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Short Story


1.お風呂



 仕事でいつも多忙な鷲塚と違い、最近の零の生活は、以前とは比べものにならないほどのんびりしたものになっていた。

 一日中アルバイトに明け暮れていた日々が夢のように思えるほど、朝起きて夜に眠るという生活が日常化しつつある。

 食事を作ったり、掃除や洗濯をしたり、買い物に行ったり──仲良くしている薫に言わせると、まさしく「専業主婦」的生活を送っている零であったが、日々のペースをつかんでしまうと、後は自分一人の時間が残されることになった。

 そして、その日、鷲塚が出張で2日ほど家を留守にしていたため、零はいつもよりゆっくりとした朝食をとりながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

(──今日は何をしよう……海琉が帰って来るのは明日だし……)

 夜になってベッドに入る時、鷲塚の存在がないのは寂しかったが、しかし最近では、鷲塚がいない時にしかできない事をしようと心に決めていた。

 一人暮らしをしている真那を呼んで一緒に夕食を食べたり、近所にできたレンタルビデオショップで見損ねた映画を借りてきたり、鷲塚が絶対に見ないようなテレビドラマを見たり、好きな音楽を聴きながら本を読んだり……。

 探してみると案外に<できない事>というものは多く、暇を持て余してしまうということはあまりなかった。

 しかし人に囲まれた生活を長らく送ってきた零にしてみれば、時々は会話を求めて外出したくなる時もある。

 以前働いていた喫茶店<カッツェ>に時々アルバイトにでも行こうかと考えた事もあったが、それを鷲塚に話した瞬間、完全に逆鱗に触れたようで、その話は立ち消えになった。

(マスターからお料理教えてもらえるし、お喋りもできるし……結構楽しいのに。
 別に<クリスタル・ローズ>で働くって言ったわけじゃないのに、どうして海琉はあんなに怒ったんだろう?)

 鷲塚にしてみれば、白いフリルのエプロン姿で零が客に愛嬌を振りまく──その事自体に許せないものを感じているのだが、当人は全くその事には思い至っていなかった。

 毎日ではないし、本当に時々昼間に出かけるだけなのだから、二人の生活に支障が出る事はないといたって呑気に考えている。

 それを口にした途端、最初は「ダメ」と素っ気ない態度を取っていた鷲塚は、どうやら神経がブチっと焼き切れてしまったらしく……その後の事は思い出したくもなかった。

 ところが、ついつい細部に至るまで明瞭に思い出してしまった零は、誰もいないはずのダイニングで一人慌てふためく。

 火を吹くほどに頬が熱くなり、脳裏に浮かび上がった淫らなヴィジョンを打ち消そうと、零はぱちぱちと両手で顔を叩いた。

 その後、何故だか急にどっと疲れてしまった零は、リビングのソファに置いてあった新聞に目を通し始めた。

(あっ……「SMAP×SMAP」だ。ビストロスマップ見たいな〜)

