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後宮の月


第1章

<2>



 しかし、公女の輿の周りには誰も近づこうとしなかった。
 時々、果物や薔薇水を持った侍女が、公子の機嫌をうかがいにいく。
 それが終わると、すぐに彼女らは輿から離れた。

 孤独の中に沈み込んでいたシールウェの双眸は、ふとその時、一行に近づいてくる砂塵を視界にとらえた。
 はっきり見えるほどまでに砂塵が近づいてくると、それが悍馬を駆る蛮族の男だということが判った。

 護衛隊もその騎影に気づき、警戒するように馬に乗った。
 弓を引き、いつでも放てるように身構える。

 砂塵を睨みつけてたダルナーンは、蛮族の男が十数騎の盗賊に追われていることに気づき、さも可笑しそうに笑った。

「見ろ。<草原の盗賊>が、砂漠の盗賊に追われているぞ。
 何とも哀れなことだな」

 すると彼の部下たちも一斉に笑い出した。
 誰も助けに行こうとはしない。
 これ以上、厄介事に巻き込まれたくないという意思が、ありありと彼らの中に満ちていた。

 美しい柳眉をひそめて、追われる騎手の姿をじっと見守っていたシールウェは、輿から砂漠の上に降り立った。
 そしてその優美な姿に愕然としているダルナーンの傍らに歩み寄る。

