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TearyDoll


13



 背中に回された腕の感触に、違和感を覚えた身体がびくりと強張った。

「──いやっ! 誰…放して!」

 自由になろうともがく零を、その腕はまるで拘束するように力を強める。

 息苦しさに声を上げた時、零の耳元で怒ったような低い声が響いた。

「誘ったのはあんただろ、零さん?
 暴れ続けるなら──大人しくさせてやってもいいんだぜ?」

 言葉と共に吐息が耳に触れ、その声に動揺した零は、顔を青ざめさせたまま視線を上げた。

「……あ、安斉…君?
 ──どうして、君が……ここに……?」

 零の問いかけに、安斉はくっと唇をつり上げて皮肉っぽく笑う。

「いったい、俺を誰と間違えたんだ、あんた?
 カイルって誰だ──ひょっとして、あんたのオトコ?
 優等生の兄さんがオトコと付き合ってるなんて、あんたの妹は知ってるのか?」

 詰問するような安斉の言葉に、零はただ呆然としてセピアの瞳を見開いていた。

「──咲妃は…何も知らない──話さなければいけなかったのに……。
 もっと早く…話していれば……あんな誤解をしなくても済んだのに。
 私が話さなかったから……咲妃は、あんなに傷ついて──」

 月光の下で、白い頬が透き通るほどに青ざめる。

 淡く優しい色合いの瞳から一筋の雫が滑り落ちるのを、安斉は険しい表情をしたまま見下ろしていた。

「坂を上ってくる途中で、あんたの妹の怒鳴り声がちょろっと聞こえてきたぜ。
 何を言ってるのかまでは判んなかったけどな。
 いったいあいつは、何だってあんなに怒ってるんだ?
 どっちかってーと、傷つけられたのはあんたの方だろ?」

「……違う──本当に傷ついていたのは、咲妃の方。
 ──全部……悪いのは…私──。
 だから…お願い──咲妃を…嫌いにならないで──」

 混乱の中でさえ、必死で咲妃をかばおうとしている零を見つめていた安斉は、怒りに駆られたように細い肩をつかみ、激しく揺さぶった。

「おい、訳の判んねえこと、言ってんじゃねえよ。
 あんたの妹の事なんて、この際どうだっていいだろ。
 俺が惚れて、ずっと探していたのはあんたの方なんだから。
 言えよ──カイルって誰だ?」

 がくがくと震えていた零は、そのまま崩れるようにブランコに座り込むと、涙に濡れた瞳を隠すように両手で顔を覆った。

「──海琉は……私の、大切な人──」

 その名前を口にすると、切ないほどの思慕に駆られ、新たな涙が生まれた。

 鷲塚に薫という婚約者の存在があった時、零は胸が張り裂けそうな痛みを味わった。

 鷲塚を愛しているから、零は咲妃の感じる想いが全て──憎悪でさえも判ってしまう。

(私がいたから……咲妃は幸せになれたかった。
 私さえいなければ──あの子は……もっと幸せになれるんだろうか)

 「どうだっていい」と言う安斉の言葉は、あまりにも切なく、悲しい。

 零は拒むように小さく頭を振りながら、もう一度捕らえ直そうと伸ばされた腕をはね除けた。

「やめて──もう、私に触らないで……」

 その瞬間、度重なる拒絶に我慢しきれなくなったのか、安斉は零の髪をつかんで顔を強引に仰向かせた。

 痛みに顔を歪めた零は、キスをしようと寄せられる唇の予感に悲鳴を上げ、死に物狂いで逃れようと抗った。

 閑静な住宅街であるため、零の声は驚くほど高く響く。

 焦った安斉は零の唇を掌で塞ぐと、涙に濡れた瞳を間近から見下ろした。

「騒ぐなって言っただろ、零さん。
 いいか──あんたの返答次第で、俺はあんたの妹と付き合ってやってもいいぜ。
 そうすれば、あんたは咲妃ちゃんと仲直りできるし、彼女も幸せになれるだろ?」

