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後宮の月


第1章

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 バイル族がシールウェに飛びかかった瞬間、ラシールは自分の置かれている状況も忘れ、危うく馬を走らせそうになった。

 しかし、はやる感情を鋼の理性でどうにか抑えこむと、彼は右の拳を力一杯握りしめた。

「何者だ、あの男は?」

 素朴な疑問を口にしたシャーラーンは、横で馬を立てるラシールの顔を見て、驚いたように目を見開いた。

「どうしました? 顔が真っ青ですよ」

「何でもない。気にするなシャーラーン」

 ラシールは額を押さえて一度目を閉じると、冷静な態度で指示を下した。

「あの男が逃亡したら、必ず捕えろ。生きたままヴァルーズに連れて行く」

「はっ。しかし、公女様は大丈夫でしょうか?」

 シャーラーンの心配そうな言葉に、ラシールは苦々しい笑みを浮かべた。

「殺しはすまい。単騎でここにいるとすれば、公女が盾であろうからな。
 もし公女を殺したら、その時は、わたしが生きながら生皮を剥いでやる」

 戦場の勇であるシャーラーンでさえ、思わずぞっとするような響きがあった。
 ちらりと横目で見ると、ラシールの顔は彫像のように表情が無かった。

 しかし、そのたぐい稀な銀の双眸だけが、刃のようにぎらぎらと光って見えた。




 一夜が過ぎると、ヒルダーンに対して殺意を漲らせていた護衛隊も、報復を諦め、彼が陣営をうろつくのを許した。

 三日が過ぎると、ヒルダーンの豪胆で何事にも動じない人柄に感じ入った者たちが、ちらほらと言葉を交わすようになった。

 そして五日後には、様々な国を放浪し、あまたの苦難をくぐり抜けてきたヒルダーンを、護衛隊長ダルナーンが至極気に入り、共に酒を酌み交わすほどになっていた。

 六日目の夜、一行は砂漠の中に存在する豊かなオアシスにたどり着いた。
 あと一日もすれば、この果てしなく広い砂漠を越えられる。
 使者団は大いに喜び、それを祝って酒宴を開いた。

 
 ヒルダーンが様々な冒険の話を面白可笑しく聞かせ、彼を取り巻くように座った者たちは大笑いをした。
 侍女たちも、この豪放磊落な男を皆で取り巻き、争うように酌をする。
 高い身分である使者もまた、ヒルダーンに心を許し、下品な冗談を言い合って笑っていた。

