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TearyDoll


12




 公園の手前でなんとか咲妃に追いついた零は、息を切らせながら妹の名前を叫んだ。

「──咲妃、ちょっと待って! ちゃんと…話を……」

 零の声で走る足を止めた咲妃は、公園の入り口のちょうど前でくるりと振り返った。

「話? お兄ちゃんと話さなきゃいけない事なんて、あたしには何にも無いわよ!」

 街灯に照らされ、咲妃の目に浮かんだ涙が小さく光る。

 怒りと悲しみで顔を歪めた咲妃は、大きく胸を喘がせている零を冷ややかに睨んだ。

「……でも、さっきの清塔の子──咲妃の、好きな人なんでしょう?
 彼の言葉に傷ついたから、咲妃は急に……。
 ──ごめんね、僕が、咲妃に声をかけなければ良かった」

 零が謝った瞬間、咲妃は無理に押さえ込んでいた感情を爆発させた。

「謝らないでよ! これ以上あたしを惨めにさせて、そんなに嬉しいの?
 そうよ、あたしは安斉さんが好き──ずっと、少しでも傍で見ていたいと思ってた。
 やっと……やっと、話しかける事ができるようになったのに、またお兄ちゃんがあたしの邪魔をするんだわ。
 お父さんも、お母さんも、安斉さんも、他の人も……みんなお兄ちゃんは綺麗で、可愛いって言ってくれて、それでお兄ちゃんは満足でしょうけどね!
 でも、お願いだから、これ以上あたしのものを──安斉さんを盗らないで!!」

 悲鳴のような咲妃の声に打ちのめされたように立ちすくみ、零は呆然と瞳を見張ったまま、凍りついたように動けなくなっていた。

「僕は……咲妃から何も盗ってなんか……」

 震える声で零が言おうとした時、咲妃は憎悪を秘めた眼差しで零を睨んだ。

「盗ったじゃない! あたしから、お父さんも、お母さんも!!
 あんたなんか本当は捨て子のくせに、お父さんもお母さんも、いっつもあんたのことばっかり気にして、血の繋がった本当の娘は放ったらかしにして!
 いつも良い子のふりをして、優しいお兄ちゃんの顔をしながら、本当はあたしの事ずっとバカにしてたんでしょ?
 どうせあたしは可愛くないし、あんたほど頭も良くないけど──だからってあたしから大切なものを全部取り上げないでよ。
 半陰陽だか何だか知らないけど、男のくせに女みたいな顔して、みんなに媚売ったりするなんて最低じゃない!
 男のくせに安斉さんに色目使うなんて……気持ち悪いのよ!
 捨て子のくせに図々しくあたしの家にずっと居座って──あんたなんか、どっか行っちゃえ!」

 咲妃から放たれた言葉は、鋭い矢のように零の心に深く突き刺さった。

 あまりの衝撃に涙すら出ず、呆然と咲妃の顔を見返していた零は、立ちつくしたまま小さな声でぽつりと呟いた。

「──ごめん…ごめんね、咲妃……本当にごめんなさい……」

 何に対する謝罪なのか零自身も判らなかったが、その言葉を聞いた咲妃はさっと顔を青ざめさせると、まるで恐ろしいものから逃げ出すように踵を返した。

 その場に一人取り残された零は、咲妃の姿が吸い込まれた夜の闇を見つめていたが、そのうち操られたようにふらふらと公園に入っていった。

 ブランコに座った零は、誰もいない砂場を見つめた。

 キィ……とブランコの鎖が軋む音が、驚くほど大きく響き渡る。

 ただぼんやりとブランコを揺らしていた零は、不意に胸が抉られるほどの痛みを感じ、唇を噛みしめてうつむいた。

 美しいセピアの瞳が涙に染まり、その白い頬に悲しみの雫がこぼれた。

(──私の存在は……咲妃の幸せをずっと壊してしてきたのだろうか)

