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TearyDoll


15



 エレベーターのドアが閉まり、引力に逆らって上方へと動き出す。

 階数表示のパネルを見上げていた零は、20階まではノンストップでエレベーターが上がっていくことに驚きを覚えていた。

 ところがその時、沈黙していた女性がくるりと振り返って零を見つめた。

「──あなた、誰なの? どうして53階に上がろうとしてるわけ?」

 先ほどまで親切な態度だった彼女は、美しく化粧の施された顔を険しく歪め、激しい怒りをはらんだ瞳で零を睨みつけていた。

 彼女の突然の豹変に驚愕した零は、訳が分からずに戸惑ってしまった。

「あの……私、そこで生活してたんです。
 私は鳴川っていいますけど、住んでる人は別の名前で──」

 その瞬間、彼女は眦をつり上げると、ドンと激しく零の身体を突き飛ばしていた。

 不意打ちに体勢を崩し、エレベーターの床に尻餅をついてしまった零を、彼女は怒気に包まれた恐ろしい夜叉のような表情で見下ろしていた。

「あんたが──あの人の新しい愛人ってわけ?
 最近、全然連絡が来なくなってたから、おかしいと思ってたのよ!
 このドロボウ猫!
 小娘のくせに、よくも私からあの人を盗ったわね!!」

 激しい口調で罵倒され、零はパニックに襲われそうになりながら、どんどんと上に上がっていくエレベータの階数ボタンを見つめた。

 ランプが点灯しているのは、53階ただ一つだった。

 その時になって初めて、零は、この女性が最上階の53階で降りようとしているのだと悟った。

(──どういうこと? この人……海琉の──愛人なの?)

 氷のように冷たい手で心臓をつかまれたようなショックを受け、零は表情を凍らせたまま彼女を呆然と見上げていた。

 零を蔑むように見下していた彼女は、チンとベルが鳴ってエレベーターが最上階に到達した途端、すぐさま1階のボタンを荒々しく押した。

「──帰りなさい、あんたの出る幕はないわ。
 私はあの人に呼ばれて、ここに来たんだから」

 零が持っているのと同じ鍵を片手で振って見せた彼女は、足早にエレベーターから降りてしまうと、そのままドアが閉まるまで零を睨みつけていた。

 身体が重く引き下ろされるような感覚と、頭脳が理解を拒んでいる衝撃に、零は動くこともできずに座り込んでいた。

(……どうして? 私だけだって言ってたのに──どうして海琉は、あの人を呼んだの?
 私だけを愛してるって…そう言ってたのに……何故?)

 やっと会える、やっと抱き締めてもらえる──そう思っていた。

 それを疑う理由など何も無かったのだ。

 出会って以来、鷲塚はいつも怖いほどに零を求め、零が誘拐された時には不眠不休で捜し出してくれたのだから。

(それとも──海琉はもう、私なんていらないって思ってる?
 やっぱり、こんな変な身体の私ではなくて、ちゃんとした女の人の方がよかった?
 咲妃と同じで、海琉も私のこと、気持ち悪いって……そう思ったのかな)

 昨夜、深く傷ついてしまった心が、さらに多くの血を流し始める。

 涙は枯れ果ててしまったのか、もはや一滴も流れない。

 人気の無いエントランスホールに戻ってしまった零は、重い身体を引きずるようにして立ち上がると、あれほど帰りたいと思っていた場所から逃れるように外に出た。

「──これから、どこに行こう……」

 乾いたセピアの瞳で空を見上げると、太陽の光が目に染みた。

 とぼとぼとボストンバッグを持って歩き出し、零は流しのタクシーを止めた。

 最初は自分のアパートに戻ろうと思ったが、部屋で襲撃された時の恐怖が思い出され、零は行き先を変えた。

 先の事を考えるにしても、心が軋みを上げるほど疲れてしまっている。

 今はただ、何も考えずに深く眠りたかった。

 ──全てを求め、包み込んでくれた暖かな腕は失われ……もう、どこにもない。

 そう思った瞬間、虚ろに乾いていたセピアの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。




 ──今朝、鳴川零が帰京した。

 その報告を受けた時、車で移動中だった鷲塚は、鋼の双眸を閉ざして深くため息をついた。

 革張りのシートに深く寄りかかった鷲塚は、後頭部をシートにもたれさせたまま宙を仰ぐと、ゆっくりと瞼を上げた。

 たった2週間離れただけであるのに、何故かひどく待たされたような気がする。

 初めて出会った時から数えても、まだ1ヶ月にも満たない。

 共に過ごした時間は遙かに短いというのに、零の不在は鷲塚の神経を苛立たせていた。

 充たされない欲望と飢えが身体の奥底に蓄積し、暴発寸前にまで高まっている。

 性欲の捌け口を求めるのなら、言い寄ってくる女や男を適当に捕まえれば良い。

 だが、それだけでは足りない何かが根底に渦巻いていた。

 恋や愛という言葉だけでは説明のつかない滾るような激情が、鋭い牙と爪を剥き出しにして、零が戻ってくるのを待ち構えている。

 歯止めをかけておかなければ、零の身体を引き裂いてしまうほど酷く傷つけてしまうだろう。

(これほど俺を狂わせたからには──何があっても逃がしはしない)

 くっと自嘲するように唇をつり上げた鷲塚は、バックミラー越しにちらちらと後部座席をうかがっている新堂に鋼の視線を向けた。

「新堂──零が戻ってくる」

 零の事を散々気にしていた新堂に対して、鷲塚はそう告げていた。

 その途端、新堂は驚愕したように目を見開くと、呆れるほど素直に顔を輝かせた。

「そうですか……よかったですね、思ったよりも早く戻ってきてくれて」

 その言葉を聞き、鷲塚は思わず微苦笑を浮かべていた。

 ──早いどころか、遅すぎたほどだった。
 あと少しでも遅くなっていれば、無茶を承知で、また零を拉致していただろう。

 そんな鷲塚の心境を察したのか、助手席に座っていた高宮が、話題をそらすように口を挟んできた。

「若頭──零さんのアパートの引き払いはどうします?
 荷物はそのままになっていますし、マンションの方に移動させるなら、誰か人をやりますが」

 零の衣服類は早々にマンションの方に運び込み、その後は必要とした物をその時々で移動させてはいたが、狭いアパートの部屋には大半の物が残されていた。

「いや……帰ってきたら、零が自分で整理に行くだろう。
 部屋を引き払うのは、それが終わってからでいい」

 考えを巡らせた後に鷲塚がそう言うと、新堂が賛同するように何度もうなずいた。

「零さん、片づけるの几帳面ですからねえ。
 片づけだしたら止まらないというか、図面引きながらいつまでも考えてましたし。
 俺なんか、空いてる場所に適当に放り込むから、何がどこにあるのかすぐに判らなくなっちゃうんですけど」

「──そもそも、おまえと比べる方が間違ってるんじゃないのか?」

 呆れたような高宮の言葉に、新堂が笑いながら反論する。

 鷲塚が苛々していたこともあって、ここのところ重い沈黙に支配されがちだった車内は、いつの間にか珍しいほどに明るい雰囲気に変わっていたのだった。