 一番年若の侍女であるニネヴェが、シールウェのために甘い果実酒を注ぐ。
 2人きりの天幕であったが、2人の間に会話はほとんど無かった。

 ニネヴェは、数多くの侍女の中でも、ただ1人シールウェを恐れない侍女だった。
 しかし、今夜は楽しげな宴に心引かれるのか、時々、入り口の方へと視線を走らせていた。

「ニネヴェ。すまない、少し1人にしておいてくれないか?」

 シールウェが気だるげにそう言うと、ニネヴェは慌てたように言った。

「御気分でもお悪くなられましたか?」

「いや、何だか眠くなってきたみたいだ。そなたは外に出ていていい」

 公子の言葉に、ニネヴェはやや躊躇ったようであったが、深く一礼すると退出した。

 それからしばらくして、シールウェは身体を起こした。

 騒ぎの中には絶対に入れぬシールウェは、寒い砂漠の夜をしのぐための毛皮を羽織り、天幕の外に出た。
 どうやら、抜け出した事に気づく者もいないようであった。

 誰かが竪琴の演奏をし始め、それに合わせてもの悲しげな歌声が響き始めていた。

 シールウェは細いため息をつくと、砂漠の方へと足を向けた。


 砂漠の夜は、何度見ても驚愕するほど美しかった。

 零れそうなほどに輝くあまたの星々は、その光によって砂漠を白金色に輝かせた。

 砂漠には時が存在しない。

 太陽が昇り、地平線を黄金に染めて沈む。
 夜になって星が輝き、再び幻想的な夜明けが訪れる。
 そして月は大きく、形を変えながら神秘的に輝いていた。

──その、永劫の繰り返し。

 旅人の足跡は残らず、砂漠の風が全てを吹き消してゆく。
 不毛な砂漠では、人間の行いは全てが無意味で、儚く思えた。

 もう少しで満月になる月は、明るく夜の闇を照らしている。
 星々もまた、月と輝きを競い合うかのようにきらきらと光り輝いていた。

 宝石を散りばめたような夜空を見上げながら、1人で砂漠を散策していたシールウェは、ふと何かが足先に触れたので視線を落とした。

 それを見た瞬間、公子は息を飲み込み、その場から動けなくなった。

 それは、かさかさに乾き、生前の姿をずっと保っている死者の身体だった。

 遙か昔に死んだ者は、長い時を越えて硬く脆い石のようになっていた。
 シールウェの足が当たったところが、ぼろぼろと崩れて、中の石化した臓腑がはみ出す。

 死体も腐ることなく、風化するまで保存されていた。
 肩から腹部にかけて大きな傷がついている。
 恐らく、水を巡って争い、殺されたのだろう。

「ああ……」

 目の前の死に恐怖し、酔わされたようになりながら、公子はじりじりと後退した。

 と、その時、確かに死んでいるはずの死体の口から、くねくねと動く舌が伸びてきた。

 その不気味な動きから、視線をそらすことができない。
 シールウェは蒼白になった唇を喘がせながら、ただ立ちすくむことしかできなかった。

 舌はゆらゆらと揺れながら、ゆっくりと公子の方に近づいてきた。

 心臓が鼓動を止めそうになるほど恐怖を感じたシールウェは、悲鳴を上げそうになった。

 その瞬間、気配も無く近づいてきた者に、後方から抱きすくめられていた。

「動くな。──あれは無毒の蛇だが、動けば攻撃される」

 今にも気を失い、倒れてしまいそうなシールウェを、ラシールは強く抱きしめる。
 そして恐慌状態の公子を落ち着かせようと、耳元で静かに囁いた。

 見れば死体の口から滑り出てきた蛇が、ゆらゆらと鎌首をもたげ、2人を赤く光る目で睨んでいた。
 二股の舌が、ちらちらと炎のように閃く。

 やがて、彫像のように動かない人間に興味を失ったのか、蛇はオアシスの草むらの中へと姿を隠した。

 身体をがたがたと震わせながら、シールウェは死体を見た。
 ──それはもはや動かない。

 安堵のあまり脱力したシールウェは、ラシールに背後から支えられるようにして、ようやく立っていられるという有様だった。

「大丈夫か?」

 耳元でラシールの低い声を聞き、シールウェは思わず目を閉じていた。

「これは、きっと夢なのでしょう。
 ──あなたが、わたしの前にいるなんて」

 震える声でそう呟き、シールウェは頭をラシールの広い胸にあずけた。
 力強い鼓動が聞こえてくる。
 シールウェの閉ざされた双眸から、涙がこぼれ落ちた。

「夢ではない、シールウェ。だが、すぐにそなたを捜す者が現れるだろう」

 ラシールはシールウェの顎をそっと持ち上げると、その震える唇に口づけを落とした。

 流されてしまいそうな、甘やかな感触。

 シールウェは陶酔したように目を閉じていたが、はっと目を見開くと、ラシールの腕の中から逃れ出た。

「──いけません。こんなところを誰かに見られたら、恐ろしい事になる」

 シールウェはラシールの顔を見つめ、感情を殺した声で告げた。

「わたしは、皇帝の妃となるため、ヴァルーズに向かっているところです。
 もう二度と、あなたにお会いすることはできないでしょう」

 するとラシールは逞しい腕を組み、首をわずかに傾げて苦笑を浮かべた。

「わたしは、カルシアの公女を警護するためにここにいるのだ。
 公女ルシャリーン姫を、皇帝は妃として迎えることとなる。

 ──だが、どうしてそなたがここにいる?」

 ラシールの言葉に、シールウェの顔から血の気が引いた。
 そんな公子を、ラシールは表情を消して見返した。

「わたしの名はラシール。ダルヴァート帝国の親衛隊長だ。
 そなたがここにいるということは、カルシアは皇帝の命令に従わなかったということになるな」

 シールウェの翡翠の瞳は絶望に染まり、彼は一歩後ずさった。

「……そんな! あなたは、わたしを騙していたのですか?
 カルシアを滅亡させるために、わたしを利用したのですか?」

 シールウェの悲鳴のような言葉にも、ラシールは顔色を変えなかった。

「わたしがヤヴァシュを訪れたのは、カルシア併合のため。
 だが、そこで偶然そなたに出会った。
 わたしはそなたに魅かれ、そなたと約束したはずだ。
 ──あの塔から必ず出してやると」