 憎しみを帯びた咲妃の感情が叩きつけられた時、硝子細工のような零の心はひび割れ始めていた。

 本当なら咲妃だけに与えられるはずだった両親の愛情を、捨て子であった自分が割り込んだ事で、妹から取り上げてしまったのかもしれない。

 半陰陽という異形の零を慈しんでくれた両親は、きっと咲妃にも同じように愛情を注いだはずだろうが、それでも奇形で捨て子という零に対する余分な気配りはあったのだろう。

 咲妃の前では普通に恋愛や結婚話を口にする両親が、零の前ではそれを言えないでいる。

 学校の性教育で男女の違いを教えられた時、どちらとも違う自分を不思議に思った零がそれを質問すると、父も母もひどく困ったような、苦しむような顔をしていた。

 その後、ゆっくりと時間をかけて説明はしてくれたが、咲妃だけが彼らの子供だったなら、そんな苦労をしなくても良かったのだ。

(……私は、いつだって咲妃を守りたくて、誰よりも大切な妹だと…そう思ってきたけど──咲妃にとって私は邪魔者だった。
 私なんかいなくなればいいって……咲妃はそう思ってたんだね。
 ごめんね──私はあなたにどれだけの苦しみを与えたんだろう。
 鳴川家で拾われなければ、私はきっと生きてはいけなかっただろうけど……でも、咲妃にとってはそっちの方がずっと幸せだったかもしれないね──)

 自分を慕ってくれていると思っていた咲妃が、あれほどの憎しみを抱えていたとは想像もしなかった。

「血は繋がっていなくても、あなたは大切な家族なのよ」

 そう言ってくれた美弥子の言葉を、零は何よりもありがたく思っていたが、一方の咲妃は、血が繋がっているにも関わらず、自分が同等以下の扱いを受けることに不審を抱いていたのかもしれない。

(やっぱり私は……いらない存在だったのかな。
 私さえいなければ、咲妃はもっと幸せになれたんだから──)

 ──幸福な家庭の幻影が崩れ、暗い孤独の中に突き落とされる。

 喉の奥から込み上げる嗚咽を必死に堪えながら、零はぽとぽとと膝の上に涙を落とした。

 月に照らし出された公園は静まり返り、人の気配はまるで感じられない。

「……胸が…痛くて──すごく苦しい……」

 手から牛乳パックの入った袋が落ちた事にも構わず、零は強く自分の肩を抱き締めた。

 ただ呻くように喉を震わせながら、零はここにはいない存在へと必死で呼びかけていた。

(海琉…海琉──どうか、助けて……壊れてしまいそうな私を……どうか──。
 あなたなら私が存在してもいいと、生きていってもいいと、そう言ってくれる?
 いつまでも愛してるとそう言って、この身体を抱き締めていてくれる?
 あなたにまで『いらない』って言われたら、私はどこに行けばいい?
 今すぐに……会いたいよ──海琉の腕の中に、私はもう帰りたい……)

 理解して、励ましてくれていた人にとってさえ、やはり零は「気持ち悪い」存在なのだ。

 咲妃に異形の肉体を嫌悪された瞬間、零の中の一部が音を立てて崩れた。

 男でもなく、女でもなく──だが咲妃の「兄」として存在してきた「鳴川零」は、零の中では確実に「男」として存在しなければならない部分だった。

 ──年下の妹を守るために、零が自ら作り上げてきた「兄」としての仮面。

 だが、鷲塚を愛した事で零の魂が変化を起こし、咲妃には隠されていた零の心の内面が、今になって透かし見えるようになってしまったのか──。

 咲妃に「兄」としての人格を拒否された今、その仮面は粉々に打ち砕かれ、もはや以前と同じ仮面を作ることさえ不可能だった。

「……助けて、海琉──お願い……私を…迎えにきて──」

 悲鳴を放った零は、動くこともできぬまま、がたがたと震える身体を必死で抱き締めていた。

 砕かれた心の一部にぽっかりと大きな穴が開き、そこから冷たい夜の空気が入り込んでくるようだった。

 凍えるような寒さが内側から広がり、零の精神を絶望の暗闇に追いつめていこうとする。

 ふっとそのまま意識を失いそうになった時、不意に肩に暖かい手が置かれ、荒々しいほどに零の身体を強く揺さぶった。

 のろのろと顔を上げた零は、目の前に立った背の高い人影を濡れた眼差しで見上げた。

「──海琉? ……海琉なの?」

 朦朧と霞みゆく意識のまま、月光で陰になった顔をよく見ようと、零は両手を差し伸べた。

 ゆらりと揺れた黒い人影は、ゆっくりと身を屈めると、抱擁をせがむような零の華奢な身体を引き寄せ、息が止まるほどに強く抱き締めていた。