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後宮の月


第1章

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 しばらくすると、オアシスの方から足音が聞こえてきた。

「おい、こら。ずいぶんと捜したんだぞ。
 ──まったく、あんたはつくづく世話の焼ける公子様だな。
 ダルナーンが何と言っているか、知ってるのか?」

 木陰からヒルダーンが姿を現し、そう声をかけてきた。

 月神イディスによって意識を目覚めさせられたシールウェは、肩越しに振り返ってヒルダーンを見つめた。

「──出来損ない、魔性の者、化け物。数え上げればきりがない」

「よく知ってるじゃないか」

 ヒルダーンは尊大な微笑を浮かべ、否定もせずに公子に近づいた。

「まあ、取り柄があるだけましだな」

 付け足すように言った後、バイル族の戦士は公子の肩に無遠慮に手をかけた。
 強引に正面を向かせると、彼はシールウェの顔を指で持ち上げた。

 突然の事にシールウェは驚愕し、大きく目を見開いた。

「──おい、泣いていたのか?
 こんな死体で驚いてちゃ、皇帝の夜伽なんぞつとまらないぞ。
 覇気に満ちた獅子帝は、さぞかし夜の方も盛んだろうからな」

 緑の双眸が怒りに燃え上がり、シールウェはヒルダーンの手を払いのけた。

「わたしに触れるな、無礼者!」

「おっと、捜しに来てやった人間に言う言葉じゃないな、それは」

 にやにやと笑いながら、ヒルダーンは睨みつけてきた公子を可笑しそうに見つめていた。

「──黙れ。そなたとて、命を助けたわたしに狼藉を働いたではないか」

「それもそうか。じゃあ、これでお互い様だな」

 平然と言ってのけるヒルダーンを見て、シールウェは稀有な美貌に怒りを浮かべた。

 しかし言い争ったところで勝ち目はなく、それを悟った公子は足早にオアシスへと戻り始めた。

 その時、ヒルダーンは公子に言葉を投げかけた。
 それは何気ないものだったが、シールウェの心を貫くには十分であった。

「ダルナーンから聞いたんだが、あんた、キシェラムらしいな」

 シールウェはゆっくりと振り返ると、血の気の失せた顔でバイル族の男を見つめた。

「──あの男は、そなたにそれを話したのか?」

 ヒルダーンはすぐには答えず、公子に歩み寄ると、圧倒するようにその前に立った。
 華奢な公子を見下ろし、彼は残酷な微笑を浮かべた。

「酒の席でな。あんたの反応からすると、どうやら本当らしいな。
 噂には聞いていたが、確かに男にしては美しすぎる」

 キシェラムとは、月の守護を受けた者のことを意味したが、それと同時にキシュラ神の属性である両性具有をも意味した。

──男でもあり女でもある者。

 目眩を感じたシールウェは、逃れるようにヒルダーンから後ずさった。

「人目から隠すように幽閉されたのも、そのせいだろう?

 確かカルシアでは、キシェラムが生れると神官が子供をもらい受け、育てるはずだな。
 神官として育てられたキシェラムは聖者として崇められるが、そうでない者は、汚れた者として忌み嫌われる。

 町を歩けば石を投げられ、生活をするために春をひさぎ、ただの淫売と見なされる。
 キシェラムは魔性の身体で人々を誘惑し、堕落させるというからな。
 ──聖なるキシュラ神の闇の性、そうだろう?」

 シールウェの身体は小刻みに震え始めていた。

「カルシア大公家にすれば、たまらないだろうな。
 ニミラーンの聖血を受け継ぐ一族に、呪われたキシェラムが生れれば、幽閉どころか、殺害の誘惑に駆られても不思議じゃない」

 ヒルダーンの声は優しくさえ聞こえた。

 しかしシールウェは、男の残酷な言葉に胸がえぐられるような気がしていた。

 己が世間から隔てられた理由。
 ときおり訪れる父親や侍従から聞かされ続けた言葉。
 ──それは幼い子供の心を傷つけ、凍りつかせた。

「おまえは人を惑わす悪しき魔性の子なのだ。それゆえ人前に出すわけにはいかぬ」

 父親である大公ヴァラームは、訪れるたびにそう言った。

 呪文のようにすりこまれる言葉を、公子は信じた。
 それゆえに、シールウェはただ己を厭い、ひたすら安らかな死を願う事しかできなかったのである。

「……言うな、ヒルダーン。
 そんな事は、そなたに言われずとも、わたしが一番良く知っている」

 崩れそうになる身体を必死で支え、シールウェは呻くように言った。

 その瞬間、突然腕をつかみ取られ、あっという間に後ろ手に封じられてしまった。

 ヒルダーンは、もがく公子を易々と押さえ込み、白い顎をつかむと唇を押しつけた。

 シールウェは凍りついたように息を止めていた。

「口づけの仕方も知らないのか?
 そんなことじゃ、皇帝を喜ばすことなどできないぞ。
 まるで人形を抱いているみたいだからな」

 言葉すら出てこないほど屈辱を感じたシールウェは、怒りに身を震わせた。

 何故、この男にここまで侮辱されなければならない?

