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後宮の月


第1章

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「うろたえるな、てめえら!」

 右往左往する男たちを睨み、首領が雷鳴のような声で怒鳴った。
 彼の顔は怒りで赤く染まり、その恐ろしい形相に、近くにいた男たちは震え上がった。

 すると、凄惨な場所には似合わないのんびりとした声が、突然その場に響いた。

「そいつに手を出さないでもらおうか」

 一瞬、岩場がしんと静まりかえった。
 盗賊たちは、矢が飛んできたのとは全く違う方向に視線を巡らせた。

「貴様は、バイル族のヒルダーン!」

 首領が大声で叫んだ。

 ヒルダーンは馬上で優雅に一礼してみせ、口許に不敵な微笑を刻んだ。

 シールウェをさらった盗賊は、悠然と馬を進めてきた辺境の戦士を見て、身体中から血の気が失せるのを感じた。
 そこに立っているのは、先ほど命からがら逃げ出してきた悪夢の化身だった。

「──覚えていただいて光栄至極。
 おい、クルンガ。あんた、兄者から、俺を殺すように命令されてたはずだろうが。
 てっきり、サマイア砂漠で諦めたと思ってたんだがね。
 どうして俺ではなく、カルシアの連中を狙ったんだ?」

 愉快そうに訊ねたヒルダーンは、地面に倒れているシールウェにちらりと視線を走らせた。
 その傍らに二つの死体を認め、彼は不審そうに首を傾げた。

 巨大な三日月刀を引き抜いた首領は、赤髭に覆われた口を大きく開けて、哄笑を放った。

「貴様の首には金貨三百枚。
 だが、ルシャリーン公女を捕えれば、膨大な金貨や宝石が手に入る。
 貧乏暮らしのバイル族よりは、抜群に良い取引相手だからな!」

「そう上手くいくか、阿呆め。
 あんたの手下なら、カルシアの護衛兵に皆殺しにされていたぞ。
 残っているのは、そいつだけだ」

 冷たく嘲笑うように唇の片端をつりあげ、ヒルダーンは公子をさらった盗賊を、顎でしゃくって示した。

 顔をしかめたクルンガは、公子を連れてきた男をぎろりと睨んだ。

 その恐ろしい眼光に、男は心底怯えて頷いた。

「──役立たずめ」

 首領は、火を吹き出さんばかりの双眸で手下を睨みつけ、大刀を振り上げると、驚愕で口と目を見開いた男の頭を叩き割った。

 血と脳漿が飛び散り、周りにいた盗賊たちも、思わず呻き声を上げた。

「おやおや、気の短いことで」

 愉快そうにヒルダーンは笑うと、クルンガは血刀から露を払い、憎悪を込めて睨みつけた。

「やかましい! それより、この矢を射たのは貴様か、ヒルダーン!!」

「何の事やら、さっぱりだ。
 確かに俺は弓の天才だが、とんと身に覚えがない。
 天罰じゃないのか、やっぱり。
 散々悪さをしてきた報いを受けたんだろう」

「戯れ言をぬかすな! こうなれば、貴様の首をバイルの族長に送りつけるまでよ!!」

 そう叫んだクルンガは、手下の2人に公子を連れて行くように命じると、三日月刀の先をヒルダーンに向けた。

「あの小うるさい狐を叩きつぶせ!」

 首領の合図を受けて、盗賊たちが一斉に襲いかかってきた。

 しかし囲まれないようにことさら狭い山道を足場に選んだヒルダーンは、素早く矢を放って何人かを倒すと、後は向かってくる敵を長剣で倒すことに専念した。

 その時、まるでヒルダーンを援護するかのように、上空から遠矢が盗賊たちに降り注いだ。

 矢に貫かれて倒れたものもいれば、馬が暴走して落馬する者もいる。

 1人ずつ、せいぜい2人だけを相手にしながら、ヒルダーンの剣は確実に盗賊たちの命を奪っていった。

 彼の斬撃に耐えうる者はおらず、一合で斬り伏せられていった盗賊たちは、皆谷底に転がり落ちていった。

 最後に首領クルンガと対することになったヒルダーンは、精悍な顔に微笑を浮かべた。

「さあ、どうするね?
 どうやら神々は俺の味方らしい。逃げるなら、今のうちだぞ。
 俺は寛大だからな。負け犬は相手にしないことにしてるんだ」

 露骨な挑発であったが、クルンガの頭は血で沸騰した。
