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TearyDoll


10



 鷲塚が、宿泊しているホテルではなく、マンションに戻ると告げた時、ベンツを運転していた新堂は危うくブレーキを踏み込みそうになった。

 辛うじて無様な急停車は避けることができたが、問い返す声に驚愕が表れてしまう。

「──マンションって……零さんのマンションですか?」

 普段なら、一度告げた事を聞き返すことを鷲塚は許さない。
 しかし、この時は動揺している新堂にそれを許し、鷲塚は軽くうなずいて見せた。

「判りました──ですが、零さんはまだ……」

 実家に帰ったまま、あの部屋には戻っていないのではないかと訊ねそうになり、新堂はその言葉を寸前で呑み込んだ。

 鷲塚が零の身辺を見張らせている者からは定期的に報告が上がってきていたが、まだ東京に戻ってくる様子はないということだった。

 彼女の周囲はいたって平穏で、不審な人物はどこにも見かけられない。

 母親と一緒に買い物に出かけたり、庭の手入れをしている──その様子は楽しそうで、とても幸福そうに見える。

 最初にその報告を聞いた時、新堂が見ている前でさえ鷲塚は安堵したような表情を見せた。

 ところが、それ以降同じような報告が上がってくるたび、次第にその鋭利な鋼の瞳に少しずつ憂慮が入り混ざるようになってきたのである。

 平凡な家庭というのも悪くないと呑気に考えていた新堂でさえ、日が経つに連れて不可解な不安感に襲われるようになっていた。

 ──平和で穏やかな家族を愛し、彼らと過ごす時間を大切にしている零は、もう二度と様々な危険と波乱に満ちたこちらの世界には戻って来ないのではないかと。


 ほぼ一週間ぶりに54階建て超高層マンションの最上階に戻ってきた鷲塚は、暗くひんやりと静まった部屋を見渡した。

 急速に開発の進む湾岸のウォーターフロントに建てさせた超高層マンションは、その立地の好条件と展望の良さ、価格と入居者の希望を反映させた内装などのセールスポイントに恵まれているせいか、販売と同時に20階以上の分譲分はほぼ完売していた。

 19階以下の賃貸物件も、キャンセル待ちが出ているほどの人気物件である。

 宣伝広告には53階となっているが、鷲塚は最上階である54階フロアを全て自分自身の住居として所有していた。

 あまりに高層で東京湾に近い場所であるため、窓を開けることができないほど風が強い。
 そのため、鷲塚は最初から全ての窓を嵌め殺しにし、テラスもまた作らせなかった。

 狭苦しくならないように、外界に面した壁のほとんどが超強化ガラスで作られた広々とした窓になっているため、あたかもその部屋は空中楼閣のように見える。

 昨年の暮れに完成したばかりのマンションは、その構造からいっても、零を監禁しておくにはまさに好都合な場所だった。

 玄関以外に出入り口はなく、玄関扉もまた両サイドに鍵が必要な二重構造になっていた。

 鍵を持っていない者がその部屋に入ることはできず、たとえ入ることができたとしても、今度は出ることができない。

 眼下に美しい夜景の広がるリビングの窓に近づいた鷲塚は、厚い雲に覆われて月も星も見ることのできない夜空を見上げ、小さく嘆息をもらした。

 もともと自分以外の人間を住まわせる予定のなかったこの部屋に、電灯が明るく灯されることもなく、人の気配がどこにも感じられないことが、今はひどく苛立たしかった。

 至近距離からバズーカ砲かロケットランチャーでも打ち込まなければ破壊できないほど分厚い強化ガラスは、それほどの厚さにも関わらず見事な透明性を保っている。

 氷のように冷たい窓を片手の拳で軽く叩いた鷲塚は、無機質な金属を思わせる瞳で、地上に瞬く人工の星を見下ろした。

(──おまえをこの部屋から解放したのは……果たして正しかったのか──)

 零が己に向けてくる愛情をいまだに信じ切れずにいる心の一部が、暗く囁きかけてくる。

 零の全てを独占し、支配したいと望んだのは、鷲塚自身だった。

 だが、身も心も支配し、その完全なる所有を望んでいただけなら、決してその手を放すことはなく、ずっとこの部屋に閉じこめたままにしておいただろう。

(……おまえに自由を与えたのは──おまえ自身の意思で俺の傍に残ることを、離れても再び戻ってくることを信じたかったからだ)

