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後宮の月


序章 



 太陽が中天に達しても、その日は朝から冷え込んでいた。
 キアヴール湖の湖面には濃い霧が立ちこめ、世界は色彩を失ったかに見えた。

「この時期の水は、かなり冷たいんだ。本当に凍え死にそうになったこともあるんだぜ」

 小舟を櫂で操りながら、黒髪に鳶色の瞳をした小男が笑った。

「本当にこんな所に抜け道があるんですか?
ルカイダの紹介でなければ、あなたの言葉は信じなかったでしょうね、サルド」

 キアヴール湖の漁師の格好をさせられたアシュランが、小男の横で低く呟いた。

「おや、信じてないなら、帰っていいんだぜ。
ただし、おれはこれから仕事だから、泳いで岸まで行ってくれよ」

 サルドは耳障りな笑い声を上げると、自分の弟であるヴォルンに声をかけた。

「よし、この辺だな。ヴォルン、いつものように、網を投げろ」

 小柄で動きの軽快なサルドと違い、ヴォルンは小山のように大きな男であり、その動きも緩慢だった。
 しかし、大きな彼が動くと、小舟はまるで嵐に見舞われたかのようにぐらぐらと揺れた。

 アシュランは顔を蒼白にして船の縁にしがみついた。
 常に冷静な彼であったが、こういう小舟だけは苦手としていた。
 足下が定まらない感覚が気持ち悪く、目眩を起こしそうになるのである。

 一方、ラシールは腕を組んだまま、霧の中にぽつんと浮かぶ<キシュラの塔>をじっと見つめていた。
 その顔から感情を読みとらせるものはなく、アシュランはこの時、ラシールの余裕を心底羨ましく思った。

 ヴォルンが網を投げ入れると、サルドは櫂を弟にあずけた。

「よし、あんたたちはこれから俺と一緒に水に潜るんだ。
着替えは俺が持っていくから、あんたたちはついてくるだけでいい」

 そう言って、サルドは上着を脱ぎ始め、防水加工のしてある革袋の中に押し込んだ。

 キアヴール湖の水は透き通っており、水の中からも太陽が輝いて見えた。
 しかし恐ろしく冷たく、手足から熱が奪われ、どんどん体が凍えていくようだった。

 サルドは慣れたように湖深くに潜っていくと、湖底にある石造りの水門をくぐった。
そこには鉄格子がはめ込まれていたが、人間一人が通れるぐらいの穴が開けられていた。

 水門を越えると、サルドはすぐに上昇しはじめた。
そして、水面に顔を出すと、追いかけてくるはずの二人を待った。

 しばらくして、ラシールとアシュランが顔を出すと、サルドはにやにやと笑った。

「おや、無事についてこれたね、お二人さん。
くたばっちまうかと思ったぜ」

 呼吸を荒くしているアシュランを支えてやるようにしながら、ラシールは唇をつり上げて皮肉げな表情をつくった。

「泳ぐのは得意でな。
もっとも、海はこの湖よりもだいぶ暖かかったが」

「でも、美人さんには辛かったみたいだな。
大丈夫か、あんた?
顔、真っ白になってるぜ?」

 大きく深呼吸をしたアシュランは、じろりと冷ややかな視線をサルドに向けた。

「ええ、おかげさまで心臓が止まりかけましたよ。
わたしの事は気にしないでください。
それより、ここはまだ塔の中ではないのですか?」

「まあ、外堀みたいなもんかな。
飢えた猛犬が放たれているのは、神殿から続く通路の中なんだ。
おれたちが侵入するのは、塔の貯水槽の中だから、犬に出くわす心配はない。
だが、大声だすと、神官のバカや犬に気づかれるぜ」

