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TearyDoll


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 トントントン……と規則正しいリズミカルな音が響いている。

 暖かい空気に満ちたキッチンに入った零は、夕食の支度をしている母・鳴川美弥子(ナルカワ ミヤコ)の背中を見つめ、唇に微笑み浮かべていた。

 最近、ちょっと太り気味──と悩んでいるらしいが、もともと目が大きくて童顔な美弥子は十分に若々しく、30代に間違われることもよくあった。

 趣味は「お料理」と答えるだけあって、作る事も食べる事も大好きな母は、今もまた楽しげに鼻歌を歌いながら包丁を握っている。

 タイトルは覚えていなかったが、『モーニング娘』の歌であるのは間違いない。
 あの楽天的なノリの良さが、どうやら母のお気に入りであるらしかった。

「──お母さん、何か手伝おうか?」

 肩越しにまな板を覗き込み、零がそう声をかけると、美弥子はぱっと明るく顔を輝かせた。

「じゃあ、冷蔵庫からサラダを出して、お皿に盛りつけておいてくれる?
 そろそろお父さんも帰ってくる頃だから」

「はあーい。
 ──あれ、咲妃はまだ帰って来ていないんだよね?」

「最近、いつも遅いのよ、あの子は──部活が忙しいらしくて。
 今日は塾があるから、もうすぐ帰ってくるわ。
 ご飯を食べたら、またすぐに飛び出していくんだけど……」

 ため息をついた美弥子は、冷蔵庫を開ける零の姿を見つめ、にっこりと笑った。

「でも嬉しいわ、零が帰ってきてくれて。
 お母さんよりお料理が上手になってるから、すごく驚いちゃったけど。
 こうやってお手伝いもしてくれるし……何だかね、娘がもう一人増えたような気分だわ」

 母の言葉を聞き、サラダボウルを持って立ち上がった零は、少し困ったように微笑んだ。

「一人暮らしをしていれば、きっと誰でもできるようになると思うよ。
 最初の頃は……僕もあまり作れなかったし。
 料理の本を見たり、教えてもらったりして、やっとそれなりにはなったけどね」

「でも、零は家にいた時からお手伝いしてくれてたでしょう?
 だから、あなたが一人暮らしするより、私は咲妃の方が心配だわ。
 東京の大学に行きたいって言ってるけど──あの子に一人暮らしなんてできるのかしらね。
 いつも『勉強、勉強』って騒いでるけど、零と違って、家事には全く興味が無いみたい。
 『お母さんみたいな専業主婦になる気はないんだ』なんて言ってるし。
 でも自分で食べるものくらいは、作れるようになってた方がいいと思うんだけど」

 零が家を出てから、ちょうど反抗期に突入したらしい妹の咲妃は、ことある事に母親とぶつかり、口喧嘩をしているらしかった。

 それが悩みの種であるらしく、美弥子の言葉にも自然に愚痴が混じる。

 ほとんど反抗期らしいものが無かった零に比べ、ささいな言葉の行き違いで口論が始まり、激しい言い合いになってしまうほど、母親に対する咲妃の反発はひどいものであるらしかった。

 しかし零が行方不明になったと思われ、その後の騒動が起きてからは、咲妃の反抗期も一時的に治まっていたらしい。

 心配して動揺する母親を懸命に励ましながら、一緒に零の身を案じていたようだった。

「──お兄ちゃんのバカ!
 こんなにみんなに心配させといて……友達と旅行に行ってたなんて信じられない!
 お父さんも、お母さんも……あたしも、夜も眠れないくらい、ずっと心配してたんだからね!
 それなのに──お土産も無いなんて、どういうことよっ!!」