 何故そのような思いが己の中に生じたのかは、鷲塚自身にも判らなかった。

 疑惑が残るのならば、その不信が消えるまでは閉じこめておくべきだったのだ──本来の鷲塚であれば、当然のようにそうしていただろう。

 それでも零を解放したのは、その愛が真実であるのかどうかを試したかったのか、それともただ純粋に信用したかっただけなのか……。

 人間はすぐに他人を裏切り、心の全てを委ねてしまうのは危険だと常に自戒しているにもかかわらず、我ながらずいぶんと愚かな事をしている──鷲塚はそう自嘲した。

 表情が失せれば冷酷にも見える唇に苦笑を刻んだ鷲塚は、強い覇気の宿った双眸で地上を冷たく睥睨した。

 どれほど高みにいようと、ここからでは零の姿を見いだすことはできない。

 穏やかな光に包まれた世界から、果たして暗く危険な世界へと自ら降りてくるのか──。

(──零……早く、ここへ戻って来い──俺の忍耐が続いている間に。
 もう一度捕らえ直さなければならなくなったら、その時はもう、おまえの心も言葉も信じることはできないぞ)

 身体に流れる猛々しい獣の血は、自ら制しておかなければ怒濤のように荒れ狂い、美しくしなやかな身体を引き裂こうと、息を潜めて虎視眈々とその機会を狙っている。

 暴走したなら間違いなく零を傷つけることになるのだろうが、その甘美な暗い誘惑に心惹かれる己がいるのも事実だった。

(──愛してる、海琉……誰よりも──…)

 その時、不意に耳元で優しく囁く、柔らかいシフォンのように甘やかな声を聞いたような気がして、鷲塚はその響きを追うように、静かに鋼色の双眸を閉ざしたのだった。


 零が鷲塚を愛していて、一緒に暮らしていると告白してからというもの、母親の美弥子はそれまで以上に熱心に料理を教えてくれたり、家事のコツを伝授してくれていた。

 鷲塚が何者なのか、夫に知らされて美弥子は知っているはずなのだが、あたかも彼が普通のサラリーマンでもあるかのように、「未来の義理の息子に会いたい」などと冗談を口にする。

 もちろんそれは零と二人きりの時に限られてはいたが、栄一郎が会社に行き、咲妃が高校に行ってしまうと、自然に二人で会話する時間が作られた。

 離れていた時間を埋めるように、零と美弥子は様々な事を語り合ったが、それでも母が鷲塚について踏み込んだ質問をしてくることはあまり無かった。

 零が自分から話すのを待っているようで、二人が出会った経緯などを聞かれることもない。

 当たり障りのない外見の様子や、性格について少し話すと、それだけで喜び、勝手な想像を膨らませているようだった。

 その日、父親からは会議で遅くなると連絡があり、咲妃もまだ予備校から帰ってこないため、零は母親と二人で夕食を先に済ませていた。

 のんびりとした夕食後、零が後片づけを手伝っていると、冷蔵庫を覗き込んでいた美弥子が声を上げた。

「あら……もう一本買い置きしてあると思ってたんだけど、牛乳がもう無くなっちゃってるわ。
 咲妃が塾から帰ってきて、カフェオレが飲めないと判ったら、怒り出すわよねえ。
 スーパーはもう閉まっちゃってるし……」

 困ったようにため息をついた美弥子を振り返り、零はエプロンを外しながら言った。

「駅前のコンビニで、買ってきてあげるよ。
 この時間だと、もうコンビニぐらいしか開いてないよね」

 壁に掛かった時計を見上げると、針はちょうど9時半を指している。

 美弥子は躊躇ったようだったが、同じように時計を見上げ、少し考え込んだ後にうなずいた。

「じゃあ、零にお願いするわ。
 お母さんの自転車が玄関脇に置いてあるから、それを使ってちょうだい」

「──大丈夫、そんなに遠くないから、歩いて行ってくるよ。
 まだそんなに遅い時間じゃないし、運動ついでに行ってくるね」

 ほっそりとした身体をふんわりと覆う淡いグレーのカットソーの上からジャケットを羽織った零を見つめ、美弥子はひどく心配そうな顔をして首を傾げた。