 そう言うと、サルドはアシュランをからかうように見つめた。

「ここからはもうちょっと長いんだ。それに水路が狭いから泳ぎにくい。
ついてこれるか、あんた?
なんなら、ここで待っていてもいいんだぜ」

 サルドの言葉に、アシュランは眉根をよせた。
生来負けず嫌いであるため、「無理じゃないか?」と言われると、余計に腹が立った。

「無理するなよ、アシュラン。
おまえに死なれては、わたしが殺される」

「ラシール様まで! わたしが大丈夫と言ったら、大丈夫なんですよ」

 その後、無事に塔の中にたどり着くと、三人は乾いた服装に着替えた。
濡れた服はまとめて革袋の中に入れると、サルドが手際よく水路の中へと隠す。

「アシュラン。あんた、その長い髪、よくしぼっておけよ。
水滴が床に落ちていたら、不審に思われる」

「わかっていますよ。
それより、ここから変装はいらないんですか?」

「昼間、塔に入る物好きな神官はいない。
今の時間帯は神殿で祈祷だからな。
それに、シールウェ殿下の世話は、目の見えない婆さんがしてるんだ。
食事時でもないから、婆さんが来る心配もないさ」

 サルドは肩をすくめて言った。

「行くぜ。キシュラの化身は塔の最上階にいる」

 塔の階段は二重螺旋を描いており、上る者と、下りる者が直接出会わないような複雑な構造になっていた。

 足音を忍ばせながら階段を上がっていくと、小さな青銅製の扉があった。

 サルドは懐から細長い針を取り出し、扉の鍵穴に差し込んだ。
 器用な手つきで鍵をあっさりと開けたサルドは、青銅の扉を開き、二人を中に招き入れた。
 そして厳重に扉に鍵をかける。

「この上にシールウェ様がいるんだ。
おれはここで見張ってるから、あんたらだけで、上に行ってこい。
やることやったら、さっさとおさらばしようぜ」

「おまえ、ルカイダに何を聞いたんだ?」

 ラシールが尋ねると、サルドは好色そうな笑みを浮かべた。

「だから、シールウェ様をやりにきたんだろ。
神殿で一目惚れだって聞いたぜ。
バカな話だとは思うが、ルカイダの言うことには逆らえねえからな。
あんまり声を上げさせるなよ。
声が響くと、神殿兵がなだれ込んでくるぜ」

 ラシールは思わず片手で額を押さえた。

 気を取り直したラシールは、狭い円形の部屋の真ん中にある階段を見た。

「あれで上に上がるのか?」

「そうだよ。ほら、さっさと行け。
時間はあまりないぜ」

「わかった。アシュラン、おまえはここで待て。
何かあれば、すぐに知らせろ」

 アシュランはまじまじとラシールの顔を見つめたが、黙って頷いた。

 ラシールは中央にある木の階段を上がり、天井部にある扉を押し上げた。
重い扉をゆっくり上げていき、わずかにできた隙間に体を滑り込ませる。

 最上階に入り込んだ時、下からサルドの小声が聞こえてきた。

「なあ、アシュラン。
あんたの相棒、やっぱり、人に見られるのは嫌なのかな?」

 最上階のその部屋は、薄暗く、目眩がするほど強い香の薫りがした。
 円錐状になった天井の、頂点に近い所に小さな窓が一つだけ開いている。
 長身のラシールでさえ手が届かないほど高い天窓からは、一条の陽光が部屋の中央に降り注いでいた。

