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後宮の月


第2章

<11>



 外の気配を注意深く探っていたヒルダーンは、そのあまりの多さに愕然とした。
 おそらく、50人以上は控えているだろう。
 この脆弱そうな若者を斬り捨てても、さすがにそれだけ多くの兵士の中を無事に突破できるとは思えなかった。
 たとえ50人全てを斬り伏せることができたとしても、戦っているうちに、騒ぎを聞きつけた他の者が集まってくるのは必至であった。

(──平和ボケしたカルシア人ならともかく、こっちは獅子の縄張りのど真ん中だからな)

 戦慣れをしているダルヴァート兵は強い。
 豪胆不敵なヒルダーンではあったが、孤立無援であることを悟り、内心で舌打ちをした。 

「──あんたは、何者だ?」

 琥珀色の双眸を細めたヒルダーンに、端麗な面立ちの男は優雅に一礼してみせた。

「わたしはダルヴァート帝国宰相のアスタールと申します」


 若き宰相アスタールの顔を思い出したヒルダーンは、恨みを込めるように堅固な石の壁を蹴りつけた。

 その途端、壁際に潜んでいたらしいネズミの走り出す音が聞こえる。

 それを敏感に聞きつけたニネヴェが、大きな甲高い悲鳴を上げた。

「うるさい。ネズミごときで騒ぎ立てるな!」

「でも、でも……」

 いらただしげに怒鳴りつけたヒルダーンに、涙を溜めたニネヴェがすがりつくような眼差しを送ってきた。
 その顔は恐怖に引きつっており、青ざめていた。

 深く嘆息したヒルダーンは、窓一つない地下牢を見渡して、もう一度嘆息した。
 活路が開けるような場所ではない。
 完全に閉じこめられてしまっていた。

 その時、鉄扉の向こうから、何者かが階段を下りてくる足音が聞こえた。

 ヒルダーンは用心深く扉の方を睨むと、扉が開けられ、2人の獄吏が現れた。
 そして、その筋骨隆々たる獄吏たちは、道をあけるようにして脇に退いた。

 小山のような大男の間から現れたのは、華奢な乙女にすら見える男だった。
 その顔を認めた時、ヒルダーンは威嚇するような低い声で訊ねた。

「──アスタールか。俺達をどうしようっていうんだ?」

 ところが宰相はそれには答えず、松明を掲げるようにして地下牢を照らし、優美な眉をあからさまにひそめた。

「ずいぶんと汚い所ですねえ」

「綺麗な地下牢ってのがあるなら、ぜひ見せてもらいたいもんだな」

 何やら間の抜けた言葉を吐いた宰相に、ヒルダーンは辛辣な皮肉を吐いた。

 すると、アスタールは不気味なほど優しげに微笑み、バイル族の戦士に歩み寄った。

「ここから出してあげますよ。もう十分に反省なさったでしょうし」

 宰相の言葉にありありと不審の表情を浮かべたヒルダーンは、琥珀の瞳を獣のように光らせて睨みつけた。

「連れて行かれるのが首切り台なら、俺はお断りだぜ」

 どこまでも不遜な態度を崩さないヒルダーンを見上げ、アスタールは微笑んだ。

「まさか! あなたをわたしの客人としてもてなしますよ。
 その侍女も後宮に戻らせます。
 ──これではいかが?」

「阿呆か、おまえは。俺達を牢にぶち込んだ張本人が、何を寝とぼけたことを言っている。
 寝言は寝台の上で言うんだな」

 風と自由を愛する誇り高いバイル族が、よりによって狭い町の牢獄に閉じこめられている。
 そのまぎれもない事実が、ヒルダーンの矜持を著しく傷つけていた。
 そのせいか、毒舌にいつも以上の磨きがかかる。

 しかし、罵られても顔色一つ変えず、優美な微笑を浮かべているアスタールに、ヒルダーンは一瞬不気味なものを感じた。

「何を企んでいやがる。あんたの名くらい、俺だって承知しているんだぜ。
 切れ者の宰相さんよ」

 するとアスタールは困惑したように首を傾げ、軽く肩をすくめてみせた。

「この際だからはっきりさせておきましょうか。
 わたしはあなた方を傷つける気はありません。
 ただわたしは、ルシャリーン殿下と取引がしたいだけなのです。
 これで納得していただけましたか?」

