Rosariel.com
後宮の月


第2章

<9>



「何という顔をするのじゃ、そなたは。
 ──それにしても、しばらく見ない間に強くなったな、シールウェ。
 これでわたくしも、少しは安心できるというもの」

 打たれた頬を痛そうに押さえたルシャリーンは、むしろ楽しげに笑った。
 そして表情を変え、真摯な眼差しを弟に向けると、静かな口調で語りかけた。

「行くのです、シールウェ。
 わたくしは必ずカルシアに、そなたのもとに戻ります。
 ──父上にもそう約束をしたのですから。
 ヤヴァシュで、今度こそ2人で幸福に暮らしましょう」

「……ルシャリーン」

 涙を湛えた緑玉の瞳が、まるで風に吹かれたキアヴール湖の湖面のように揺れた。

「外廷の施療院で、ヒルダーンがそなたを待っています。
 案内する侍女をつけるゆえ、彼と共に、カルシアに逃げるのです。
 わたくしはここに残り、時来るのを待ちましょう。
 ──さあ、この侍女の服に着替えて、お行きなさい」

 艶やかに、そして優しく微笑んだルシャリーンは、必死で涙を堪えているシールウェを、もう一度強く抱きしめた。
 触れ合った肌の全てから、お互いの想いが伝わってくる。
 言葉は無意味ですらあった。
 お互いは、それぞれの分かたれた翼の片翼であり、半身であったからである。