 巨大な三日月刀を振りかざすと、クルンガは雄牛のごとき勢いで襲いかかった。

 唸りを上げて襲ってきた大刀を弾き返したヒルダーンは、鋭い一閃を放った。

 しかしクルンガの剣に激突し、火花が散る。
 素早く離れた剣は再び交差し、耳障りな音を生み出した。

 凄まじい戦いに両者の馬が竿立ちになり、お互いの刃が空を斬った。

 先に体勢を立て直したのはヒルダーンだった。

 ヒルダーンは両手で長剣を唸らせると、首領の太い利き腕を斬り飛ばし、そのまま勢いの衰えぬ剣で首を断った。

 鈍い音がして、クルンガの首が地面に落ちると、ゆらゆらと揺れていた巨大な体が地響きを立てて崩れ落ちた。

 その途端、クルンガの馬が驚いて前脚を跳ね上げた。 
 手綱に素早く腕を伸ばして引き寄せると、ヒルダーンは穏やかな声で馬を落ち着かせた。

「──やれやれ、やっと終わりか」

 全身に返り血を浴び、ヒルダーンは立ちこめる血臭を嗅いで鼻に皺を寄せた。
 彼は首領の馬を連れて、広い岩場の中央へと進んだ。

「おい、もう出てきたらどうだ?」

 馬に乗ったまま、ヒルダーンは周囲を取り囲む岩壁を見上げ、よく響く声で叫んだ。

 すると垂直に切り立った岩壁の上に、見事な黒馬に乗った騎影が姿を現した。

「──見事な戦いぶりであった。さすがは世に名高いバイル族の戦士」

 返答する声は威厳に満ち、周囲を威圧するかのような覇気に満ちていた。

 ヒルダーンはすっと双眸を細めると、逆光で顔の見えぬ相手に訊ねた。

「あんたが矢を放ったのか? さっきの援護もそうだろう。
 ──何者だ、いったい?」

「我々はダルヴァート帝国の親衛隊。
 カルシアの公女が無事にヴァルーズにたどり着けるよう、護衛をしている。
 ここで我々は護衛隊に合流する」

 合図をするように騎士は片手を上げた。
 するとその後方で馬蹄の音が響く。
 黒馬の騎士は馬首を返し、崖の上から姿を消した。


 岩の間からはえていた枯れ木に二頭の馬を繋いだヒルダーンは、長剣を鞘に納め、巨大な岩に寄りかかっている公子の前に跪いた。

 血の気が失せた白い頬を、ヒルダーンは軽く叩いてみる。

 すると瞼が震え、鮮やかな緑玉の瞳が開かれた。

 顔まで血を浴びたヒルダーンを見て、一瞬怯えたように身をすくませたシールウェは、その後安堵したようにため息を漏らした。

「──わたしは、生きているのか」

「まあそういうことだ。まったく、少しは自分の身を守ることぐらい覚えたらどうだ?」

「わたしは存在しない者として扱われてきた。
 それゆえ、誰からも身を守る必要などなかったのだ。
 ……わたしが護身を考えたのは、そなたに襲われた時が初めてだった」

 額に流れ落ちてきた黒髪をかきあげたシールウェは、その手にべったりと血がついていることに気づいた。
 思わず双眸を見開き、唇を振るわせて公子はその手を握りしめた。

「誰からもせまられたことがないなんて、なんとも寂しい人生だな」

 シールウェの皮肉にも動じず、ヒルダーンは不敵な微笑を浮かべていた。

 初めて目の当たりにした殺戮に動揺し、シールウェは深い悲しみに襲われていた。

 あまりにも呆気なく生命が失われた。
 いつも死を願っていたにも関わらず、シールウェはその生々しい「死」を初めて実感していた。

──「死」の幻影と現実。

 現実に起こる「死」は、かつて思い描いていたような美しいものでは決してなかった。

 苦悩しているシールウェをしばらく見つめていたヒルダーンは、突然公子の顎を指で持ち上げると、不穏な事を企んでいるような顔つきになった。

「さて、殿下。報酬をいただこうか」

「……報酬?」

 驚愕したシールウェが聞き返すと、ヒルダーンは当然だと言って頷いた。

「あんたの命を助けてやっただろう?」

 途端に、シールウェは優美な弧を描く眉をひそめた。

「わたしも、そなたの命を救っただろう?」

「そうか。じゃあ、あんたにも報酬が必要だな」

 シールウェの耳元でそう囁いたヒルダーンは、低い笑い声を漏らした。

 と、ヒルダーンは公子の身体を岩に押しつけるようにし、その紅珊瑚のような唇を奪った。
 驚いてもがくシールウェを抱きとめたまま、ヒルダーンは不遜な笑みを浮かべていた。