 あくまで典雅な物言いをする宰相にヒルダーンは警戒心を抱いたが、生殺与奪の権を手中に握られていることも痛感していた。

 そして、バイルの戦士は大仰なため息をつき、うなずいた。

「承知しないわけにはいかないんだろうな。
 俺が言うのもなんだが、あんたも相当な悪党だな」

「お褒めいただき恐縮です。
 さて、この地下牢を出るとしますか。
 こんな臭い所には、一時たりとも留まりたくないですからね」

 宰相はにこにこと微笑むと、踵を返して歩き始めた。

 凶悪な面構えの獄吏に促され、しかたなくヒルダーンもその後に続く。
 立ち上がったニネヴェは、ひどく嬉しそうだった。

「よかった、出られるのね」

 侍女の楽観的な言葉に呆れ果てたヒルダーンは、アスタールの言葉にひどく胡散臭いものを感じながら、地上に出る階段を上ったのだった。



 日が暮れ、夜になっても宮殿は騒がしいままだった。

 恐れ多くも後宮に忍び込み、皇帝の命を狙ったという侵入者がいまだに捕まらなかったからである。

 そこが一つの宮殿域を形成している広大な後宮には、いくつかの愛妾の館があった。
 その中で中央部に位置し、ひときわ豪華な館は「サーシャル宮(天露宮)」と呼ばれている。
 銀河を思わせる星の散った白大理石で建立された宮殿の中で、長椅子に凭れていた女は不機嫌そうに柳眉をひそめた。

「──いったい何事なのじゃ、騒々しい」

 館の主たるヴァル・イン帝国の皇族マヤムーラ皇女の言葉に、乳母でもある老侍女ドゥルシャがややかすれ気味の声で答えた。

「カルシア公女のおられるアルムタール宮(春麗宮)に、賊が侵入したそうでございます」

 乳母の言葉を聞いたマヤムーラは、冷ややかに笑った。

「ああ、あの人質として送られてきたというルシャリーン姫か。
 ……忌々しいことよの。
 あの姫が来てからというもの、陛下はぱったりとこちらへはおいで下さらぬ。
 いいや、カルシア攻略を始められてからずっとやもしれぬな」

 鳶色の双眸に暗い怒りを立ち上らせたマヤムーラは、孔雀羽の扇を物憂げに揺らした。

「さらに腹立たしいことに、妾に何の断りもなく、陛下は我が侍女に手をつけおった。
 妾に対する、いや、ヴァル・イン帝国に対する侮辱としか言いようがない。
 ──アヴェイナの処遇はいかがした?」

「殿下のお言葉通り、タシレムからヴァル・インへと向かう船に乗せました。
 しかしながら、どうやら人買いに囚われ、奴隷として売られたようでございます」

 ドゥルシャの言葉に、マヤムーラの深紅の唇がくっと鋭角につり上がった。

「……そう、それは不運なことじゃ。
 して、彼女の行き先は?」

「聖エレヴィア王国の辺境でございます。
 ヴァル・インの娘は、西方王国では高く売れますゆえ」

 感情のこもらない淡々とした口調で答え、老乳母は忠誠を誓った美しい皇女を見つめた。
 波うつ艶やかな栗色の髪、黄金にも見える小麦色の肌、豊麗な肢体。
 男を惑わす蠱惑的な美貌と肉体を持った皇女は、あたかも天の楽園に住まう天女を思わせるほどに美しかった。

 明るい陽射しの差し込む豪奢な部屋を、マヤムーラは憂いを帯びた瞳で眺めやり、そして億劫そうに片手を振って人払いをした。

 しんと部屋の中が静まり返ると、小麦色の肌をした妖艶な皇女は、残忍さを秘めた瞳で主命を待つ侍女を見下ろした。

「妾はこの美しいダルヴァート帝国の皇后にならねばならぬ。
 じゃが、あのルシャリーン姫が皇后になるという噂も流れておるらしいの。

 ファザイア陛下は、閉ざされていたアルムタール宮をカルシアの公女に与えた。
 あの館はこちらよりも小さいが、皇帝が住まうアムラシュヌ宮(喜耀宮)には最も近い。
 そして何より、前皇后エレディン妃がお住まいになられた館じゃ。

 さらに、あの幻の<レイアディスの竪琴>が、ルシャリーン姫の手に渡った。
 かつてエレディン皇后以外、誰も奏でることのかなわなかった竪琴じゃ。
 鳴らぬ竪琴が鳴り響いたのじゃから、陛下の心はあの姫に傾くしかあるまいよ」

 唇に微笑みさえ浮かべながら、マヤムーラは淡々と言葉をつむいだ。
 しかし瞳には鬼火のように嫉妬と憎悪が渦巻いている。
 それを見とり、ドゥルシャは黙って頭を垂れた。

