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後宮の月


第1章

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 新年になり、カルシア公国は建国300年を迎えることになった。

 しかし喜ばしいはずの年は、最初から苦難に満ちたものであった。


 昨年10月の終わりに、突然ダルヴァート帝国はカルシア公国に使者を送った。

「カルシア公国は、ダルヴァート帝国を宗主国と認め、皇帝の命令に従うこと。

 従属しなければ、ダルヴァート帝国は宣戦布告を行い、国都ヤヴァシュに侵攻する」

 広間の玉座で謁見を行ったカルシア大公は、高慢な使者の態度に深い憤りを覚えた。

 貴きニミラーン王国の血統であるカルシア人が、どうして野蛮なダルヴァート人に侮辱されなければならないのか。
 ダルヴァート帝国よりも古い歴史を持つ誇り高い国が、どうして新興の国に従わなければならないのか。

「カルシアの宗主はニミラーン王国のみ。
 ダルヴァート帝国に従う理由はない」

 大公ヴァラームは、重々しい口調で告げた。

 すると非常に珍しい白金の髪を持つ美しい大使は、優雅な冷笑を浮かべた。

「古王国ニミラーンの王はすでに地上には存在せぬ。
 カルシアは王国とは名乗らず、いまだに公国としてある。

 存在せぬ王に従うのは、あまりにも滑稽。
 王を持たぬ国なれば、新たな宗主が必要と思われるが」

 まだ若く、優美な全権大使は、優しい声で辛辣な皮肉を口にした。

 屈強な皇帝の親衛隊を従えた大使は、本国では最年少の宰相として皇帝に仕えている切れ者であった。

 軟弱にさえ見える若者の言葉は、すなわち皇帝ファザイアの言葉。

 ヴァラームは拳を強く握りしめると、目の前に立つ若い大使を睨みつけた。

「──そなたを、ここで斬ることもできるのだぞ」

「礼節を尊ぶニミラーンの末裔が、正式な使者を斬ったとなれば、殿下の御宗主がお嘆きになられましょうな」

 ヴァラームの低い恫喝に、大使は優雅な微笑みを絶やさずに答えた。

 この小憎らしい若造を、今切り捨てることは簡単だった。
 しかし、獅子帝ファザイアの大軍、それに逆らえるほどの武力をカルシアは持たない。

 ヤヴァシュの前に帝国軍が展開すれば、平和に慣れた市民は恐慌状態に陥るだろう。
 難攻不落を誇ったヤヴァシュの城門でさえ、その大軍の轟きに震えるに違いない。


 カルシア大公ヴァラームは、苦渋の決断の末、皇帝に服従の意を示した。

 小さな公国を併合したダルヴァート帝国は、従属の証として、大公に恐ろしい難題を突きつけてきた。

 それは、カルシア公国ただ一人の世継ぎであるルシャリーン公女を、皇帝の妃として帝都に差し出せというものであった。


 困り果てたカルシアの廷臣たちは、日々この問題を打開すべく、会議を重ねた。

「あの皇帝が、姫の絵姿を見たのが運の尽きじゃ。
 姫を見て心を奪われぬ男など、この世には存在せぬ」

 廷臣の一人がそう言うと、さらに他の大臣が声を荒らげた。

「結局、皇帝はカルシアを滅ぼす気じゃ。
 姫はただ一人のお世継ぎ。
 皇帝の妃になってしまえば、労せずして公国領は皇帝のものになるではないか」

「さっさと姫を嫁がせておけば良かったのう」

「そういう問題ではない!」

 会議が紛糾しそうになった時、大臣の中でも最年長の者が声をひそめるようにして言った。

「お一人ではないぞ、あの方がおられる」

 その言葉の意味を悟った廷臣たちは、顔を青ざめさせ、皆一様にかぶりを振った。

「姫を帝国に差し出し、あの化け物をわれらの主君と仰ぐというのか?
 それは決して許されぬ。
 そんなことをすれば、カルシアは本当に滅亡してしまうぞ」

「しかしそれ以外に策はない。
 姫を差し出さねば、怒った皇帝は、今度こそカルシアを攻め滅ぼしてしまうだろう」

 再びがやがやと騒ぎ始めた廷臣たちを、それまで黙っていた宰相が重々しい声で鎮めた。

「静まれ。帝国に滅ぼされず、しかし姫を人質に出さぬ策がある」