 ヒルダーンが手を放した途端、シールウェは男の頬を打ちすえていた。
 手が痛いほど痺れたが、全く動じていないヒルダーンを見ると、公子は拳を握りしめた。

 にやりと笑ったヒルダーンは、横柄な態度で腕組みをしてシールウェを見つめた。

「結局、あんたも人間だったわけだ。
 ずっと無表情だったから、本当に魔物かと疑っていたんだ」

 シールウェは訝しげに柳眉をひそめた。

「……そなたは不可解すぎる。早く、わたしの前から立ち去れ」

 顔をしかめたまま言うと、ヒルダーンは喉の奥で笑った。

「まあ、そのうちにな。今のところ、俺はあんたが気に入ってるんだ。
 興味が失せたら、どこへでも消えてやるさ。──さあ、とにかく帰るぞ」

 そう言い、ヒルダーンはオアシスの方へと歩き始めた。

 男の広い背中を見送ったシールウェは、深いため息をついた。
 
──全ては、砂漠の魔法が見せた夢だったのだろうか。

 だが、深く穿たれた心の傷からは、今も鮮やかな血が流れ出している。
 この痛みこそが、あれが現実であったのだと思い起こさせた。

 シールウェは唇を噛んで涙をこらえると、永遠の光を降り注いでくる星空を仰いだ。


 黎明が白い息吹を吹きつけると、暗黒の闇は去り、黄金の炎が上がってくるにつれて幾多の星は姿を消した。

 サマイア砂漠を抜けたカルシア公国の使者団は、ヘラン山岳地帯に入った。

 ヘラン山を越えればそこからは広大な平野が続き、5日もすればダルヴァート帝国の都ヴァルーズに到着するはずだった。

 狭く険しい山道を馬車で進むのは困難であるため、シールウェは大人しい白馬に乗り換えた。

 最初は風景を見渡す余裕もなく、ひたすら落馬しないように手綱を握りしめていた。
 しばらくすると、慣れない乗馬に緊張しながらも、シールウェは曲がりくねった山道を眺めることができた。

 右方は谷になっており、それは目が眩みそうな断崖だった。
 足を踏み外して落ちれば、命を失うのは明らかである。

 左方は巨石がごろごろと転がった急な傾斜になっており、その上の方には城壁のような岩壁が連なっていた。
 山手側には潅木が所々に茂みを作っている場所や、木々が密集している場所もあったが、荒涼とした岩地が多かった。

「気をつけろ。目を回して、落っこちるなよ」

 後方から馬を寄せてきたヒルダーンが、にやにやと笑いながらシールウェに声をかけた。

 シールウェは身体を緊張させたが、馬体が大きく揺れたため、慌てたように両手で鞍にしがみついた。

 そんな公子の様子を見て、ヒルダーンはからかうような調子で言った。

「乗馬は貴族のたしなみだろう?」

「わたしは馬に乗ったことがなかった。塔から出たことがなかったゆえ」

 シールウェが困惑したように答えると、男は不可解そうに眉をひそめた。

「俺は記憶がはじまった時から馬に乗っているからな。
 馬に乗れないってのが、いまいち理解できん」

「タクラン平野に住む者は、皆騎馬の民だと聞く。それは当然のことなのだろう」

 自分の無様な姿を恥ずかしく思い、シールウェは頬を赤く染めた。


 その時、鋭い雄叫びとともに、前方の木立から盗賊が襲いかかってきた。

 待ち伏せしていた山賊の出現に驚き、馬やラクダが嘶く。
 前後の隊列が乱れ、恐怖にとらわれた馬たちが暴走を始めた。

 狭い山道で足場も悪いため、道を外れると散開できない。

 不意を突かれた護衛隊ではあったが、すぐに公女を守るべく全力で応戦しはじめた。

 突然、シールウェの乗騎がけたたましい悲鳴を上げ、竿立ちになった。

 次に瞬間、シールウェは宙に放り出された。
 視界が反転し、頭から谷底に転落する。
 悲鳴を上げる間さえもなかった。

 ところが不意に身体が軽くなり、気づいた時には、山道から脇にそれた所にあった大きな岩の上に座り込んでいた。

 自分の身に何が起こったか理解できず、公子は目の前の光景をただ呆然と見つめていた。

 次々と斬り殺され、断崖から落ちていく兵士や馬を見て、シールウェは青ざめた。
 護身用の短剣しか持っておらず、戦闘経験の無い公子には、見ている以外為す術がない。

 長剣を抜きはなったヒルダーンは、襲いかかってきた盗賊を一刀の下に斬り捨てた。
 そしてシールウェを岩から引きずり下ろそうとする別の者の首を薙ぐ。
 首が撥ね飛び、鮮血が勢いよく吹き出した。