 ラシールはそう言って小さく笑い、広大な砂漠を示して見せた。

「塔から出るのに、さほど時間はかからなかったであろう?」

「やめて! 全ては、あなたが仕組んだ事なのですね。

 あなたは、わたしと出会い、カルシアが姉上を差し出すはずがないと確信していた。 
 身代わりとして、わたしが遣わされることを見越していた。

 ……わたしのために、カルシアは滅びてしまう!!」

 シールウェはそう叫び、崩れるように砂の上に膝をついた。
 双眸から涙が溢れ、ぽたぽたと白い砂を濡らしていく。

 ラシールはシールウェの細い腕をつかむと、胸の中に引き寄せた。

「そなたを傷つけるつもりはなかった。
 ──そなたを愛しいと思う気持ちに、偽りはないのだ」

 声もなく慟哭するシールウェを強く抱きしめたラシールは、涙で濡れた頬に口づけ、激情のままに唇を重ねていた。

 シールウェは逆らうように暴れたが、その甘美な感覚に抗いきれなかった。
 しかし悲嘆にくれる心は、ラシールに惑わされた身体に抵抗した。

 その瞬間、シールウェは意識を失った。

 力を失ったシールウェの身体を抱いていたラシールは、深く重い嘆息を漏らした。
 確かに酷いことをしているという自覚はある。
 何も知らない無垢なる者を利用し、帝国の手駒として使ったのだから。

 冴々と輝く月を仰いだラシールは、閉ざされたシールウェの瞼に接吻をした。

 と、突然、 凄まじい殺気が吹き上がり、彼は驚くほどの力で突き飛ばされそうになった。
 身体が反射的に動き、長剣の柄に手が掛かる。

 驚愕したラシールは、しっかりと大地を踏みしめて立つシールウェを見返した。

「これ以上、吾に触れることは許さぬ」

 凍えるほどに冷たい緑玉の瞳で、シールウェはラシールを睨んだ。

「そなたは月の子に苦しみを与える者。言ったであろう、吾の前から姿を消せと」

 恐ろしいほどの圧倒的な存在感に、ラシールはキシュラ神殿で感じた違和感を覚えた。

 シールウェと同じ顔をしながら、まったく異なる者がそこに立っている。
 説明のつかない事態に戸惑いながらも、ラシールは冷静だった。

「──わたしを、西から来た獅子と呼んだな」

 シールウェであった者は、驚くほど優しい、しかし冷たい微笑を浮かべた。
 その微笑を肯定と察したラシールは、続けて問いを投げかけた。

「そなたは、何者だ?」

「吾は月神イディス。シールウェは、吾が地上に降臨するための器じゃ」

「イディス? キシュラではないということか」

「キシュラは数ある月神の総称にすぎぬ。
 吾は光のキシュラとして存在し、イディスと呼ばれる者。

 太陽の申し子よ、早くそなたの都に帰るがよい。
 そなたの足下で混乱の種が芽吹いた。
 シールウェは、カルシアのみならず、帝国にも乱を巻き起こすだろう」

 その時、オアシスの方から大声でシールウェを捜す声が聞こえてきた。

 ラシールは舌打ちをして、イディスを鋭く睨んだ。

「そなたがキシュラだろうが、イディスだろうが、そんな事はどうでもよい。
 わたしは必ずシールウェを手に入れてみせる。

 ──そなたはこのままヴァルーズに向かえ。
 親衛隊は、離れてそなたらを護衛している」

 イディスは少し驚いたように美しい双眸を見開き、ラシールを見つめた。
 それを恐れもなく見返し、ラシールは傲慢な微笑を口許に刻んだ。

「わたしが傍にいるということを忘れるな」

 獣のように素早く身を翻すと、ラシールは砂漠の闇の奥へと姿を消した。

 イディスは立ちつくし、天空の月を仰いだ。
 銀の光が身体を優しく愛撫する。
 まるで慰めるかのような静かな光に、月神はため息をついて胸を押さえた。

「──シールウェ、吾らがいれば、寂しくないであろう?
 どうしてそんなに嘆き悲しむ?

 そなたは決して人と交わってはならない宿命。
 異形であるそなたは、大公家の醜聞として闇に葬られる運命であった。
 だが、そなたは月神の巫女として生き長らえた。

 もし人と交われば、そなたの身は汚れ、存在理由は無くなってしまうのだよ」

 まるで自分自身に言い聞かせるように呟き、イディスはため息をついた。

「吾はカルシアの守護神。何があっても、カルシアを、シールウェを守ってみせる」

 空に浮かぶ銀月を見上げ、イディスは小さく独白した。