 その言葉を聞いて、廷臣たちは一斉に黙り込んだ。
 そして希望を見いだすかのように、宰相の疲れ果てた顔を見つめた。

「あの方を人質に出すのじゃ。
 あの方と姫はまさに瓜二つ。容易には区別がつかぬ。
 絵姿しか姫の姿を見たことのない皇帝には、決して判らぬだろう」

「しかし、あの方は忌まわしき魔性の身体をしておる。
 愛妾にするには、ちと問題があると思うのじゃがのう」

「何、もともとそうだったと突っぱねれば、皇帝とて文句は言えぬ。
 確かめる術はないのじゃからな。
 人質として、これほど適任な存在はまたとないではないか」

 宰相の言葉に、大臣達は皆納得したように手を打ち、喜色を顔に浮かべた。

 しかし、深刻な表情をして考え込んでいた一人が、ぼそりと低い声で言った。

「皇帝はよいとしても、大神官や民衆は納得せぬぞ。
 あの方はキシュラの化身として、民衆に絶大な人気を持つ。

 われわれを悩ませた存在がいなくなるのは結構な事だが、大神官が民衆を煽って暴動でも起こせば、ヤヴァシュは大混乱に陥る」

「すべてはカルシア存続のためじゃ。
 わしが大神官を説得しよう。
 もし応じなければ、反逆罪として処刑するまでじゃ」

 宰相の断固とした言葉に、大臣達は賛同したように頷いた。

 そしてそれを一同の合意として上で、大公ヴァラームに奏上することにしたのだった。




 その日、ヤヴァシュには北風に乗った雪が舞っていた。

 まだ太陽が上がらぬ早朝、手足が痺れるほどの厳寒の中を、ダルヴァート帝国の帝都ヴァルーズへと向かう使節団が出発した。

 使者を見送る者は一人としていなかった。
 大公の命令により、都の人々は外に出ることを許されなかったからである。

 様々な貢ぎ物を積んだラクダの行列には、あたかも葬列のような陰鬱な空気が流れていた。

 叶うことなら、皆逃げ出してしまいたいと思っていた。
 しかし皇帝の恐ろしさを十二分に知っているカルシアの民は、皇帝の命令に背くことが死に直結することを承知していた。

 それゆえに、逃げることさえできぬ使者たちの歩みは、少しでも帝都に近づくのを遅らせようとするかのように、自然遅くなるのであった。

 
 ラクダの行列の中には、4頭の白馬に引かれた輿があった。
 その中には、皇帝の妃という名の下に、人質として送られるルシャリーン姫の姿があった。

 風が入らないように香木で壁が作られた輿の中には、毛皮の敷物や色鮮やかな絹のクッションなどが置かれており、公女はしどけなくもたれかかっていた。

 美しい顔には表情がなく、運命を受け入れた者だけが持ちうる静謐だけが漂っていた。

「殿下。明日にはベルーズ高原を下り、サマイア砂漠に出ます。
 砂漠はこの時期でも暑うございますゆえ、どうかご準備を」

 護衛隊長であるダルナーンが、輿に馬を寄せてそう告げた。

 カタリと小さな窓が開く音がして、中から緑玉の双眸を覗かせた公女が、涼やかな声で隊長に訊ねた。

「サマイア砂漠には盗賊が多いと聞くが、大丈夫なのですか?」

「朝貢の使者を襲おうなどという、大胆な盗賊はおりませぬぞ。
どうかご安心ください」

 その言葉を聞いても憂いが晴れなかった公女は、美しい緑色の瞳を曇らせた。

 しかし何も言わず、再び輿の窓をぴたりと閉ざした。

 それを見ていたダルナーンは、忌々しげに舌打ちをし、低く罵った。

「おぞましい魔性の化け物め」

 護衛隊長は地面に唾を吐いた。

彼は、人質に送られるのがルシャリーン姫ではなく、長年<キシュラの塔>に幽閉されていた公子シールウェであると聞かされていた。

ダルナーンは、シールウェが<キシュラの化身>として崇められているのを知っていた。
最近では「キシュラの信徒」と称する輩が増えており、彼らの熱烈な信仰心を危ぶむ声が、大公宮の中でも頻繁に聞かれるようになっていた。

「キシュラの信徒」には貧乏で卑賤な者が多い。
 慈悲深いシールウェを大公に推戴しようと、もし彼らが徒党を組むようなことがあれば、すぐにカルシア公国に内乱が起こる。

