

 ルシャリーンが怪訝そうに問うと、羞恥で顔を染めたシールウェは視線をそらした。

「今のところは、まだ……」

 ほとんど聞き取れないほどの声を聞き、ルシャリーンは納得したように頷いた。

「それもそうじゃな。でなければ、こうして話せているはずもない。
 しかし、それにしても見事な竪琴じゃな。
 ダルヴァートの栄華が凝縮しておるようにさえ見える」

 感嘆の言葉を漏らしたルシャリーンに、シールウェは微笑んだ。

「これは、遙か西方にあるトゥロネス王国で作られたものだそうですよ」

「ニミラーン王国と並ぶほどの古い国の名じゃな、それは。
 あちらはまだ存続しておるのだから、素晴らしい国には違いない」

 そう言い、ルシャリーンは銀の弦に指をかけ、ぴんと弾いた。
 しかし不思議なことに、竪琴からは何の音色も流れ出さなかった。

「──鳴らぬのか、これは?」

 呆れたように呟いたルシャリーンを、シールウェは愕然とした面持ちで見つめた。

「──双子でありながら、なにゆえ姉上には弾けぬのでしょうか……」

 信じられない思いで竪琴を見下ろしたシールウェを、公女は不思議そうに見つめた。

「よく分からぬが、どうやらその竪琴に、わたくしは嫌われておるようじゃ。
 それはそうと、わたくしはそなたを助けに来た。
 ヤヴァシュでは警戒が厳しすぎて、無茶ができなかったが」

 公子の顔を両手で包み込んだルシャリーンは、口許に不敵な微笑を浮かべていた。

 姉姫の言葉を聞いたシールウェは、驚愕してエメラルドの瞳を見開き、震える声で訊ねた。

「──わたしを、助ける? では、姉上はどうなさるおつもりです?」

「無論、ここに留まる。そして、獅子の息の根を止めてやろう。
 そうすれば帝国は大混乱に陥り、それに乗じてカルシアは独立できる」

 傲然と言い放ったルシャリーンは、鮮やかな双眸を細めた。
 それは獲物を眈々と狙っている雪豹を思わせた。

 強い衝撃がシールウェを襲い、身体が小刻みに震え始めた。
 シールウェは震える手で竪琴を寝台の上に置くと、振り返ってルシャリーンの肩をつかみ、思いをぶつけるように激しく揺さぶった。

「いけません、姉上! 皇帝は……帝国は強い。
 あなたの敵うような相手ではないのですよ」

 すると、ルシャリーンは憮然とした表情になり、公子を見返した。

「わたくしの剣技は、自他共に認めておるところじゃ。
 それに、寝台の中で油断した皇帝を暗殺することくらい、造作もないこと」

 その瞬間、脳裏に恐ろしい光景がかすめ、シールウェは声にならない悲鳴を上げた。

「──暗殺することができたとしても、帝都から無事に脱出できるとは限らないでしょう!
 あなたを失えば、カルシアは世継ぎを失ってしまう。
 それでは何のためにあなたがここに残るのか、判らないではありませんか」

 必死で思い止まらせようとするシールウェを、公女はじっと見つめ、そして目を見張るほど鮮やかに微笑んだ。

「その時は、そなたが世継ぎとなるのじゃ、シールウェ。
 わたくしは、そなたに尽きせぬ負い目がある。
 本来は2人で分かつべきものを、わたくしは全て奪ってしまった。
 不当に奪われたものを、わたくしはそなたに返したい。
 今のわたくしにできることは、そなたをカルシアに帰し、正当なる世継ぎとしてそなたを戴冠させるぐらいのこと」

 淡々と語るルシャリーンを、公子は呆然として見つめていたが、語気鋭く詰め寄った。

「負い目などと! わたしは大公位など欲しくはない!!
 あなたさえ無事であれば、それでよいのです。
 2人きりの姉弟ではありませんか……」

 涙をためたシールウェを、ルシャリーンは見つめ返した。

「──怒るな、シールウェ。もう決めたことゆえ」

 ルシャリーンの言葉はあまりにもそっけなかった。
 信じられないものを見るような眼差しで公女を見つめたシールウェは、思わず手を上げ、美しい姉の頬を打っていた。

 打たれた方よりも、打った者の方が狼狽えた。

 シールウェは呆然と己の手を見つめ、怯えたようにルシャリーンを見上げた。
 助けを求めるかのように見開かれた瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。