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TearyDoll


17



 暗く、長い坂道を上がっていくと、ぽつんと浮かぶように咲妃の後ろ姿が見えた。

 声をかけようとすると、彼女はゆっくりと零の方を振り返り、冷たい眼差しを向けてくる。

「あんたはどうせ、奇形だったから捨てられたんでしょ?
 本当の事を知ったら、みんな気持ち悪がって、あんたの事なんて嫌いになるんだから。
 どっか行っちゃえ──あたしも、あんたなんか大嫌いよ!」

 鋭い矢のように突き刺さってくる言葉に、心が悲鳴を上げ、その痛みに涙を流し始める。

(──でも、私は……咲妃の事が大好きだよ。
 血は繋がっていないかもしれないけど、本当に大切な妹だって思ってた。
 お父さんも、お母さんも、咲妃も──みんな大事な家族なんだって、いつも思ってた。
 それでも、咲妃が幸せになれないなら……私はいなくなった方がいいんだよね。
 私は大人になったし、もう一人で生きてゆけるんだから、私が与えられていたもの全てを、あなたに返さなければならないのかもしれない)

 咲妃に謝りたいと思うのに、胸がつかえてしまったように言葉が出ない。

 息苦しくなって声を出そうとしたが、零の喉は声の出し方を忘れてしまったかのように、何の音も発しなかった。

 そんな零を侮蔑するように見つめ、咲妃はくるりと踵を返すと、そのままどんどんと暗闇の中へと走っていってしまった。

 ぽつんと闇の中に取り残され、零は星も月も見えない夜空を仰いだ。

 四方から黒く、高い壁がどんどん迫ってきて、零を閉じこめようとしている。

 声を失ってしまった零は、救いを求めるように、暗い夜空に向かって両手を差し伸べた。

(海琉──どうか、私を助けて……もう一度だけ、私を抱いて。
 どうして生まれてきたのか、どこに行けばいいのか──私にはもう、何も判らないよ。
 こんな身体を抱えて一人で生きていかなければならないのなら、このまま、私は死んでしまった方が楽になれる?)

 本当に大切な居場所を失ってしまった今、闇が勢いを増して押し迫ってくる。

 ──逃れられる場所は、もうどこにも無かった。

 孤独に押し潰される恐怖に怯え、セピアの瞳から涙が溢れ出す。

 失ったものはあまりにも大きくて、それを取り戻す術のない激しい悲しみに、心が張り裂けてしまいそうだった。

 その時、不意に自分を包み込む暖かな腕と、頬に落ちる優しいキスの感触を思い出し、零は切なさに耐えきれず、震える声を漏らしていた。

「──海琉……助けて……私を…助けて──」


 絶望の闇の中でもがく自分の声に意識を揺さぶられ、零はふっと瞳を開いた。

 夢の中でもずっと泣き続けてしまったのか、頬を流れ落ちてゆく涙の感触に気づく。

 濡れてしまった枕に顔を埋めたまま、零は瞳を見開いてぼんやりとしていたが、ふと何の音もしない静寂の空間にいる事を不思議に思った。

(──そうか……私、ホテルに泊まってたんだ)

 泣きすぎてしまったせいか、瞼が重く、腫れぼったく感じる。

 片手で両目をこすった零は、部屋の中がぼんやりと間接照明で照らし出されていることに気づき、小さくため息をついた。

 散々泣いて眠り込む前に、どうやらルームライトを消し忘れていたらしい。

 そこまで気が回らなくなってしまうほど、自分は動揺してしまっていたのだろうか。

 今は何時だろうと思い、零はベッドの上で上半身を起こした。

 枕元のサイドテーブルに設置された時計を見ると、デジタル時計は午前3時を示している。

(昨日、8時くらいには寝ちゃったからな……だからこんな時間なんだ)

 毛布の下で立てた膝の上に顔を載せた零は、もう一度ため息をついた。

(……これからどうしよう──洋服とか、いろいろ、海琉の部屋に置いてあるのに。
 やっぱり、取りに行かなきゃいけないよね)