「姉上、絶対に死なないと、約束をしてくださいますね?」

 そっくりな、しかし遙かに強く豪胆な意思を秘めた瞳を覗き込み、シールウェは問うた。

「──キシュラに誓って。そなたを悲しませないと、約束する」

 はっきりとした口調で断言したルシャリーンは、不敵な微笑を浮かべ、纏っていたニネヴェの衣装に手をかけた。

 その時、強い一陣の風が吹き込み、竪琴の一弦が緊張をはらんだような澄んだ音を立てた。
 そのわずかな後に、寝室の扉が強く叩かれた。

 はっと扉の方を振り返ったシールウェは、無表情になった姉を見つめ、そして怯えたように扉に視線を向けた。

「──ここを開けろ、ルシャリーン姫」

 扉の向こうから響いてきたのは、聞き間違うことは決してないであろう、皇帝ファザイアの深い威圧的な声であった。

 鋭く舌打ちをしたルシャリーンは、急いで窓辺に走り寄り、わずかに開いていた窓を大きく開け放った。

 そして帯のようにして腰に巻いていた長縄をほどき、天を突く勢いで伸びる高い樹木に向って鈎のついた先端を投じた。

「早く、シールウェ! とにかく、ここから逃れるのじゃ」

 太い幹に鈎のついた縄が巻き付いたことを確認し、ルシャリーンが小さく、鋭く叫んだ。

 そのうち、扉の向こうで何かを叩きつけるような音が聞こえ始め、追いつめられて混乱したシールウェは、姉の声に導かれるように窓辺に足を踏み出そうとした。

 と、大きな音を立てて、弾けるように扉が開かれた。

 目を見開いて立ちすくんだシールウェは、そこに傲然とたたずむ皇帝の姿を見いだし、声にならない悲鳴を上げた。

「侵入者がいることは判っている。
 何者かは知らぬが、仲間を殺されたくなければ、出てくることだな」

 感情の揺らぎのない静かな、低い声音で、ファザイアはそう告げた。
 しかしシールウェの耳には、嵐が起こる先触れのような雷鳴の轟きのようにも聞こえた。

 ファザイアの銀の双眸がシールウェに向けられる。
 冷たく厳しい眼差しで睨まれ、シールウェは落雷を受けたように身を震わせた。

 シールウェは、全ての意思を奮い起こし、必死になって頭を振った。

「──侵入者など、どこにもおりませぬ。
 いったい、何の騒ぎなのでございますか?
 このような昼間に陛下がいらっしゃるなど、前代未聞ではありませぬか」

 ファザイアの後方にラザヴァルがひかえているのを見とり、シールウェは毅然とした態度でそう言い放った。

 しかしファザイアはその言葉を黙殺すると、開け放たれた窓に近づこうとした。

 それを見たシールウェは、遮るように皇帝の前に立った。

「陛下、なにゆえそのようにお怒りなのですか?
 わたくしはただ、露台に出ていただけでございます」

 ファザイアはシールウェを見下ろすと、華奢な肩を両手でつかんだ。
 底冷えするほどに冷たい瞳で美しい顔を見つめ、皇帝は締め上げるように力を込めた。

「──あ…ううっ……」

 公子の美貌が苦痛に歪み、身体が震え、仰け反る。

 そのまま力を入れてゆけば折れてしまいそうなほど儚い身体を、ファザイアはすくい上げるようにして抱き上げると、寝台の上に放り出した。

 柔らかい寝台に倒れ込んだシールウェは、痛む肩を押さえ、上半身を起こした。
 片手の指先に、<レイディスの竪琴>が触れる。

 シールウェは絶望の眼差しをファザイアに向けた。 

 すると、皇帝の行動を咎めるように、重い緞帳の陰に隠れていたルシャリーンが姿を現した。

「見過ごしかねる行為じゃな、皇帝陛下。
 わたくしの半身に、無礼は許さぬ」

 どこに隠し持っていたのか、燦然ときらめく長剣を引き抜き、ルシャリーンは嫣然と微笑んだ。

 世にも稀なる二つの美貌を見た護衛の宦官たちは、突然現れた公女を見た瞬間、ざわざわと騒ぎはじめた。

「ルシャリーン姫が2人いるぞ。どちらが本物なのだ?」

「どちらでもよいではないか。
 2人もの絶世の美女を、陛下が召し抱えられるだけのこと」

 好奇心に満ちた声を厭うように、ファザイアは騒ぎ立てる宦官たちに冷酷な視線を向けた。

「──黙れ。扉を閉ざし、控えよ。動くことは許さぬ」

 その命令にすくみ上がった宦官たちは、鍵を打ち壊した扉を恭しく閉ざした。

 喧噪の去った室内で、ファザイアはルシャリーンを冷ややかに見つめた。

「そなたが、真のルシャリーン姫か?」

 鋭く光る銀の双眸を向けられても、公女は動じずに睨み返した。

「その通りじゃ、偉大なるダルヴァート帝国皇帝陛下。
 シールウェを助けるため、そなたの首を貰い受けるため、ここに参上した。
 そなたに受けたカルシアの屈辱と恨み、今ここで返してくれよう」

 艶やかに微笑んだ瞬間、優美な三日月のごとき宝剣が唸った。

 鋭い刃を交わしたファザイアは護身用の長剣を抜き放ち、冷ややかで尊大な微笑を口許に刻んだまま公女に斬りかかった。

「──面白い。我が首を取れるものなら、取ってみるがいい」

 鋭い金属音が寝室に響き、弧を描く神剣で皇帝の斬撃を受け流したルシャリーンは、白刃をきらめかせて飛びかかった。

 長剣は蛇のように素早く首元を狙ったが、再び完璧なる防御に出会い、弾き返された。

 凄まじい衝撃を受けて後方に撥ね飛んだルシャリーンを見て、シールウェは思わず悲鳴を上げていた。

「……姉上、危ない!」

 吹き飛ばされた公女は、壁に激突する瞬間にくるりと態勢を変え、強く壁を蹴って皇帝に斬りかかった。
 その攻撃は空から兎を狙う鷹のように鋭かったが、巨大な獅子の前には敵わなかった。

 剣の軌跡を正確に読みとっていたファザイアは、必殺の剣撃をルシャリーンに浴びせかけた。

 そのまま行けば確実に首を撥ねるところであったが、不意に飛来した短剣によってその攻撃は邪魔をされた。

 反射的に短剣を避けたファザイアは、その隙をついて襲いかかってきたルシャリーンの剣を紙一重で受け止めた。
 そのまま全体重をかけて後方に撥ね飛ばす。

 窓辺まで吹き飛んだルシャリーンは、とんぼ返りを打って露台に降り立ち、憎々しげに皇帝を睨んで叫んだ。

「──このままでは済まさぬ。
 次にわたくしと出会う時こそ、そなたの死ぬ時。
 必ずシールウェを取り戻すゆえ、覚悟して待つがよい!」

 そしてルシャリーンは大樹に巻き付けた綱をつかみ、露台を蹴って飛び出した。
 軽やかに木の枝に飛び移ると、近くの回廊の屋根に飛び移り、そのまま走り出した。

「くせ者だ! 引っ捕らえろ!!」

 窓の外で宦官たちの声が響き渡った。

 肩の痛みすら忘れて露台に飛び出したシールウェは、すでに姿を眩ませたルシャリーンの姿を必死に追った。

 ルシャリーンの姿を夢中で捜していたシールウェは、背後からファザイアが近づいたことに気づかなかった。

 肩をつかんで強引に振り向かされ、驚いた瞬間には首を締め上げられていた。
 欄干の上に背中を押しつけられたシールウェは、息のできない苦しみに喘いだ。
 そして、公子は霞む瞳でファザイアを見つめた。

「──このまま、下の敷石の上に落とされたいか?
 それとも、この細い首を砕いてやろうか」

 ファザイアの声は低く、恐ろしい危険に満ちていた。

 厳格な表情の中に稲妻のように銀の双眸が輝き、それは見たことのない魔神を思わせた。

 ファザイアがさらに公子の首を押しつけると、シールウェの足が露台の床から離れ、欄干に当たる背中と皇帝の腕だけが支えとなった。

 遠く下方に硬い石畳を見たシールウェは、苦しげに喘いだが、やがて全てを諦めたように身体の力を抜いた。

 荒々しいほどの風が吹き、木立がざわめく。
 そして、再び竪琴の弦が警告するような音を放った。

 一瞬が永劫にも感じられ、己の身体が石畳の上で砕け散ることを思い描いたシールウェは、突然引き戻され、抱き上げられると、寝台の上に投げ出された。

「死を恐れぬ者を殺すのは興が削がれる。
 そなたには、わたしを裏切った償いをさせてやる。
 わたしから離れる気が二度と起こらぬよう、思い知らせてやるから覚悟するがよい」

