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TearyDoll


14



 人の多い東京駅のプラットフォームに降り立つと、零はボストンバッグを反対側の手に持ち替えた。

 JRの自動改札を抜け、長い地下街を歩いて地下鉄の改札口までたどり着く。

 都心の地下に張り巡らされた複雑な地下鉄路線図を見て、零は思わず立ち止まっていた。

(──あれ……そう言えば、あのマンションの最寄り駅って、どこだっけ?)

 おおよその場所と住所は把握していたが、様々な路線が密接に交錯している場所であるだけに、零は困惑して立ちつくしてしまった。

 昨夜、咲妃と喧嘩別れをしてしまい、家に居づらくなってしまった零は、まるでそこから逃げ出すかのように実家を出てきた。

 帰宅してから咲妃は部屋に引きこもってしまい、朝になっても、零は妹と顔を合わせることすらできなかった。

 両親には「喧嘩をした」とだけ伝え、その内容までは詳しく説明しなかったのだが、美弥子も栄一郎も相当に心配しているようだった。

 彼らが咲妃の部屋のドアを叩いても、中から鍵が掛けられ、返答がない。

 かなり根気強く美弥子は咲妃に呼びかけていたが、梃子でも動かないというような娘の強硬な態度にため息をつき、とりあえず少し様子を見ようと考えたようだった。

 家を出る時、零はドア越しにそっと声をかけてはきたものの、学校にも行こうとしない咲妃は一度もその姿を見せなかった。

 零の心は暗く沈んだが、それでも両親にはこれ以上の心配を掛けられないと思う。

 精一杯の虚勢を張って、零は最後まで明るい笑顔を絶やさなかった。

 だが、夜になって急に帰京すると言い出した零の心を、美弥子はとっくに見抜いていたのかもしれない。

「──何があったとしても、ここはあなたの家なんだから、遠慮せずに帰ってきなさいね。
 もう少し落ち着いたら、お母さん、咲妃とゆっくり話をしてみるわ」

 最後にそっと零を抱き寄せた美弥子は、少し寂しそうな、悲しげな声でそう告げた。


 とりあえず鷲塚のマンションの近くまでは地下鉄で行き、そこからタクシーに乗ろうと決めた零は、痺れてきた左手からバッグを再び右手に持ち直した。

 地上に出てタクシーに乗り込むと、零はほっとため息をついた。

 ふと両手を見下ろすと、重いボストンバッグを持っていたせいで赤くなってしまっている。

 痺れをほぐすように手を擦り合わせているうちに、窓の外に一際高くそびえ立つマンションが見えてきた。

「──お客さん、あのマンションですよね?」

 確認するように運転手が声をかけてきた時、零は何故か不思議な気分でうなずいていた。

 有名なデザイナーの設計で建設されたというマンションは、もう幾度となくその外観を見ているはずだというのに、零はまるで今初めて目の当たりにしたような感覚に陥った。

 最上階にはテラスはなく、外壁の中に広いガラス窓が埋め込まれている。

(──あそこに……海琉が住んでる。
 私は、今からあそこに帰って、海琉と一緒に暮らすんだ)

 落ち込んでいた心の中にゆるゆると歓喜が弾け、零は泣き笑いのような表情を浮かべた。

 咲妃に「気持ち悪い」と拒絶された身体を、早く抱き締めて欲しいと願ってしまう。

 不安に揺れる心を癒すのは、零を強く求める鷲塚の言葉だけだった。

 恐ろしいほどに強靱な腕の中が零の居場所になった時、その激情を受け入れる事が悦びと変わった。

 異形の自分もまた人と同じように快楽を感じ、愛する者に快感を与えられる──その至福。

(でも……きっとまだ仕事してるだろうから──帰ってきてないかもしれない。
 何の連絡もせずに、突然、帰って来ちゃったからな)