 そう思った瞬間、気持ちがさらに重く沈んだ。

 あの高い天空の部屋で、鷲塚があの美しい女性と過ごしている光景を見るのは、きっと辛すぎて耐えられない。

 それぐらいなら、どんなに大変であっても、もう一度独り暮らしを最初からやり直した方がましなのかもしれなかった。

 いつの間にか消えているテレビの方に視線を向けた零は、突然、そのすぐ横に黒い影を見つけ、驚愕に喉を喘がせた。

 カーテンの締まった窓際に置かれている椅子に、その人影は気配もなく座っている。

 その瞬間、アパートで数人の男に襲われた記憶が脳裏にフラッシュバックし、零は恐怖に顔を強張らせた。

 しかし悲鳴が喉から迸る寸前に、唇を大きな手で強く塞がれ、そのまま凄まじい力で零はベッドに押し倒されていた。

「騒ぐな──撃たれたくなかったらな」

 ガチャリと冷たい鋼鉄の感触が額に当たり、零は愕然とセピア色の双眸を見開いた。

「逃走用の隠れ家にしては、ずいぶんとお粗末な場所を選んだな。
 俺から逃げたかったのなら、せめてもっと遠くに行くべきだった」

 耳を打つ厳しい響きを夢見心地で聞いていた零は、呆然としたまま、冷たく光ってさえ見える鋼色の瞳を見返していた。

 虚脱したように力を失った身体から身を離し、その唇からも手を引いた鷲塚は、しかし銃口を零に向けたまま冷然とした声音で問うた。

「逃げ出したかったなら、どうして戻ってきた?
 それとも、途中で怖じ気づいたか──俺に捕らわれる事に?
 だが、こうしておまえを見つけ出したからには、もう逃げることは許さない。
 一生、鎖で繋いで、おまえを俺の傍に縛り付けてやる」

 甘美にさえ響く傲慢で残酷な声を聞きながら、零は呆然として動くこともできずに、狂気すら帯びた無機質な双眸を見つめていた。

「……海琉──夢……?」

 自分が見ているものが信じられず、零がぽつりと呟くと、闇の中から突如として現れたかのような男は、眉間に険しく皺を寄せた。

「──これは……夢じゃない?」

「まだ、寝ぼけてるのか、零?
 夢だと思っていられるのも、今だけだぞ」

 ショックで惚けてしまっているような零に呆れたのか、鷲塚の声音が少しだけ和らいだ。

 しかし、その声で名前を呼ばれた瞬間、魂の中で押し殺されてきたものが突然弾け、零は無我夢中で鷲塚の首に抱きついていた。

「──海琉……っ」

 何も考えられなくなり、零のセピアの瞳から堰を切ったように涙が溢れ出す。

 言葉を紡ぐことすらできず、ただ愛する者の名を呼んだ零は、声を上げて泣き出した。

 暗い闇の中で迷子になり、独りで彷徨っていた心が、ようやく本当の居場所に帰り、大切な存在に邂逅する。

 そんな安心感と幸福感に充たされ、自我を保つために張りつめていたものが崩れ去ると、零は幼子のように泣きじゃくることしかできなかった。

 あまりにも突然飛びつかれ、大声で泣き出されてしまうと、さすがに意表を突かれたのか、一瞬、鷲塚の思考回路は全てフリーズした。

 零が恐怖に怯えたのなら、あるいは言い訳をしたなら──おそらくもっと残忍な気分になっていただろう。

 しかし拳銃を突きつける自分の前に、あまりにも無防備に身を投げ出され、抱きついてくるというのは予想外の行動で……と言うよりも、想定すらしていなかった。

 ただ、苦しいほどにしがみついてくる腕も、胸を濡らす涙も、甘く香るしなやかな身体も、まぎれもなく現実のものであり、鷲塚の胸の奥に不思議な暖かみが広がった。

 抱き締めずにはいられなくなる──これほど、この柔らかく、優しい温もりを求めたからには。

「──零……おまえはもう、俺から逃げられないぞ」

 華奢な背中に腕を回し、うなじを引き寄せるように零を抱き締めた鷲塚は、細い肩を震わせてすすり泣く不可思議なほど愛しい存在に囁いた。

 ため息のような吐息と共に静かな声が耳元に落ち、その甘美な誘惑に捕らわれるまま、零は何度も、何度もうなずいていた。