「──これは、殿下。どうかなさいましたか?」

 唇を引きつらせて辛うじて微笑を浮かべた護衛隊長に、シールウェは涼風のごとき静かな声で命じた。

「あの者を助けるのだ。
 砂漠の中では、お互いが助け合わねば生きてゆけぬ。
 あの者を見捨てれば、その仕打ちがいつかわれらに降りかかることだろう」

 飾り物の人形だった公子に命じられたダルナーンは、あからさまに眉をつり上げて嘲笑を浮かべた。

「盗賊と争うなど、時間の無駄ですぞ。
 お助けになりたいのであれば、殿下が指揮なされてはいかがかな?」

 その言葉に目を細めたシールウェは、一度追われる者の姿を見やると、魔性を秘めた瞳をひたと護衛隊長に向けた。

「行け、この私に呪われたくなくば」

 シールウェは声を荒立てたわけではなかった。

 しかしその言葉は護衛隊長を稲妻のように打ちのめした。

──<キシュラの化身>に呪われれば、命はない。

 それは、カルシアに古くから伝わる迷信であり、彼はそれを信じ込んでいた。

 渋々とダルナーンは公子の命令に従い、馬を駆った。
 その後に部下たちが続く。

 走り去っていく護衛隊を見送り、輿の方へと戻ったシールウェは、不意に目眩を覚え、柔らかいクッションの上に倒れ込んだ。

 急に太陽の下に出たため、立ちくらみを起こしたようだった。

 そして、慣れない事を行った緊張もあった。

 気を失ってしまいそうな公子の弱々しい姿を見ていた若い侍女が、慌てたように気付けの酒を持ってくると、青ざめた唇に酒杯を押し当てた。

「殿下、少しずつ、ゆっくり飲んでくださいませ」

 喉が焼け付くほど強い酒を一口飲んだシールウェは、激しく咳き込んだ。
 侍女は、そんな公子の背中を優しくさすっていた。

 シールウェはすぐに気を取り直すと、心配げな侍女に微笑みかけた。

「──ありがとう、ニネヴェ。もう、大丈夫」

 口直しに差し出された薔薇水を飲むと、シールウェはようやく安堵のため息をもらした。


「あの公女は優しいお方のようですな。
 ──われわれも加勢いたしますか?」

 感心したような口調のシャーラーンに、ラシールは厳しい表情で言った。

「盗賊の相手は、護衛隊だけで十分だろう。
 しかし、あの追われている男の方が気になる。

 あの馬の操り方はバイル族のものだ。
 草原の民が、どうしてこんな砂漠にまで出てきた?
 バイル族が進出してきたなら、厄介な事になる」

 ラシールは言葉を切ると、後方にひかえている騎兵に片手を上げて合図をした。

「姿を見せないよう散開して、カルシア人を取り囲め」



 やがて、傷ついた蛮族の男を伴ったダルナーンが野営地に戻ってきた。

 蛮族の男は額から血を流していたが、まったく気にしていないようだった。

 護衛隊長は、負傷してもなおふてぶてしい不遜な笑みを浮かべる蛮族を、忌々しげに眺めやり、輿の方を示して言った。

「あの御方が、おぬしを助けるように命じられたのだ。
 お礼を申し上げるんだな」

 日よけの白い布を頭部に巻いていた男は、血と砂塵にまみれた布を取り去ると、精悍な顔に皮肉げな微笑を浮かべた。

「助けてくれと言った覚えはないんだがね。
 まあ、一応礼ぐらいは言わせてもらおう」

 日に焼けた褐色の額を腕でぬぐった男は、手の甲についた血を見て憮然とした。
 軽く肩をすくめて馬から下りると、彼は愛馬の首を軽く叩いた。
 そして傷ついているとは思えない足取りで、男は輿の方へ悠然と歩み寄った。

「あんたが俺を助けてくれたんだってな。ありがとうよ」

 貴人と承知しつつも敬意を払う様子を見せない男は、絹の帳の外側でそう言った。

「そなたが助かったのならそれでよい。礼を言うには及ばぬ」

 感情のこもらぬ声で応じたシールウェは、絹の帳から透けて見える男を見やった。

 精悍な狼を思わせる男はまだ若く、30歳を越えているようには見えなかった。
 黒い野性的な眉の下にある双眸は琥珀色をしており、鍛え上げられた長身の肉体は力に満ち溢れているようだった。
 顔立ちは秀麗とさえ言えたが、鋭すぎる琥珀の双眸が、男を鬼神めいた存在に見せていた。

「わたくしはカルシアの公女ルシャリーン。そなたの名は?」

「バイル族のヒルダーン」

「バイル族? かの民は、タクラン平原に住んでいるのだろう。
 なにゆえ、このような遠い砂漠にいるのだ?」

 やや首を傾げてシールウェが問うと、ヒルダーンは自嘲気味に笑った。

「俺は追放の身でね。本当は一族の名を名乗ることは許されない。
 ここまでようやく逃げ出してきたんだがね」

 己の不幸を他人事のように言ったヒルダーンは、にやりと微笑すると、突然、彼と公子の間を仕切っている帳を開け放った。

 ヒルダーンの蛮行に身をすくませたシールウェは、獣のように飛びかかってきた男に押さえつけられていた。
 首筋に短剣を突きつけられ、片手で両手を封じられた。

「──動くなよ、お姫様。
 恩を仇で返すようで悪いんだが、俺も逃亡しなきゃならんのでね。
 水と食料と金を、少しばかり分けていただこうか」

 逃れようと身体をよじったシールウェだったが、首に短剣の切っ先が突きつけられると、抵抗をやめて男を睨みつけた。

「わたくしを放せ。そなたの望みを聞き入れるゆえ」

 すると、シールウェの腕を身体の下に押さえ込んだヒルダーンは、空いた片手で公子の美しい顔を撫でた。

「あんた、女じゃないな。
 いくら綺麗な顔をしていても、胸の触り心地がまるで違う。
 一度公女を遠目に見たことがあるが、確かに胸はあったぞ。
 どうして公女のふりをしているんだ?」

 男の言葉に動揺し、身体を震わせたシールウェは、輿の異変に気づいた護衛たちが駆け寄ってくるのを見つめた。

「そなたの知るべきことではない。私から離れよ」

 緑玉の瞳を怒りに染めた公子は、力一杯ヒルダーンを押しのけようとした。
 しかし男の強靱な身体はぴくりとも動かなかった。

 輿の佩剣を抜き放ったヒルダーンは、輿をぐるりと囲んだ護衛隊に向かって言った。

「おい、姫を殺されたくなかったら、輿から離れていろ」

 その声は愉快そうですらあった。

 豪胆なヒルダーンに呆れ、羨望すら抱いたシールウェは、ダルナーンに離れるように告げ、水と食料、そして金貨百枚を用意するように命じた。

 そしてヒルダーンの琥珀の双眸を見返して言った。

「さあ、私から離れよ。そなたを追わす事は決してせぬゆえ。
 いずこへなりと消え失せるがいい」

 公子の美貌を値踏みするように見つめていたヒルダーンは、唇の片端をつり上げ、身体を封じたまま訊ねた。

「ところで、あんたたちはどこへ行くんだ?
 それに、さっきの理由も聞いていないぞ」

 柳眉をひそめてヒルダーンを睨んだシールウェは、やがて諦めたようにため息をつき、淡々と説明をしはじめた。

「私たちは、ダルヴァートの皇帝に命じられて、帝都ヴァルーズを目指している。
 皇帝は私の姉を望んだが、世継ぎである姉上を後宮に入れるわけにはいかぬ。
 それゆえ、父上は双子である私を帝都へ遣わすことにしたのだ」