 フジテレビの人気番組をテレビ欄で見つけ、思わず真剣に読んでしまった零は、その瞬間、にっこりと明るい笑顔になった。

 午後10時から始まる「SMAP×SMAP」は、いつも見られるかどうか判らない微妙な時間帯であったが、鷲塚がまだ帰っていない時、零は一人で見ている事が多かった。

 ビストロスマップのレシピ集も、新刊が出るたび、つい手を伸ばしてしまう。

 「SMAP」が好きというより、面白い料理番組という感覚で零は見ているのだが、どうやらこの番組は鷲塚のお気に召さなかったらしい。

 ある時、鷲塚が帰ってきた事にも気づかないほど、零は夢中で「木村シェフ」の手元に見入っていた事があったのだが、何故かいきなり電源を切られてしまった。

「海琉は、キムタク嫌いなの?」

 夕食時の会話で訊ねてみると、鷲塚は訝しげに片眉をつりあげた。

「別に──どうしてだ?」

「だって、この間、すっごくいい所でテレビ切っちゃったでしょう?
 だから嫌いなのかなあって思って」

 思い出したように「ああ」と呟いた鷲塚は、軽く肩をすくめた。

「好きでも嫌いでもないが、おまえはどうなんだ?」

「うーん、結構好きかな。格好いいなあって思うもんね」

 その時、鷲塚のこめかみが微かに引きつった事に気づいてさえいれば、その夜酷い目に合うこともなかったはずである。

 しかし、いつも肝心な所で間が抜けている零は、いかに「ビストロスマップ」が面白いかを、鷲塚に延々と宣伝してしまったのだった。

 そして、その後の事は──やっぱり思い出したくなかった。

 その事件(?)の後、鷲塚は「SMAP」が嫌いらしいと完全に誤解をした零は、鷲塚がいない隙を見計らうようにして、こそこそと「SMAP×SMAP」を見ているというわけであった。



 前々から作ってみようと思っていた「ビストロスマップ かならずできる!!レシピ」を引き出し、そのメニューを夕食にした零は、一人きりで過ごしているわりには満ち足りた気分になっていた。

 鷲塚の帰宅時間を気にしなくてよいため、いつもより早めに夕食を食べ、片づけを終わらせてしまうと、後はテレビを見て、お風呂に入って、ベッドに入るだけという状態である。

 お気に入りのティーカップに紅茶を入れ、日頃はドキドキしながら見ている番組を落ち着いた気分で見られるのは──少々罪悪感を覚えはしたが、何だか幸せと言えた。

(海琉は入浴剤入れるの嫌がるけど、今日は何か入れちゃおうっと)

 入浴剤の香りが身体に残るのことを嫌う鷲塚とは対照的に、零はほとんど「入浴剤マニア」というほど様々な種類の入浴剤を集めている。

 一般的な温泉入浴剤から始まって、ドラッグストアに個別包装でしか売っていないものまで、目新しいものを片っ端から買い込んでいた。

 アルバイト時代には入浴が唯一の楽しみであったのだから、その日の気分によって入浴剤を変える事は、零にとってはささやかな贅沢であった。

 CMの合間に、入浴剤が入っている箱をリビングに持ってきた零は、ごそごそと中身を確かめるように覗き込んだ。

 バラやラベンダーの香りがするバスオイルや、ハーブとミックスされたバスソルト、バリ島エステ風呂まで、使い切れていないものが山ほど残っている。

(……つい新しいのを買っちゃうから、増えていく一方なんだよね)

 鷲塚不在時だけの限定使用、そうなると、これら全てを使い切るまで、果たしてどれぐらいの日数を要することになるのだろう。

 思わず苦笑をした零は、ふと、最近真那からもらった入浴剤を手にした。

 その名も「冷え性改善 生姜風呂」というものである。

 特に冷え性というわけではなかったが、「もの凄く発汗作用があって、温まるよ〜」と言っていた真那の言葉を思い出し、今夜はそれにすることにした。

 生姜風呂と言うからには、とても鷲塚が気に入るような香りではないだろう。

 こういう時にでも使っておかなければ、しばらくは絶対に使えないに違いない。

 ふと裏の注意書きを見ると、「顔や髪は洗わないでください。水面で臭いを吸い込まないようにしてください」と書いてある。

(──いったい、どんな臭いなんだろう)

 思わず疑惑に駆られ、そして興味を引かれた零は、テレビを見終わると、そのままバスルームへと向かった。

 洋服を脱ぐ前にバスタブに黄色い粉を振りまいた零は、湯気と共に上がってきた臭気に、思わず仰け反っていた。

 かつて一度も嗅いだ事がないほど、それは強烈な臭いだった。

「うわっ……臭いかも──でも、いかにも効きそうだよね」

 思わず呟いていた零は、鷲塚がいない事を心底安堵しながら、硫黄温泉に勝るとも劣らない独特の臭いのするバスタブに入った。

 確かに真那の言う通り、身体の芯からポカポカと温まりはしたが、バスルーム中に漂う臭いはお世辞にも良い香りとは言えなかった。

 異様な臭いが壁に染みこむことを恐れ、早々にバスタブを洗ってしまった零は、換気扇を回しつつ、バスルームのドアを大きく開け放つ。

(夜景は綺麗なんだけど……こういう時に窓が開けられないって、不便だよねえ)

