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AlluringDoll


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 表通りから一本入り込んだ路地の角に、喫茶店「KATZE(カッツェ)」はあった。

 マスターの丹波が脱サラ後、それまでの趣味が高じて始めたという喫茶店は、毎日、近所のオフィスビルに勤めるサラリーマンやOL、大学生などで賑わっていた。

 ランチタイムには、マスター手作りのランチセットも食べられるため、主婦たちの人気スポットでもあるらしい。

 その日、聖マリア総合病院で産婦人科医をしている前嶋薫と、ニューハーフパブ「クリスタルローズ」で働く友人の真那の2人と、零はランチタイムに待ち合わせをしていた。

 真夏のように蒸し暑い正午時、長袖のチャイナカラー・シャツに生成色の麻のパンツという姿で「カッツェ」に現れた。

「──どうしたの、零ちゃん? この死ぬほどくそ暑い日に長袖なんか着ちゃって?」

 椅子にジャケットは掛けてあるものの、目のやり場に困るほどバストがくっきりと浮かぶ赤いタンクトップ姿の薫が、零の格好を見てそう訊ねた。

「えっと……ちょっと風邪っぽくて──」

 少し困ったような、曖昧な微笑を零が浮かべると、これまた薫と似たり寄ったりの格好をした真那が、心配そうに零を見上げた。

 レースがふんだんに使われた黒のキャミソールから、形の良いバストの谷間が見えている。

「え〜、大丈夫、零ちゃん?
 季節の変わり目は体調崩しやすいから、気をつけなきゃだめよぉ。
 暑いからってクーラーかけすぎてると、身体冷えちゃうし〜。
 お肌も乾いちゃうから、あんまり良くないのよねぇ」

 誰が見てもフランス人形のような美少女に見える真那であったが、遺伝子的にはれっきとした男性体、いわゆる「ニューハーフ」と呼ばれる人々の一人であった。

「風邪って、零ちゃん、熱でもあるの?」

 円形テーブルの空いている席に座った零を見やり、薫が首を傾げた。

「そ…そういうわけじゃないんですけど──ちょっと身体がだるいと言うか……」

 次第にしどろもどろな口調になり、微かに頬を赤らめた零を見返し、薫は片眉をつり上げた。

 その時、マスターの丹波が注文を取りに現れた。

「──零ちゃん、疲れてるんじゃない? 何だか顔色悪いよ」

「大丈夫ですよ、マスター。
 昨日、夜更かししたせいで風邪引いたみたいですけど、すぐ治りますから。
 ──あ、私もランチセット……ドリンクはアイス・カフェオレでお願いします」

 丹波がキッチンに戻っていくと、零は思わずため息をついていた。

 長袖を着て来た理由も、ちょっと体調不良な理由も、さすがに真実を話すわけにはいかない。

 気を失ってしまうほど、ほとんど夜を徹して行われた激しい情事を思い出した零は、知らず目元を淡く染めながら、視線をテーブルに落としていた。

(……海琉のバカ──縛りっぱなしだったから、痕が残っちゃったよ……)

 シャツの袖を上げると、ロープで縛りつけられていた縄目の痕が、くっきりと鮮やかに残ってしまっていた。

 こんな状態で外出するのは憚られたが、薫と真那と一緒にランチをすることは以前からの約束であったため、零は手首を隠すような服装で出てきたのである。

「零ちゃん──ちょっと顔を見せて……ついでだから、診てあげるわよ」

 主治医でもある薫にそう言われ、零は躊躇いながらも、うなずいていた。 

「……熱は無さそうね」

 双眼の結膜を確認し、リンパを触診し……額に片手を当てた薫は、為されるがままになっている零の片手を取り上げ、脈を確認するように手首を押さえた。

 だが──零があっと思った瞬間には、薫はシャツの袖をまくり上げてしまっていた。

「──やっぱり……零ちゃん、ま〜た、海琉に縛られちゃったわけ?」

 それまで真面目な顔をしていた薫の顔にしてやったりというような表情が浮かび、そして呆れたような微笑みが唇に広がった。

 慌てふためきながら、零は縄痕を人目から隠すように袖を下ろしていた。

「か、薫さん! 騙しましたね!?
 それに……『また』って言うの、止めてください!
 私が、いっつもこんな事しているように聞こえるじゃないですか……」

 恥ずかしさのあまり涙目になり、零が薫を恨めしげに睨むと、真那がおっとりとした調子で笑い出した

「でもぉ、『また』って事は、以前にもあったって事でしょ〜?」

「酷いよ、真那まで……。
 そ…そんな事……こんな所で言えるわけないよ……」

 穴があったら入りたいとさえ思いながら、零は顔に朱を走らせた。

「真那ちゃ〜ん、零ちゃんを虐めちゃダメよ〜。
 ただでさえ海琉に虐められちゃって、疲れ果ててるんだから」

「ええ〜っ、最初に言い出したの薫先生じゃないですかぁ」

 拗ねたように、可愛らしく唇を尖らせた真那は、身を縮めるようにしてうつむいてしまった零を見やり、慌てて言葉を続けた。

「で、でもぉ、痕になるほど縛っちゃうなんて、鷲塚さんも酷いよねえ。
 あの人、やっぱ見かけ通り、Sなんだね〜」

「海琉はれっきとした、生粋のサドよ。
 でも、最近は縛りプレイがお好みなのかな〜、よく縛られてるわよね、零ちゃん」

 あはは……と屈託なく明るく笑った薫を見上げ、零はぷるぷると首を横に振った。

「そんなに縛られてません!
 そりゃあ、昨日はちょっと……お仕置きだって……」

 口の中で言葉を濁した零を見つめ、薫と真那はお互いに顔を見合わせると、にんまりとルージュの塗られた唇をつり上げた。

「お仕置きって、また何をしでかしちゃったの、零ちゃん?」

「そんな大した事、してないですよ……ただ、窓拭きをしてただけだもの」

 薫の問いに零が答えると、真那が怪訝そうに眉根を寄せた。

「──窓拭き? それとお仕置きと、どういう関係があるのぉ?」

 真那に訊ねられた瞬間、零は深いため息をもらしていた。

「それがさ……実は、私もよく判らないんだよね」

 昨日の出来事を思い巡らすように、零は小首を傾げていた。


 雨が3日間続いた日の翌日、久しぶりに気持ちよく晴れたということもあって、零は朝から部屋の掃除に大忙しだった。

 玄関から掃除機をかけ始め、鷲塚の書斎、客室、主寝室、そしてキッチンやダイニングルームへと続いていく。

 最後にリビングルームを掃除し終え、鉢植えの木々に水をやった零は、一人で昼食を食べながら、ふと広大な窓ガラスを見つめた。

 部屋が超高層マンションの54階にあるということもあって、広大な窓ガラスは全て嵌め殺しにされている。

 そのため、外側のガラスを拭くのは専門の業者であり、1週間に1度、定期的に窓ガラスのクリーニングがされていた。

 しかし内側までは頼んでいないため、汚れに気が付いた時、零はできるだけマメにガラスを乾拭きするようにしていたのだった。

 べたべたと手垢をつける子供がいるわけではないため、それほど目立つ汚れが付着するわけではないのだが、それでもガラスは徐々に曇ってくる。

(……お天気も良いし、久しぶりに全部、拭いちゃおうかな〜)

 広大なリビングの窓ガラスを端から端まで拭いていくと、それだけで結構な運動量になる。

 鷲塚の身長に合わせるように天井も高いため、踏み台に昇らなければ、上の方までは手が届かなかった。

 一大決心をした零は、動きやすい格好に着替え、窓の大掃除に乗り出したのであった。