 鷲塚海琉という名の男に監禁され、家族に連絡できなかった理由を告げるわけにもいかず、苦し紛れに零がついた嘘は、咲妃の怒りを相当に買ったようだった。

 2年ぶりに帰宅し、咲妃に再会した途端、彼女は大粒の涙を流しながらそう怒鳴った。

 安堵と怒りが交錯し、そこに会えて嬉しいという素直な気持ちを口にできない照れが混ざる。

 自分の複雑な気持ちを整理できないでいた咲妃は、罵るほどに激しい言葉を零にぶつけてきた。

 だが、その声は涙に震え、本当に心配していたのだという思いが響いてくる。

「──ごめんね……本当に心配をかけてごめんなさい」

 鷲塚に脅迫され、その虜囚となって捕らわれたのは、家族を守りたいがためだった。

 そのためなら身を滅ぼしても構わないとさえ思っていたが──零の不在が、それほど家族に不安を与えていたとは想像もしていなかった。

 心のどこかで、血の繋がらない家族の絆を疑っていたのかもしれない。

 自分さえ犠牲になれば、本当の家族である3人は幸せに暮らせるのかもしれない……そう思っていたのだろうか──。

「なんて馬鹿な子なの、あなたは!
 子供の心配をしない親が、どこにいますか……」

 しかし、電話越しに聞いた母親の痛切な叫びが、盲目だった零の目を開かせ、確かな真実を教えてくれた。

 家族の絆は、決して血の連なりだけで出来上がるものではないと──。

(ごめんなさい……あなたたちの愛情を疑った私を…どうか許してください)

 一人が不幸になれば、家族全員が幸福にはなれないのだと、そんな簡単な事すら見失いかけていた自分がひどく愚かに思え、深く後悔し、反省する。

 二度と心配はさせたくないと思ったが、でもそれはきっと無理なのだろう。

 寂しがってはいないか、苦しんではいないか、悩んではいないか──いつだって大切な人の事は心配してしまう。

 だからできるだけ不安がらせないよう、日々の生活に幸せを見つけ出しながら、愛する人たちの事を想っていればいいのかもしれない……あなたは今、幸せに暮らしていますか、と。

 テーブルに皿を並べていた零は、ふと手を止め、孤独な部屋に暮らす男の事を想った。

(──海琉……あなたは今、何をしてる?
 私が傍にいなくても、寂しいだなんて、あなたは絶対に言わないだろうけど)

 突然の嵐に巻き込まれたように鷲塚に翻弄され、身体を奪われながら、いつの間にか零は恋に落ちていた。

 圧倒的な強さを誇り、その瞳と同じ鋼に囲まれたように堅固な精神は、だがその高い壁の向こう側に、壊れやすい玻璃のようなものを封じている。

 それに気づかなければ、惹かれることもなかったのかもしれない。

 ──だが、ようやく巡り会ったというように互いの魂が共鳴し、神秘的な共振が生み出す波に抱かれた時、零の心は深く鷲塚を求めるようになっていた。

 そして、もっと知りたいと思い、触れたいと思う──その閉ざされた壁の中にあるものが、いったい何であるのか……。

「零──ぼんやりしちゃって、どうかしたの?」

 母親の声が聞こえ、我に返った零は小さくかぶりを振り、柔らかく微笑んだ。

「何でもないよ、ちょっと、考え事してただけ。
 あ、お父さん、ビール呑むんだよね。
 僕も晩酌に付き合っちゃおうかな」

「大丈夫なの、あなた、お酒飲んじゃって?
 お父さんは喜ぶだろうし、零も成人してるから構わないけど、酔っ払って倒れないでね。
 救急車呼ぶなんて、お母さん、嫌よ」

「倒れるほど飲んだことはないけど……」

 くすくすと笑った零は、その時、鷲塚に連れ出されたローウェルグループのパーティを思い出してしまい、思わず顔を赤らめた。

 カクテルを飲んで酔っ払い、外に飛び出して、男に襲われそうになった。
 危ういところで鷲塚に助けられ、けれど足を挫いてしまって──。

 その後、目まぐるしく状況は変わったが、思えばあの頃から少しずつお互いの存在を認め合うようになったのかもしれない。

 零は、外してしまっているダイヤモンドの指輪を思い、淡く唇に微笑みを浮かべていた。

(零…愛してる──おまえだけだ)

 耳元に残る囁きは甘く、包み込まれるような心地よい余韻が残る。

(もう少し待っていて……海琉の事をみんなに話して、認めてもらってから帰るから)

 両親に隠していた事を、全て話さなければならない時なのかもしれない。

 大学には通っていないという事、鷲塚海琉という男に出会い、愛し合っているという事。

 そして、半陰陽としてこの世に生まれ落ちた自分が、今までとは違う性を受け入れようとしている事も……。


 ところが──なかなか家族に話し出すきっかけが見つからず、零は何も言い出せないまま、あっという間に一週間が過ぎようとしていた。