 地上から遠く離れた高層マンションでは、空気の入れ替えようと思っても全て換気扇に頼るしかなく、庶民的木造アパートに住んでいた零としては少々不満であった。

 誰から贅沢と言われようが、使い勝手が悪いのは事実である。

 しかし入浴剤を使わない鷲塚なら必要ないのかと思い直し、零は12時前にはベッドに入ってしまった。

 身体が温まっていたせいで、急速に睡魔が襲ってくる。

(──海琉は……まだ起きてるのかな)

 布団の中で小さく欠伸をした零は、セピアの瞳を閉ざすと、そのまま安らかな深い眠りに引き込まれていった。


 それからどれぐらいの時間が過ぎたのか、零は額に触れる優しい指先を感じた。

 身体は眠りに支配されて重く、恐らくこれは夢なのだとぼんやりと思う。

 枕に埋めた顔を撫で、耳の後ろに指を差し入れるようにしながら、そっと上を向かされた。

 ──これが夢なら、きっと次には優しいキスが落ちてくるはずで……。

 無意識のうちに微笑んでいた零は、唇に触れる指先を感じ、誘うようにわずかに口を開いた。

 ため息のような吐息が聞こえ、身体を屈めるような気配がする。

 ところがいつまでたっても唇にキスはもたらされず、その替わり、ひどく怪訝そうな声が上から降ってきた。

「零──おまえ、かなり臭いぞ」

 ロマンティックな愛の囁きには程遠く、その言葉にわずかに覚醒した零は、しかし落胆と共に再び眠りに引き込まれそうになっていた。

「ん……生姜──おやすみ、海琉……」

 寝ぼけた声でそう呟くと、零は枕を抱き締めるように寝返りをうち、そのまますやすやと寝息を立て始めた。

「──ショウガ?」

 謎めいた言葉だけでは、さすがの鷲塚にも真相が判らない。

 しかし、わざわざ仕事を早めに切り上げ、予定より半日早く帰宅した鷲塚は、満ち足りたように眠り込んでいる恋人を複雑な表情で見下ろした。

「こら、『おやすみ』じゃないだろう。
 そんな臭い身体でベッドに入られたら、俺が眠れなくなるだろうが」

「だって……お風呂入ったし……もう眠いんだもん。
 面倒だから──また明日ね……」

 ふにゃふにゃと駄々をこねるように寝言のような言葉を返した零は、しかし突然ばさりと掛け布団を引き剥がされ、あっという間に鷲塚の肩に担ぎ上げられていた。

「来い! 面倒なら、俺が洗ってやる──このまま一緒に寝るのは御免だ」

「やだっ! ちょっと、下ろしてよ、海琉!
 一緒に寝るのが嫌なら、私は客間で寝るからいいでしょ!」

「我が儘言うな。だいたい、風呂に入って、逆に臭くなる方がおかしいんだろうが」

 肩の上でジタバタと暴れる零の臀部をピシャリと叩き、鷲塚はそのまま問答無用でバスルームに入った。

 しかし、そこに漂う凄まじい臭気に、思わず目眩を起こしそうになった。

「零! おまえは……いったい、何を入れたんだ!!」

「だから、生姜風呂って言ったでしょ!」

 近所迷惑になりそうな低次元な口論が真夜中に繰り広げられたが、しかしそれは突如として、零の快感に濡れた悲鳴で途絶える。


 こうして、満ち足りた1日を過ごしていたはずの零は、自分の危機感と学習能力の無さをまたまた痛感することになった。

 ──しかしそれは、全身が重くて、だるくて、ほとんど身動きのできなくなった翌日になってからの事だったのである。



─ The End ─