 恍惚に酔いしれそうになる心をなだめるように、意識を現実に引き戻した零は、バッグに入れて置いた携帯電話と部屋の鍵を引っ張り出した。

 鷲塚に繋がる電話番号は全て携帯電話に記憶させ、メールアドレスも入れてあったが、零が実家に帰っている間、彼から一度も電話がかかってきたことはなかった。

 そして零もまた、鷲塚に連絡をすることを控えていた。

 鷲塚が零を自宅に帰したのは、両親に散々心配かけてしまったということもあるのだろう。

 しかし彼の本心の部分では、零の心を試しながら、平穏な生活を捨てる覚悟を決めさせようとしているのかもしれなかった。

 ヤクザという極めて特殊な職業についている鷲塚の傍にいる限り、平凡な幸福は望めず、何度となく辛い試練が待ち受けているはずである。

 それでもなお己の傍にいる覚悟はできているのかと、鷲塚は言外に問いかけている。

 その気持ちが伝わってきたからこそ、零は家族に全てを告白しようと思っていたのだ。

(──私は……海琉の傍にいたい──あなたをずっと見つめていたいから……)

 再びダイヤモンドの指輪の嵌められた右手で部屋の鍵を持っていた零は、全ての想いを込めるように、その上からそっと祈るように左手を重ねたのだった。


 ホテルかと勘違いしそうなほど豪華なエントランスを前にした時、零はごくりと息を呑んだ。

 思い返してみると、やはり一人でここをくぐったことはないらしい。

 いつも車での出入りであったから、地下駐車場から直接部屋へと連れて行かれた。

 セキュリティーの解除も、鷲塚や新堂が行っていたし、鍵を持たされていなかった零はいつも誰かの後ろについて歩いていた。

 ──否、歩いていたことすら少ないのかもしれない。
 ほとんど、気を失っていたり、足を挫いていたりして、鷲塚の腕に抱かれたまま運ばれていたのだから。

 安い木造アパート暮らしをしていた零には、本格的なセキュリティーシステムのあるエントランスホールを抜けるのは初めてであり、知らず緊張で掌に汗が滲んだ。

 重い荷物を両手で持ったまま、まるで検問を受けるような気分で、零がひどくゆっくりとした歩みで恐る恐る自動ドアに近づいていった。

 ところがその時、後方から足早な靴音が聞こえてくる。

 高いハイヒールの靴音に驚いた零が振り返ると、華やかなドレススーツに身を固めた女性が歩いてくるところだった。

 彼女は零のラフな格好をちらりと一瞥し、先にセキュリティーを解除してしまうと、大きく開いた自動ドアの中へとさっさと入っていった。

 その手慣れた姿に思わず見惚れ、ぼんやりと零は立ちつくしてしまう。

 すると、カツンとヒールを響かせて振り返ったその女性は、艶やかな微笑みを浮かべながら、その場に立ち止まって手招きをした。

「──早く、入ってらっしゃい。
 ドアが閉まってしまうわよ……そのバッグ、重いんでしょう?」

 どうやら、零が相当に重い荷物を運んでいると誤解したその女性は、見るに見かねて、自動ドアを開けたまま待ってくれているらしい。

「あ、ありがとうございます」

 彼女の思いやりに感謝しつつ、零がホールの中に入ると、背後で自動ドアが閉まった。

 大理石で内装されたホールは豪華であり、アールデコ調のシックな雰囲気が漂っていた。

 広々としたエントランスホールをきょろきょろと見回していた零は、エレベーター待ちをしていた先ほどの女性が、少し呆れたように見つめている事に気づいた。

「──あなた、こっちは20階から最上階までのエレベーターよ。
 19階から下のエレベーターは、ここと反対側にあるの」

 どうやら、超高層ビルと同じように階層によって乗るべきエレベーターが違うらしい。

 その説明に感心してしまった零は、その女性の方へと近づき、彼女と同じ場所でエレベーターが降りてくるのを待った。

 しばらくは黙っていたその女性は、ジーンズにサマーニットという場違いなほどラフに見える服装をしている零を見つめ、訝しむように声をかけてきた。

「旅行に行ってらっしゃったの?」

「しばらく田舎に帰っていたんです。
 いつも誰かが一緒にいてくれたから、一人でこのマンションに入るのって初めてで。
 何だか慣れなくって、ちょっと緊張してしまいます」

 同じマンションの住人なのだろうかと思いつつ、零が照れたように答えると、その女性はくすくすと華やかな笑い声を立てた。

 そのうち、エレベーターのドアが開き、零は彼女に続くようにして中に乗り込んだ。

「何階に行かれるの?」

 ずらりと並んだボタンを見つめた零は、首を傾げつつ、最上階である53階の表示を見つめた。

「えっと──53階をお願いします」