「──妾はこのダルヴァートが欲しい。
 ヴァル・インとダルヴァートが一つになり、至上最大の帝国が大陸に生まれる。
 それが、妾と我が父上の願いでもある。

 しかしこのままでは、皇后になるはずの妾の立場は危うい。
 妾は陛下を愛しておるが、もし陛下が妾を蔑ろにされるなら、心を改めねばなるまいな。
 だいぶ見劣りはするが、アンジャル殿下が適当であろうかの。
 我が従兄妹殿であられるゆえ、妾を裏切ることはあるまい。

 ──それとも、陛下の心を改めさせた方が良いであろうか」 

 ヴァル・イン帝国の皇女らしく、マヤムーラは決して真の意思を言葉にすることはない。
 その意図をくみとり、違わずに行動するのは、侍女たる者の務めであった。
 声に出された言葉より、言葉ならぬ言葉の方がはるかに重要であった。

 幼い頃から育ててきた皇女の足下に跪いた老乳母は、皺だらけの顔に笑みを浮かべた。

「しばしお待ちくださいませ、姫様。
 アンジャル殿下には、ご機嫌をお伺いする文をお送りしておきましょう。
 わたくしめに、良い策がございますゆえ」

 その言葉を聞き、マヤムーラは鈴を転がしたかのような声でくすくすと笑った。

「そなたは賢いゆえ、なんと頼もしいこと。
 全て、そなたに任せるとしよう。

 それにしても、月の姫がアヴェイナのような悲劇に遭われたら、さぞや陛下はお嘆きになるであろうな。
 何とお慰めすればよいのか、言葉も見つからぬわ」

 マヤムーラ姫の言葉を聞き、ドゥルシャは絨毯の上に黙って額ずいた。


 執務室で書物に目を通していた宰相アスタールは、蝋燭の炎が突如として揺れたのを見て、はっと窓辺を振り返った。

「──声を出すな。この場で殺されたくなければな」

 喉元に短剣を突きつけられていた宰相は、気配もなく背後に回った者の声を聞いて優しい微笑みを浮かべた。

「ルシャリーン殿下。もう一度お会いできると思っていましたよ」

 すると怒りを含んだ声が応じた。

「ふざけるな。皇帝に告げたのは貴様であろうが。
 よくもわたしに偽りを申したな」

「偽り? わたしは逃げた公女の事は言わないとお約束しましたが、悪疫については別です。
 わたしは陛下に、『カルシアの悪疫には、月香花とやらが効くそうです』と申し上げただけですからね。
 陛下は詳しく説明を求められ、わたしは運ばれてきた患者についての報告を行ったのです。
 施療院からの報告が上がってきておりましたゆえ」

 まるで悪びれた様子のないアスタールの言葉に、ルシャリーンは双眸に怒りをはらませた。

「皇帝はわたしの仲間を捕らえたと言ったぞ。
 それも、貴様の仕業か?」

 笑みを絶やさぬアスタールは、肩越しに公女の美しい顔を眺めた。

「宮廷で悪疫が流行ってはちょっと困るのですよ。
 まさかあなたのお仲間だとは思いもしませんでしたがね」

 その言葉に、ルシャリーンのエメラルドの瞳が剣呑に光った。
 あと少し力を入れれば確実に皮膚を刺し通すほどぎりぎりの位置で、公女は鋭い短剣を突きつけていた。

「──なぜ皇帝は、後宮にいるルシャリーンが、真のルシャリーンでないことを知っている?
 そなたはいつ気づいたのじゃ?」

 その問いに、アスタールは目線だけで簡素な白塗りの天井を仰いだ。

「あの2人が出会ったのは、年が明ける前のことです。
 陛下とわたしはヤヴァシュの偵察に出ており、<キシュラの塔>にて陛下はシールウェ様とお会いになられました。
 もっとも、わたしがシールウェ様を見たのは謁見の時が初めてでしたが」

 そう告げると、アスタールはくすりと笑った。

「──すぐに判りましたよ、あなた方が別人であることは。
 ルシャリーン殿下、あなたは生まれながらの支配者であられる。
 そしてシールウェ様は、王の星の下には生まれていらっしゃらない」

 その言葉を聞いた途端、ルシャリーンは息をつめた。

「馬鹿なことを申すな。
 わたしたちは時同じくして生まれた双子なのだぞ」

「ルシャリーン殿下、あなた様は<レイアディスの竪琴>を奏でることはできますまい。
 そして、シールウェ様がカルシアを治めることもまた不可能なのです。
 王とは孤独なもの。
 ──あなたは、あの御方にさらなる孤独をお与えになるつもりですか?」