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後宮の月


第2章

<12>



 アスタールの言葉に、ルシャリーンは愕然としたように瞠目した。
 心の動揺が伝わったのか、短剣の切っ先がかすかに揺れる。

 その瞬間、アスタールは公女の腕を掴み上げ、一瞬の内に死の刃から逃れていた。

「──放せ!」

「なりません。あなたは雪豹のように美しいが、同時にとても危険ですからね」

 ルシャリーンの手首を締め上げ、短剣を取り落とさせたアスタールは、そのまま公女を羽交い締めにして告げた。

「大人しくしてくださるなら、放してさしあげましょう。
 わたしの話を聞く気はありますか?」

 どこからそんな力が出てくるのかと疑うほど、アスタールの力は強かった。

 ルシャリーンは死に物狂いでもがいたが、その腕の中から出ることはできなかった。

「──判った。そなたの話を聞くゆえ、早くこの腕を放さぬか!」

「放した途端、逃げだしたりはしませんね?」

「約束するゆえ、早く放せ!!」

 ルシャリーンが怒鳴ると、アスタールは微笑んで公女を腕の中から解放した。

「何じゃ、わたしに話というのは?」

 痺れる手首を振りながら、公女は忌々しげに問うた。

「あなた様を、次期大公と見込んでのご相談なのですよ。
 率直に申し上げると、今後のダルヴァートとカルシアとの国益に関する問題です。
 どうやらカルシアは、帝国に命に背き、偽りの公女を差し出したようですからね」

 ダルヴァート帝国の若き宰相の言葉に、ルシャリーンはふんと鼻でせせら笑った。

「──そもそもダルヴァートがカルシアに手出しをしなければ、起こらなかった問題じゃ。
 ああ、そなたであったな、我が父上を脅迫したのは」

 ルシャリーンの言葉を聞いて、アスタールは肩をすくめた。

「その話を蒸し返すと、揉めるだけでしょうね。
 ですが、ベルーズ高原が軍事上の要衝であることだけはご理解いただけますか、殿下?
 カルシアを挟み、我が国とヴァル・イン帝国は長年睨み合っておりました。
 どちらか一方がカルシアを手に入れれば、途端に帝国間の均衡は崩れ、奪ったものが圧倒的に優勢となる。
 ──ヤヴァシュは交易の都でもありますからね」

「飢えた大国の垂涎の的というわけじゃ。
 どちらもが動かねば、保たれたはずの均衡であろうに」

 呆れたように呟いたルシャリーンは、アスタールの執務机にもたれると、怜悧な瞳で宰相を見返した。

「あの時ダルヴァートが動かなかったとしても、やがてヴァル・イン帝国がカルシアに攻め込んでおりましたよ。
 ほとんど間一髪といった状況でしたからね。

 もし我が国の要求に応じなければ、陛下はヤヴァシュを急襲するおつもりでした。
 街道沿いには親衛隊が配備されておりましたから。
 今となっては、そうならずに良かったと思えますが」

 アスタールは首を傾げると、じっとルシャリーンの美貌を見つめた。

「ヤヴァシュの結束は、殿下が思っていらっしゃる以上に脆いのですよ。
 シールウェ様を奪われた月神殿が民衆を味方に引き入れれば、大公家にとって大いなる脅威となりましょう。
 民衆を癒していたシールウェ様は、彼らにとってはまさしく神です。
 その神を虐げていた事実が浮かべば、彼らはどうするでしょうね?」

「──そなた、父上の次はわたしを脅迫するつもりか?」

 ルシャリーンが探るように双眸を細めると、アスタールは悪戯っぽく微笑んだ。

「脅迫とは人聞きの悪い言葉ですね。
 しかし、わたしは望みのものをあなた様からいただきたいのですよ。
 ダルヴァートに対する大公家の忠誠と、正式な公女たるシールウェ様の身柄です。
 もしお約束いただければ、シールウェ様を皇后として遇することをお約束いたします。
 皇后の祖国ともなれば、カルシアの地位は揺るぎないものとなりましょう」

 アスタールの言葉を聞いた瞬間、さすがのルシャリーンも唖然としていた。
 しかし驚いてばかりもいられず、すぐに頭を切り換えた。

「そなたの言葉は蜜のように甘いが、ダルヴァートが約束を守るという保証はどこにもない。
 そしてダルヴァートこそが月の子を奪ったのだと民衆を煽ればどうなる?
 シールウェを奪われ、大神官は怒り狂っていたからな」

「殿下は、シールウェ様が神殿で民衆を癒すのを、快く思ってはいなかった。
 大神官と仲違いをされているとお聞きしましたよ」

「──あの者は、シールウェを都合よく利用していただけじゃ。
 それがどれほどあの子に苦痛をもたらしたか、そなたらには判るまい」

 底光りするほど強い視線をアスタールに向けたルシャリーンは、嘲笑うように唇をつり上げた。

「そなたの皇帝陛下に伝えるがいい。
 欲望のままにシールウェを抱いてはならぬとな。
 もしそうなれば、そなたの目論見すら消え失せるであろうよ。

 大神官ヴァルムードは、少なくとも月神を降ろすことだけは成功した。
 もしファザイアがシールウェを抱けば、あの子も月神も永遠に失われてしまう。
 そうなれば、カルシアがたとえ滅びたとしても、わたしはダルヴァートに復讐するであろう」