 ラシールは、強い香りを放つ蝋燭が、壁に灯されていることに気づいた。
 それでもなお部屋は暗く、目をこらさなければ何があるのかよくわからない。

 部屋の中央には天蓋のついた大きな寝台が置かれており、寝台の四方には色樋せた金の房がついた青絹の帳が下ろされていた。

 微かに透けて内側が見通せる帳の外側から、ラシールは寝台に誰かが眠っていることに気付いた。

 その者が侵入者に気付く気配はなかった。

 絹の帳を静かにかき分けたラシールは、そこに神殿で出会った美しい存在を見いだした。

 ラシールは、シールウェの枕元に立つと、その白く小さな顔に片手をさしのべた。
目覚めさせないように気をつけながら、瞼に、頬に、そして唇に触れる。

 胸に手を抱き込むようにして白豹の毛皮にくるまって眠っていた麗人は、ラシールの無言の称賛を感じたのか、長い睫毛に縁取られた瞼を震わせ、目を見開いた。

 常に冷静で決断カの早いラシールも、その瞳を間近に見て呆然とし、息を呑んだ。

  鮮やかな、魔性を宿したエメラルド。
  その澄んだ緑の双眸は、まさに<キシュラの瞳>だった。

 夢の続きを思い描いているのか、まだ焦点の定まらぬ瞳がラシールを見つめた。

「そなたは誰? ……それとも、これは夢の続きなのか」

 ひっそりとした声は玲麗たるものだったが、男か女か判断しかねた。

 シールウェは淡く微笑み、ラシールの大きな手に片手を重ね、そっと口づけをした。

「闇に舞い降りた太陽神。
あなたの手は、こんなにも暖かいのですね」

 シールウェは自分の頬にラシールの手を押しつけると、静かに涙を流した。

 ラシールは困惑していた。
 神殿で見た神々しいまでの神の化身はおらず、ここにいるのはまるで捨てられた子供のように儚く、孤独な存在だった。

「そなたは何者だ?」

 脅かさないよう、細心の注意を払い、ラシールは静かな声で尋ねた。

 その言葉を聞いたシールウェは悲しげに目を伏せた。

「わたしは呪われた者。
名を聞けばあなたの機嫌を損ねるかもしれません」

「なぜ、わたしが機嫌を損ねると思う?」

 ラシールの問いに、シールウェはゆっくりとした動作で上体を起こすと、まるで口づけをするかのようにラシールの目をのぞきこんだ。

「わたしは神ではない。
それなのに、偉大なるキシュラの化身と崇められている。
それがどれほど罪深いことか、あなたであればわかるはず。
ならば、どうか、今この手でわたしを殺してください。
……これ以上、わたしが罪を重ねる前に」

 シールウェの美しい緑の双眸から水晶のような涙がこぼれ落ちた。

 深く、鮮やかなエメラルドを見つめていたラシールは、不意に自分の全ての意識が引き込まれるような感覚を覚えた。
 心の奥底に封じ込めていた感情まで、その瞳の魔力によって引き出され、捕えられる。
 忘れかけていた幼い頃の記憶と孤独までもがこみ上げ、ラシールは目眩すら感じた。

 ラシールは両手でシールウェの顔を挟み込むと、その頬を流れる涙に口づけた。
 目を閉じたシールウェの瞼に接吻し、震える唇に己の唇を重ねた。

「そなたを殺すことなど、わたしにはできない」

 ラシールが呟くように言うと、シールウェは絶望したような、悲しい微笑を浮かべた。

「わたしは神ではないのですよ。あなたの剣で貫けば、わたしの命は終わる」

「だからこそだ」

 苦しげなラシールの言葉に、シールウェは目を閉じ、ため息をもらした。

 シールウェは苦痛をこらえるような表情をしたラシールに優しく微笑みかけると、今度は自分から口づけを与えた。

「さあ、ここから出てお行きなさい。わたしはここで朽ち果てる身。
わたしと会っていたことがばれれば、神官や、父があなたを殺すでしょう。
太陽のように暖かなあなたを、わたしは死なせたくないのです」

 寂しげな微笑を浮かべたシールウェを、ラシールは思わず抱きしめていた。

「そなたは、カルシア大公の子なのか?」

 突然広い胸に抱きとめられ、シールウェは驚いているようだったが、その言葉を聞くと、黙って頷いた。

「ここから出たいか? それが、どんな方法であっても?」

 ラシールの問いに、シールウェは顔をあげると、淡く微笑んだ。

「ここから出たいとは思います。
けれど、ここから出てしまったら、わたしはきっと生きてはいけないでしょう。
この塔が、わたしの生きる場所なのですから」

 シールウェはラシールの胸に頬をよせると、目を閉じた。

「……あなたの鼓動が聞こえる。
今まで、わたしを抱きしめてくれるのは、姉上だけだった。
わたしは、姉上が幸せになってくれれば、それで良いのです」

 自分に言い聞かせるかのような言葉に、ラシールは言葉を失った。
 ラシールはシールウェの顔を上げさせると、その美しい瞳を見つめて言った。

「わたしが、そなたを連れ出してやる。
必ずそなたをここから救い出すゆえ、それまで、待っていてくれ」

 シールウェは不思議そうな顔をして首を傾げたが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
白い指先がラシールの濡れた黄金の髪にそっと触れ、そして頬に触れた。

「夢ならば、このまま醒めなければいい。
……けれど、その言葉だけで十分です」