 手に持っていた長剣を床になげうち、ファザイアはシールウェの薄い衣装を引き裂いた。
 そしてその衣で公子の両手首を縛り上げ、寝台の頭上にある美しい金箔装飾の施された鉄細工に結びつけた。

 荒い息をついてファザイアはシールウェから離れると、閉ざされた寝室の扉を開いた。
 そして、命令によって直立不動になっている宦官や、慌てふためいたようにたむろする侍女たちを、全て館の外へと追い払った。

 恐怖に目を見開いていたシールウェは、ファザイアが鞘に入ったまま投じられた短剣を拾い上げるのを見つめた。

 ルシャリーンを守るために、とっさにシールウェは母の形見の短剣を放っていた。
 鞘から抜くのを忘れるほどに、動揺していたのだろうか。
 しかしもしあの時、ファザイアの動きが一瞬でも遅れていたら、ルシャリーンの剣が彼の胸を貫いていただろう。

──この寝室は、血に染まっていた……。

 それを想像してしまい、思わずシールウェは目を閉じていた。
 深い悲しみが、涙となって溢れ出してくる。

──わたしは、この方を裏切ってしまったのだ。

 胸が締め付けられるほどに痛み、シールウェはファザイアを見つめた。
 感情の失せた銀の瞳で見下ろしてくる皇帝の、押さえきれぬ深い怒りを感じとり、シールウェの身体は総毛立った。

「鞘から抜いて投じるべきであったな、シールウェ。
 そうすれば、確実にわたしの命を奪えていただろう。
 そなたの短剣がわたしを殺さずとも、そなたの姉の剣はわたしの心臓を突いたはずだ」

 裏切りを思い知らせるかのように、ファザイアの冷静な言葉が降り注いでくる。
 その瞳から、公子は視線をそらすことができなかった。

「──これで、この館からは誰もいなくなった。
 思うさまに声を上げるがいい。
 そして、二度と助けが来ぬことを思い知るのだな」

「……姉上を、どうなさるおつもりです?
 わたしはどうなってもいい。
 けれど、姉上だけは助けてください。あの方は、カルシアの人々の最後の光なのですから」

 両手を縛りつけられたまま必死で懇願したシールウェは、しかし冷ややかな拒絶にあった。

「わたしに剣を向けた者を、許せると思うのか?
 それよりも、己の身を心配した方がよいのではないか、シールウェ?」

 淡々とした口調で告げたファザイアは、鞘に入った短剣を持ったままシールウェの上に伸しかかると、震える唇を奪うように塞いだ。

 深く舌が入り込んでくると、恐怖と羞恥に混乱しながら、シールウェは必死で皇帝の唇から逃れようと身をよじった。

 ファザイアの逞しい体躯の重みが全身にのしかかり、その熱い唇が荒々しく貪るように白い首筋をとらえた。

 両手を拘束されているため、押しのけることもできず、シールウェはファザイアの唇を受け止めることしかできなかった。

 しなやかな首筋をたどるように唇と舌先の感触が這い始めると、シールウェの背中を思いもかけぬ感覚が雷のように走り抜けた。

「──ああっ!」

 背筋を反らせたシールウェを強く抱きしめ、ファザイアは甘く、残酷に囁いた。

「そなたは、傷つきやすい花のようだ。
 それを傷つけるのは蛮人のすること。
 それゆえ、そなたには肉体の快楽を教え、与えてやろう。
 わたしのためだけに艶やかに咲き誇るように、わたしから決して逃れられぬようにな」

 公子の耳元で囁いたファザイアは、軽く白い耳朶を噛んだ。
 するとシールウェの身体はしなやかに仰け反り、抗うように身をよじらせた。

 それを易々と寝台に押さえ込んだファザイアは、くつくつと笑いながらシールウェの首筋を愛撫し、恐怖に喘ぐ唇に己のそれを重ねた。

 深く口づけをしながら、ファザイアは短剣を抜き放ち、鞘を床に投げ捨てた。

 ひやりと冷たい刃の感触に、シールウェは目を見開いた。
 ファザイアは唇を離すと、唇を舐め、さらに額に口づけを落として、上体を起こした。

「──これは、わたしを裏切った罰だ。
 陽の下で、キシェラムだというそなたの身体を全て見せてもらう。
 意識を失うことは許さぬ──よいな?」

 命令を下すようなファザイアの言葉に、シールウェの双眸から水晶のごとき涙が零れた。