 返り血を頭から浴びたシールウェは、その瞬間、汚れのない天空を仰いだ。

 鬼神のごとき勢いで山賊たちを斬り伏せ、飛来する矢を薙ぎ払っていたヒルダーンは、凄まじい血臭に酔わされ、岩の上で失神した公子を見て舌打ちした。

「──まったく、手がかかる!」

 忌々しげに罵ったヒルダーンは、次に戦斧を持った賊を相手取った。
 その男は今まで闘ってきた者たちよりも遙かに腕がたち、さすがのヒルダーンも一撃で倒すことができなかった。

 刃のぶつかる鋭い金属音が響き渡り、練達した馬術でヒルダーンは足場を変える。
 猛烈な一撃をかわして戦斧に空を切らせると、敵の馬の腹を蹴り飛ばして態勢を崩させた。
 そして前方にのめった盗賊の首筋に斬撃を叩き込む。

 盗賊の大きな頭は地面に落ちると、崖の下へと転がり落ちていった。

 ヒルダーンが荒くなった呼吸を整えていると、すぐ傍を一頭の馬が駆け抜ける。

 それは、盗賊の1人が公子の身体を奪い取り、逃亡していく姿だった。

 呪いの言葉を吐いたヒルダーンは、襲いかかってきた盗賊の心臓を一撃で貫くと、血しぶきとともに長剣を引き抜いた。



 シールウェをさらった山賊は、脇目もふらず馬を走らせていた。

 有利な地形を選んだにも関わらず、カルシアの護衛隊は手強い相手だった。
 まともに正面からぶつかっていたら、恐らく勝ち目はなかっただろう。

 特に、あのバイル族の戦士は怪物のように強かった。
 腕に覚えのある男たちが、まるで子供のようにあしらわれ、次々に殺されていったのだ。
 思い出すだけで冷や汗が出てくる。

「……へへ、だが、公女は頂いたぜ。報酬は俺のもんだ」

 あの凄まじい戦闘の中で、それでも公女を拉致することに成功したのだ。
 莫大な報酬をもらわなければ、割に合わない。

 やがて、山道が大きくひらけた岩場が見えた。
 そこに十騎ほどの騎影が見える。
 中央にいることさら威圧的な風貌をした男が、太い腕を組んで彼を待ちかまえていた。

 城壁のような岩壁に囲まれた広場に入ると、盗賊は失神したままの公子を地面に下ろした。

 仲間のもとに戻れたと安堵した途端、どっと額から汗が流れ落ちてきた。

「これがカルシアの公女か。噂には聞いていたが、まさしく月をも凌ぐ美しさだな」

 倒れ伏したシールウェを見下ろし、首領が心底感嘆したように叫んだ。

「生きたまま連れて来いというのが条件だ。犯してもいけねえ。
 綺麗なまんまで雇い主の所に連れて行けば、金貨千枚は確実だ!」

 眉間から左の頬にかけて大きな傷を持つ首領は、部下に公子を縛り上げるように命令した。

 1人の盗賊が、縄を持って地面に降り立ち、ぴくりとも動かない公子に近づいた。

 その瞬間、風を切って唸りを上げる一本の矢が突然飛来し、盗賊の眉間を貫いた。

「──がはっ!」

 眉間から後頭部まで矢を貫通させた盗賊は、矢の勢いで吹き飛び、どさりと地面に倒れた。

 そのとてつもない強弓に盗賊はざわめき、姿の見えない敵に動揺した。

「誰だ! どこにいる。姿を見せなければ、この女の命はねえぞ!!」

 首領の右隣を固めていた男が、危険を悟り、シールウェの喉元に短剣をかざした。

 しかし叫び終わったと同時に、男の口腔に矢が突き抜けた。

 盗賊は血を吐き出しながら後方に仰け反って倒れ、持っていた短剣が地面に落ちる。

 凄まじい光景を見て、残虐非道な追い剥ぎを生業にしていた盗賊も浮き足だった。