「報酬だと言っただろう?」

「報酬なら、もっと別なものに……。離れよ、ヒルダーン!」

 身をよじらせる公子を再び岩場に押しつけたヒルダーンは、目の高さを同じにすると、狼のように精悍な顔に魅惑的な微笑を浮かべた。

「嫌だね。これほどの美形には、もはや二度と出会うことはないだろうからな」

 その言葉に、シールウェは身を硬直させ、呆然としてヒルダーンを見返した。

 唇が再び重ね合わされる。

 あまりにも強く抱きしめられていたため、公子は抵抗することができなかった。
 呼吸すら満足にはできなかった。

 ゆっくりと、甘やかな唇を味わうようにして、ヒルダーンは口づけを繰り返した。
 奇妙な倦怠感に包まれたシールウェは、身体の力が抜けていくのを感じていた。

 美しいシールウェの顔に散った血を清めるように口づけし、舐めとっていたヒルダーンは、突然厳しい表情になると、背後を振り返った。

 微かな馬蹄の音が聞こえ、鈴をつけたラクダの一行が向かってくる音が聞こえてきた。

「せっかく良いところだったのに、邪魔しやがって」

 低く罵声を吐いたヒルダーンは、接吻の余韻で震えている公子の腕を取り、強引に岩場から引き起こした。

「仕方がない。この続きはまた今度だな」

 ヒルダーンはからかうような口調でそう言うと、繋いである馬の手綱を取り、駆け足で向かってくるダルナーンに手を振った。

「こっちだ、ダルナーン殿」

「──おお、ヒルダーン。殿下!」

 急いで馬を寄せてきた護衛隊長は、血塗れになりながらも立っている公子の姿を認めると、その足下に跪いた。

「──申し訳ございませぬ。ご無事でよかった」

 ダルナーンにならい、次々に跪く護衛隊を、シールウェは驚いたような眼差しで見つめた。

 あの激戦を必死で戦ったのは、祖国カルシアの名誉ため。
 そして騎士としての誇り。
 だが、彼らは命がけでシールウェを守ろうと戦ったのだ。

「わたしに跪くことはない、ダルナーン。
 返り血を浴びたが、この通りわたしは無事だ。
 ──皆のおかげだ」

 シールウェは穏やかな口調で語りかけるように言った。

「……我々だけでは、盗賊を撃退し、殿下をお守りすることはできなかったかもしれません」

 ダルナーンは悔しげな表情を一瞬見せると、後から馬を進めてきた一団を振り返った。

 十数騎の見慣れない騎兵が地面に下り立ち、堂々とした歩みで近づいてきた。

「ルシャリーン殿下。ダルヴァート帝国親衛隊副隊長シャーラーン殿をご紹介いたします。
 我々が苦戦しているところを、シャーラーン殿の部隊に援護していただきました」

 ダルナーンの言葉に驚き、シールウェはシャーラーンを見上げた。

 黒褐色の肌をした長身の偉丈夫は、厳つい顔に人好きのする微笑みを浮かべ、跪いた。

「初めて御意を得ます、ルシャリーン殿下。
 ファザイア陛下より、我々親衛隊が殿下の護衛を仰せつかりました。
 これより、帝都ヴァルーズまでご案内いたします。
 どうかお許しいただきたい」

 シールウェの足下に片膝をついたシャーラーンは、恭しく公子に頭を下げた。

 親衛隊という言葉を聞き、シールウェは心臓がずきりと痛むのを感じた。
 言葉にはできないような悲しみが込み上げてくる。
 しかし公子は感情を抑えこみ、淡く微笑みを浮かべた。

「どうぞお立ちください、シャーラーン殿。
 助けていただいたのはわたくし、お礼を申さねばならぬのもわたくしなのですから」

 シールウェはカルシアの護衛隊、そしてダルヴァート帝国の親衛隊を見渡すと、誰もが魅了されずにはいられないほど透明で美しい微笑みを浮かべた。

「──皆さん、本当にありがとう。
 わたくしが今こうして無事でいられるのは、全てあなた方のおかげです」

 美しすぎる公子の微笑を間近で見た者は、かつて1人もいなかった。

 そのため、あまりにも優美な微笑は、彼らに大きな衝撃をもたらした。
 驚愕し、感動した騎士たちはぽかんと口を開けたまま、美しい公子を見つめていた。
 魂すら抜き取られそうな艶やかな微笑は、彼らの心を大きく揺るがし、浸透していった。

 その様子を端の方で見守っていたヒルダーンは、唇に皮肉めいた微笑を刻んだ。

「やれやれ。どうやら一気に難攻不落の砦が出来上がったようだな」

 低く呟いたヒルダーンの声に、憂慮はまったくなかった。
 むしろ面白がる響きさえある。
 危機や苦難をすべて喜劇にしてしまう男は、この時もまた、新たな展開が生じたことを、心の底から歓迎していたのだった。