Rosariel.com
TearyDoll


16



 宿泊していたホテルを完全に引き払い、鷲塚が自宅マンションに戻ったのは、午後8時を少し過ぎた頃だった。

 月に一度開かれる荒神会下部組織トップとの月例会──会議という名の宴会に過ぎなかったが──それを補佐である高宮に全権委任し、ホテルに置いてあった荷物も全て明日届けさせる予定にして、鷲塚はほとんど身一つで部屋に戻ってきた。

 ところが、玄関を開けた瞬間、昨日までと同じ空虚な沈黙が鷲塚を迎えた。

 人のいる気配はまるでなく、冷たい静寂に包まれた空気に不快感を覚える。

 リビングの中央に立ち、人気の無いキッチンとダイニングを冷ややかに見渡した鷲塚は、スーツの上着をソファに放り出した。

 ネクタイを緩め、シャツの袖を無造作にまくり上げながら、以前とは比べものにならないほど使えるようになったキッチンへと足を向ける。

 しかし、何かを食べるという気にはならず、鷲塚は封を切ってあったクルボアジェ・ナポレオンのボトルとブランデーグラスを取り上げた。

 リビングルームに戻り、ローテーブルの上にグラスとボトルを置いた時、鷲塚はふっと鋼色の瞳を寝室の扉へと向けた。

 この部屋に零はいないのだと本能的に察し、理性もまたそれを裏付けるように冷ややかに囁きかけてくる。

 だが──それでも納得しようとはしない恋情が、荒れ狂うようにその姿を追い求めていた。

 その扉を開き、もしそこに零がいなければ、微かな希望は絶望へと変わる。

 しかし冷酷な真実を見定めるように、鷲塚は躊躇することなく寝室のドアを大きく開けていた。

 ドアを開けるのと同時に空気が流れたが、広い主寝室はしんと静まり返ったままだった。

 美しく整えられたベッドに乱れた様子はなく、シーツもまたひんやりと冷たい。

 リビングのソファに身を沈めて足を組んだ鷲塚は、ブランデーグラスに琥珀色のコニャックを注ぎ、その香りを楽しむように静かにグラスをまわした。

 掌で包むようにグラスを揺らしていると、そのうち熱が伝わり、独特の優雅な香りが立ち上ってくる。

 琥珀の液体を喉に流し込んだ鷲塚は、上着のポケットに入っていた携帯電話を取り上げると、メモリーさせておいた相手へと電話をかけた。

 数回のコール音の後、少し緊張した声音で応答があった。

「──はい、久松です」

「久松……零はどこに行った?」

 今朝方、零が戻ったと報告してきた相手に、鷲塚はひどく冷淡な声で問うていた。

 鷲塚が事業の一環として設立した興信所に属する探偵は、その質問に答えるまで、数秒ほどの間を要した。

「は……彼女なら、昼頃には会長のマンションに帰ったはずですが──」

 その答えを聞いた瞬間、グラスを揺らしていた片手が止まり、無機質な双眸がさらに冷たい光を放った。

「ここには帰ってきてない。おそらく、足も踏み入れていないだろう」

「し、しかし、確かにマンションのエレベーターに乗り込む姿を確認しております。
 証拠が必要であれば、すぐに写真を送ることもできますが……」

 電話の向こうでひどく狼狽している様子の男に、抑揚の欠けた冷酷な声で、鷲塚は突き放すように命令した。

「久松……俺はおまえに、零がここに帰ってくるまで見張っていろと言ったはずだ。
 ここに零はいないのだから、おまえの任務はまだ終わってない。
 今夜中に零の居場所を探し出せ──これ以上、俺に失望させるな」