 するとヒルダーンは納得できぬように額に皺を寄せ、緑玉の瞳を見つめた。

「世継ぎは公子であるあんたじゃないのか?
 それに、すぐに男だとばれるだろう。
 そんなことになれば、皇帝は怒り狂うぞ」

 その言葉に公子は顔色を変え、彫像のように無表情になった。
 そして砂漠の風のように乾いた声で言った。

「私は呪われた子なのだ。それゆえ、世継ぎになることはできぬ」

「誰がそんなことを決めたんだ?」

 なおも執拗にヒルダーンが問うと、公子は顔をそむけ、苦しげな口調で言った。

「カルシアに古くから伝わる伝説だ。
 大公家に双子が生れた時、災いを防ぐために1人は世継ぎとなり、もう1人は封じられる。
 ……さあ、もうよいであろう。私から離れよ」

 苛立たしげに身体をよじった公子は、束縛が緩められるのを見計らい、するりと身をかわして輿から飛び出そうとした。

 しかし足首を捕まれ、引きずり戻される。

 輿の床に公子を引き倒したヒルダーンは、逃げられぬように帳の布を引き裂き、紐状にして身体を縛り上げてしまった。

「この蛮人めが! 殿下を放さんか!!」

 輿の外でダルナーンが怒声を上げると、ヒルダーンは怒鳴り返した。

「やかましい! 公女を殺されたくなかったら、とっととヴァルーズに向かえ!!」

 男の言葉に驚愕した公子は身じろぎをし、にやついているヒルダーンを睨んだ。

「水や食料を用意すれば、私を放すと申したではないか」

 とがめるような鋭い口調になった公子を眺めやると、ヒルダーンは傲然とした微笑を浮かべ、シールウェの形のよい顎に手をかけた。

「あんたと一緒の方が、逃亡するのも楽そうだからな。
 こんな大部隊じゃ、盗賊だってそうそう襲っては来ないだろう。
 1人で砂漠を放浪するのは、何と言っても危険だからな」

 ヒルダーンは、悔しげに唇を噛んでいる公子の紅玉随のように赤い唇を人差し指で撫でた。

「俺を助けたことを後悔しているのか?
 今度から人助けをする時は、もう少し考えてからやるんだな」

 くつくつと笑うヒルダーンを、シールウェはきつい眼差しで睨んだ。
 その瞳の中には、深く傷ついたような光があった。

「可愛い顔をしてるのに、怖い目をするな、あんたは。
 だが、怒ってるあんたは、最初に見たときよりも魅力的だぜ。
 ──このまま、襲ってしまいたくなる」

 シールウェは狼狽して青ざめた。
 怯えて身体を震わせる公子を、残忍な眼差しで見つめていたヒルダーンは、良策を思いついたかのように不気味な笑みを浮かべた。

「馬鹿なマネはするなよ、公子様。
 兵士たちに俺を襲わせようとしたら、俺はあんたをその場で犯すからな。
 そして、ヴァルーズの皇帝にカルシアの陰謀をばらしてやる」

 低い恫喝に、シールウェは白皙の顔をさらに白くさせ、唇を震わせながら鬼神のごとき男をじっと見つめ返した。

「……判った。兵たちには、そなたに手出しをせぬように言い置いておく」

 するとヒルダーンは不敵に笑い、目を細めて公子を見つめた。

「物わかりがいいな。ところで、まだあんたの本名を聞いてなかったな」

 細いため息をついた公子は、消え入りそうな声で名を告げた。

 ヒルダーンは楽しそうに笑った。

「先はまだ長い。仲良くやろうじゃないか、シールウェ殿下」