シールウェは正式な公子ではなかったが、その存在はあまりにも危険である。
 それが貴族たちの本音であった。

複雑な政治論議は抜きにしても、ダルナーンは、男か女かよく判らぬ公子を薄気味悪く思っていた。
 端整極まりない顔を見ると、背筋が一瞬冷たくなる。
 その理由の判らぬ不愉快な思いのために、彼はことさら公子を見下していたのである。


 ダルナーンの侮蔑を肌で感じ取っていたシールウェは、絶え間なく揺れる輿の中で、一振りの短剣を掌中でもてあそんでいた。
 それは、都を出る前日に、双子の姉であるルシャリーンが渡してくれたものだった。

母親の形見であるという、それは公女の護身用の短剣だった。

ルシャリーンは、皆が触れることを厭う身体を、無言で強く抱きしめてきた。

言葉は無くとも、想いはシールウェに伝わってきた。
 迸るような悲哀と決意。──必ず、助け出してみせると。

感情さえも失いはじめていた公子は、その時、ようやく一粒の涙を流した。



 サマイア砂漠を進む使節団を、遠く離れた場所から見つめる目があった。


「ずいぶんと遅い行軍ですな。水が足りるかどうか、こちらが心配になるほどだ」

自分の傍らに馬を寄せてきたシャーラーンを見やり、ラシールは微笑を浮かべた。

「そう言うな、シャーラーン。
彼らは安住の地を離れた小鳥のようなもの。
臆病になるのも、仕方があるまい」

「死のカディフ砂漠を越えるなら、そんな悠長な事は言っていられませんよ」

 広い肩をすくめた長身のシャーラーンは、帝国軍随一と謳われるほどの剛の者であり、親衛隊の副隊長でもあった。

 日焼けした褐色の肌、鋭く光る漆黒の双眸、大きな鷲鼻。
 砂漠の民ネデヴェル人の典型のような男は、ラシールの口許に淡く微笑が浮かんでいるのを見て、太い眉を怪訝そうにつりあげた。

「隊長、何か楽しい事でも?」

 ラシールは銀の双眸を細め、からかうような眼差しでシャーラーンを見やった。

「戦にならずにほっとしていた。
 親衛隊を先鋒として配置し、宣戦布告をすれば、ヤヴァシュを急襲する予定だったからな。

 そうなると、いくらカルシアが平和惚けをしていても、戦になれば我々も無傷ではいられなかっただろう。

 ──それに、ヤヴァシュの盗賊に約束をしていたからな」

「無茶な契約をしたものですな。
 それにしてもカルシア人は遅い。
 いつになったら帝都に戻れることやら」

 重々しくため息をついたシャーラーンは、雲一つない空を見上げた。

「いっその事、カルシア人と合流しますか?
 我々が尻を叩いてやれば、少しは行軍も早まるかもしれませんぞ」

 その言葉に、ラシールは首を横に振った。

「いや、しばらくは離れて様子を見る。
 カルシア人も愚かではない。サマイア砂漠は盗賊が多いゆえ、慎重になっているのだろう。

 合流するのは、彼らが襲撃されてからでも遅くはない。
 我々も盗賊の目を欺いておく必要がある」

「襲ってくれと言っているようなものですぞ、あの遅さは。
 しかしまあ、そう言うことであれば、黙って様子を見ることにいたしましょうか。

 私としては、できるだけ早く、盗賊が出現してほしいものです」

 シャーラーンは大げさに嘆息して見せると、馬首を巡らし、部隊全体に指示を与えに行った。



 ヤヴァシュを出た時は寒い冬であったというのに、サマイア砂漠はまるで焼かれた鉄板のようだった。

 壁を全て取り払い、薄絹で周囲を覆った輿の中に座っていたシールウェは、乾燥した岩場が続く砂漠を飽きもせずに見つめていた。

 喉がからからに乾いてくると、清涼な薔薇水を口に含む。

 幼い時から<キシュラの塔>に幽閉されていた公子には、見るもの全てが物珍しく、新鮮に感じられるのだった。

 日陰になっている岩棚の下で休憩をとった一行は、思い思いに水や塩分を取りながら、景気づけの歌を歌っていた。
 兵士たちの歌声は愉快そうであり、使者たちは自棄になりながら楽しんだ。

 彼らはお互いを慰め合い、運命の残酷さを嘆いていた。