 突然の安斉の提案に、零は愕然としたように瞳を見張った。

 ようやく獲物が大人しくなったことに満足した安斉は、柔らかな頬と唇の感触を楽しむように指先で撫でながら、そっと耳元で囁きかけた。

「──なあ、一度だけあんたを抱かせてくれよ。
 俺だってずっと寂しく片思いをしてきたんだから、そのぐらいはいいだろ?
 望みが叶ったら、俺は咲妃と付き合って、彼女をハッピーにするように努力する。
 たった一度だけ──それで、みんな丸く収まるんだ。
 全てはあんたの気持ち次第だぜ……一度だけなら、あんたのオトコにもばれねえよ」

 安斉の言葉を呆然と聞いていた零は、瞬くことすらできぬまま、かぶりを振っていた。

「そんなこと……できない──」

「どうして? 確かに俺はあんたより年下だけど、あんたを楽しませることはできるんだぜ。
 このまま俺のマンションに行って、一晩だけ俺の恋人になってよ。
 絶対に酷い事はしないって、約束するから」

 一夜の過ちをそそのかす言葉を口にしながら、安斉は高校生らしい清涼な笑顔を浮かべた。

 零は何度も頭を横に振りながら、身体を硬く強張らせていった。

 咲妃の事は妹として大事にしてきたが、しかしだからといって鷲塚を傷つけてしまうような行為だけは絶対にしたくない。

 どちらかを選ばなければならないのなら、零は間違いなく鷲塚を選ぶだろう──その心に迷いは無かった。

 嵐の海のように波立つ心の中に、何よりも大切な真実がある。

 涙の滲むセピアの双眸を閉ざした零は、淡く輝く光の欠片をそっと抱き寄せると、全ての葛藤を振り払うように瞼を上げた。

「私は──海琉が誰よりも大切だから、たとえ咲妃をもっと傷つけることになったとしても、君に抱かれるわけにはいかないんだ。
 それに、私が好きだと言いながら、ひきかえに妹と付き合うなんて言う人に、大事な咲妃を任せるわけにもいかない。
 もし一時的に幸せになれたとしても、真実に気づけば、咲妃は今よりももっと傷ついて苦しんでしまう。
 それぐらいなら、私は咲妃に恨まれても構わない。
 本当に咲妃を大切にしてくれる人なら、私と比べようなんて思わないはずだから」

 触れてしまえば儚く、脆く崩れそうだった存在が、突如としてその姿を変え、触れることさえ叶わないような崇高なほどに強い輝きを帯びる。

 まるで目に見えない存在が零を包み込んでいるようにさえ見え、その驚くほどの変貌に、安斉は気圧されてたじろいだ。

 あと少しで自分の手の中に堕ちてくると思っていた獲物に、何故か畏怖さえ覚え、しかしそれが安斉のプライドを強かに傷つける。

 足下に落ちていたコンビニ袋を拾い上げ、零は黙って公園の出口に向かって歩き始めた。

「待てよ──まだ、話は終わってねえよ」

 背後から肩をつかまれ、その手を振り払おうとした瞬間、零は視界に鋭く光る刃を認めた。

「あんた、思ったよりも強情だな──痛い思いをしたくなければ、大人しく付き合え」

 驚くほど凶悪な瞳で零を睨みながら、安斉は白い喉元にナイフを突きつけた。

「馬鹿な真似はやめて。
 こんな事をしても、何にもならないよ」

 ナイフに怯えて素直に従うかに思えたが、その安斉の予想は大きく覆され、零は冷淡なほどに静かな声でそう告げた。

 逆上してかっと頭に血が上り、安斉が実力行使に及ぼうとした瞬間、不意に公園の外から大きな声が響いてきた。

「おい、そこにいるのは零か? そんなとこで何をやってる?」

 訝しげな声に驚愕し、安斉が反射的にナイフを引いた瞬間、零は素早く身を翻していた。

 ちょうど会社帰りだった栄一郎の傍らに逃げ込んだ零は、不審げに、見返してくる父親に「何でもない」と首を振ってみせる。

 安堵にため息をついた零は、公園に立ちつくしたままの安斉を振り返った。

 ナイフはすでに隠されていたが、その刃ほどにも鋭い眼差しが零をじっと見つめている。

 父親に帰宅を促しながら、零の心は暗く、苦い気持ちにじわじわと脅かされていった。