 苛烈な炎を身に纏ったようなルシャリーンの覇気を感じ、アスタールは好ましげに微笑んだ。

「──では、こうしましょう、ルシャリーン殿下。
 もしシールウェ様がファザイア様を愛し、このダルヴァートを選んでくださった場合は、あの方を皇后とし、カルシアの上に立つことを正式にお認めください。
 その返礼として、ダルヴァートはカルシア公国の安泰と、全面的な保護をお約束いたします。

 殿下はシールウェ様を愛していらっしゃる。
 そしてまたシールウェ様にカルシア大公の地位をお譲りになりたいと思っていらっしゃる。
 大公位よりもさらに上の皇后位は、あの方にふさわしいものでありませんか?
 殿下の十分なご助力があれば、皇后位は、そう、さほどお辛くはないでしょう」

 言い含めるようなアスタールに、ルシャリーンは不審の眼差しを向けた。

「……シールウェが皇帝を愛する?
 切れ者と名高いそなたとは思えぬ戯れ言じゃな。
 言っておくが、魂の抜けた器だけのシールウェなど、絶対に認めるわけにはいかぬぞ」

「判っておりますよ、もちろん。
 それゆえ、シールウェ様を地上にお留めする方法を模索しているところです」

 苦笑し、若き宰相は軽く頭を振った。
 ルシャリーンは呆れたような視線をアスタールに向けていたが、唇に冷ややかな嘲笑をくっきりと浮かべた。

「──よかろう。
 不完全とはいえ神たるイディスをどう相手取るのか、見ていてやろう。
 そして、シールウェがファザイアを真実愛せるのかどうか。

 もしシールウェがファザイアを選んだら、その時は皇后たるシールウェに忠誠を誓ってやる。
 キシュラと、我が名にかけて。
 それでよいかな、ダルヴァート帝国宰相アスタール閣下?」

 鋭い三日月のごとき美貌のルシャリーンを見返し、アスタールはゆっくりとうなずいた。

「はい、今はとりあえず十分です。
 そのお言葉は、わたしが責任をもって陛下にお伝えいたします。
 さすがに今日というのは無理ですけれどもね。

 それはそうと、ダルヴァートの誠意を示すため、殿下とご友人を解放してさしあげましょう。
 ヴァルーズの郊外まで、わたしが先導いたします」

 穏やかな口調でそう告げると、アスタールは軽く両手を叩いた。

 すると静かに扉が開かれ、続きの間からヒルダーンが姿を現した。

「どうやら、あんたもこの悪党に捕まったらしいな」

 ヒルダーンは腕組みをし、ちらりとアスタールを睨んでから、公女に笑いかけた。

「奥の部屋でひやひやしたぞ。あんたがこの性悪狐を殺すんじゃないかと思ってな」

「そなたが隣にいるのを知っていたなら、また別の道も開けたかもしれぬのに……」

 ルシャリーンが悔しげにアスタールを睨むと、ヒルダーンは軽く公女の肩を叩いて慰めるように言った。

「さすがに丸腰で剣を突きつけられていたら、俺も動けないからな。
 それに、あんたが下手な手出しをすると、そのまま兵士がなだれ込んだんだぜ」

 詮無きことだと広い肩をすくめたヒルダーンは、穏やかに微笑んでいるアスタールに向き直ると、低く脅すように言った。

「さあ、約束だぞ。俺達を連れ出してもらおうか」

「──仕方がありませんね。けれど、都を出てからの身の安全は保証できませんよ。
 お二人とも、早々に故郷にお戻り下さい」

 若き宰相はにこやかにそう告げ、2人を眺めやった。

「本当は、ファザイア陛下の命を狙った者を逃がすのは心苦しいんですけれどね。
 しかし、これもまた運命だと思って諦めるといたしましょうか」

 わざとらしくため息をついたアスタールを、ルシャリーンは冷たく睨んだ。

「わたしもシールウェをここに残していくのは心苦しいのじゃ。
 ──欲深な皇帝陛下に伝えておけ。
 もしシールウェを傷つけ、その魂を失わせるようなことになれば、地の果てでも追っていってその首をとるとな」

 公女の言葉を聞いたアスタールは、曖昧に笑いながら両手を上げた。

「ここだけの話、ファザイア様はあの御方に相当惚れ込んでおりましてね。
 それはもう、治世に影響をきたすのではないかと、長年仕えてきたわたしも危ぶむほどで。
 極端に走りがちな方ですが、熱愛する者を傷つけるほど残酷ではありませんよ。

 ──さて、それではここから逃げ出すとしましょうか。
 厄介事は、さっさと終わらせるに限りますからね」

 邪気の欠片も見当たらない明るい微笑みを浮かべた帝国宰相は、意を決するように、軽く両手を打ち合わせた。