 大声で怒鳴りつけるわけではなかったが、その低く極めて冷厳な声は、どんな恫喝よりも恐ろしい威圧感があった。

 かつて荒神会の構成員でもあった探偵は、微かに息を呑むような音を発した。

「わ、判りました……必ず、今夜中に居場所を突き止めます」

 電話を切った鷲塚は、手の中にあるコニャックに視線を落とすと、嘲笑するように唇をつり上げながらグラスを口に運んだ。

(零……俺から逃げられると思うな──すぐに捕らえて、連れ戻してやる)

 研ぎ澄まされた抜き身の刀のように妖しく瞳が光り、次の瞬間、刃が血を求めるように狂気をはらんだ。

 無意識のうちにグラスを持つ手に力がこもり、掌の中でブランデーグラスはあまりにも呆気なく砕け散る。

 薄いガラスの破片が皮膚を傷つけ、ポタポタと紅い血が床にこぼれ落ちた。

 冷たく無機質な双眸で鮮血を見つめていた鷲塚は、そのまま掌にゆっくりと唇を寄せると、流れ落ちる紅い雫を舌先で舐めた。

 脳裏に、鏡を打ち砕き、自らを傷つけて倒れていた零の姿が蘇る。

 血にまみれ、壊れた人形のように力の無い白い身体は哀れなほど儚かったが、一方で残忍な嗜虐の欲望を募らせる淫靡な美しさも感じた。

(──おまえの血は……もっと甘かったな)

 しなやかな肢体から立ち上る香りを、その身から溢れ出す蜜の甘さを思い出す。

 獰猛に輝く双眸を閉ざした鷲塚は、狩りの前に身を休める獣のように、静かにソファの上にその強靱な体躯を横たえたのだった。




 結局、どこに行っていいのか決められぬまま、零は自分のアパートにほど近い、駅前のビジネスホテルに宿泊することにした。

 食欲は無く、何かをしようという気にもならない。

 狭いユニットバスでシャワーを浴び、零は早々と狭いシングルベッドにもぐり込んでいた。

 シーツの冷たさが切なく、悲しく思え、零は薄い毛布の下で身体を丸めた。

 騒々しい車の音すら聞こえない寂しい部屋が嫌で、零はテレビをつけっぱなしにしていたが、その瞳は携帯電話のメモリー画面をずっと見続けていた。

(──せめて…声だけでも聞けたらいいのに……)

 面影をなぞるようにそっと液晶画面に触れた零は、再び込み上げてきた涙を堪えるように唇を覆った。

 パタンと携帯電話を折り畳み、そのまま胸元に引き寄せた零は、白い枕を涙で濡らしながらセピア色の瞳を閉ざした。

 あまりに悲しくて、胸が痛くて、溢れ出した涙が止まらなくなってしまっている。

(こんな私でも──愛してるって、おまえだけだって、そう言ってくれたのに──。
 あれは全て嘘だったと──もう一度会ったら、あなたはそう言うんだろうか……)

 暗い絶望に心を苛まれながら、零は携帯電話と、右手にはまったダイヤモンドの指輪を抱き締めていた。

 ──どうすればよいのか、何をすればよいのか判らない。

 叶う事なら、もはや何も考えないでいい場所に行ってしまいたかった。

 どこか遠くへ、苦しみも悲しみも感じないでいられる場所へ行きたい──本当に大切な愛する人を、醜く憎んでしまう前に。

(でも……それでも私は──あなたを愛してる)

 どこへ行ったとしても、鷲塚を忘れることも、この想いを止めることもできないだろう。

 震える唇から漏れ出る嗚咽を殺すように顔を枕に埋めた零は、忌まわしい身体を隠すように毛布を引き寄せた。

 顔の半ばまで毛布にくるまり、激しく鷲塚を求める魂に心を震わせながら、零は声を押し殺してすすり泣く。

(──どうして……私はあなたの傍に行けない?
 私の居場所は──海琉の傍だけだって…そう思っていたのに──)

 やがて、いつしか泣き疲れた零は、一時の安らぎを与える慈愛に満ちた腕に包まれるように、深い眠りの闇へと引き込まれていった。