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TearyDoll


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「ただいまー!
 あ〜、もう、遅れちゃう──お母さん、ご飯、先に食べてくからね」

 バタンと玄関の扉が閉まるのと同時に、慌ただしく駆け込んできた鳴川咲妃(ナルカワ サキ)は、リビングのソファに鞄を放り出すと、そのままテーブルについた。

「そんなに急いでどうしたの?
 だって、まだ時間あるでしょう?」

 驚愕して壁にかかった時計を見上げた美弥子は、当惑したようにそう言った。

「何だっていいじゃない。
 とにかく、急がないと遅れちゃうんだから!
 今日、遅れるわけには絶対にいかないの──お兄ちゃん、そこのドレッシング取って」

 ぴしゃりと言って母親を黙らせた咲妃は、自分の皿にサラダを取り分けながら、茶碗にご飯をついでいた零に呼びかけた。

 紺色のブレザーに、グレー地にチェック模様のプリーツスカート、丸襟の白シャツにはワインレッドのリボンタイという制服姿のまま、もの凄いスピードで夕食を片づけている咲妃を、零は呆気にとられたように見つめていたが、会話をしようと妹の隣に座った。

「咲妃の行ってる予備校って、そんなに大変なの?」

 駅前に立っている予備校の大きなビルを思い出し、零が訊ねると、咲妃は揚げ上がったばかりの天ぷらを突っつきながらうなずいた。

「──あたし、特進クラスだから。
 毎月一回、クラス分けテストがあるから、気を抜いてられないんだよね。
 ぼんやりしてて、クラス落っこちたら嫌じゃない」

 咲妃の通っている予備校では、特進クラスに入った生徒の中でも特に優秀な特待生に対してては、授業料を免除しているそうだった。

 その代わり、大学合格率を上げるため、国立大学や有名私立大学の入試試験をいくつも受けなければならないらしい。

 そういう説明を母親から聞かされていた零は、学校でも学年トップの成績を維持しているという咲妃の学力に驚嘆したが、誇らしいと思いつつも何故か無償に心配になった。

(借金があったせいで……咲妃も無理してるんじゃないかな──)

 咲妃が中学から通っている聖華女学園は、どちらかというと優雅なお嬢様学校というイメージが強く、そのままエスカレーター式に大学部に進む生徒が多いという話だった。

 高等部から学園外の大学に進む生徒の割合は、全体の二〇パーセントにも満たない。

 学園内で才女として有名な生徒だけが、いわゆる一流大学に進学し、他の生徒たちは気ままに学園生活を楽しむ。

 よほど成績が悪く、素行不良でもなければ、ほとんどの生徒が持ち上がりで大学部に進めてしまうのだから、必死で勉強する必要もないらしかった。

 しかし学校の知名度を上げるためには、有名大学に進学する生徒の存在は絶対に必要であるらしく、聖華女学園でも学費の半額免除という特待生制度が設けられているらしい。

 そして、このままゆけば、咲妃が特待生に選ばれることは間違いないようだった。

「そっか……本当に大変そうだね」

 何と励まして良いのか判らなくなり、零は曖昧な言葉を呟いていた。

 零の複雑な心境を感じ取ったのか、咲妃はちらりと上目遣いで美しい兄の顔を一瞥した。

 しかし言葉にしては何も言わず、ただ目の前にある料理を口に運んでゆく。

 そのまま黙々と食事を進める咲妃を、零は不思議な思いで見つめていた。

 零が実家で暮らしていた頃、咲妃はまだ中学生であった。

 その当時はいつも「お兄ちゃん」と話しかけてきていた咲妃が、高校生になった途端、急に大人びてしまったような気がする。

 もともと父親に似て凛々しく見える端整な顔立ちだけに、むっつりと黙り込んでいると怒っているようにも見え、離れていた時間の長かった零は戸惑ってしまう。

 思春期ということもあって咲妃の感情はひどく不安定であり、何を話せばよいのかと零は思いめぐらせた。

 と、その時、箸を置いた咲妃が、急に零の顔を凝視した。

「──ねえ、お兄ちゃん、清塔学園の安斉さんって知ってる?」

 微笑みのない咲妃のクールな表情に驚き、零は思わず首を傾げていた。

「安斉? えっと……僕と同じ学年にはいなかったと思うけど──」

「今、高三だから、お兄ちゃんが受験の時、1年だったはずなんだ。
 でも……そうだね、覚えてないか。
 結構、清塔でも有名人だって噂なんだけどさ」

 自分自身を納得させるように呟いた咲妃は、ふっと微かな笑みを浮かべた。

「その安斉君がどうかしたの?」

「……別に何でもない。
 あたしと同じ予備校にいて、予備校でやっぱり有名人だから、お兄ちゃんも知ってるかなあって思っただけ。
 ──ごちそうさま。
 遅れちゃうから、そろそろ準備してこなきゃ」

 そう言って、咲妃は軽く肩をすくめてみせると、テーブルを立った。

 食べ残しもせず、たった15分の間に食事を終えた咲妃に感心しながら、零は妹が口にした名前をもう一度思い出そうとしてみた。

 しかし、どこかで聞いたような気もするが、思い出せない。

 同学年であれば何となく全員の顔を覚えているのだが、学年が違っていると、その中でも特に目立っていた生徒ぐらいしか覚えていなかった。

(……海琉みたいにインパクトが強ければ、絶対に忘れないんだろうけどね)

 彼の制服は、詰め襟の学生服だったのか、それともブレザーだったのか……。

 鷲塚の高校時代を想像してしまい、可笑しくなって思わず微笑んでいた零は、母親の不思議そうな声ではっと我に返っていた。

「どうしたの、零君? 嬉しそうな顔しちゃって」

「な…何でもない。ただの思い出し笑いだよ」

 照れを隠すように、顔の前で手を振った零を見つめ、美弥子は悩ましげにため息をついた。

「零まで『何でもない』なの?
 最近、『何でもない』と『関係ない』って言葉を、咲妃から聞かされてばっかりだから、その言葉を聞くと、お母さんがっくりきちゃうわ。
 思春期だから仕方ないんだろうけど……」

 嘆かわしげに母親がそう言った直後、零と咲妃の父親である栄一郎が帰宅し、スーツ姿のままダイニングルームに入ってきた。

「──おかえりなさい、栄一郎さん」

「おかえり、お父さん」

 美弥子と零の顔を見つめ、「ただいま」と応じた栄一郎は、スーツジャケットを脱ぎながら、困惑したように首をひねっていた。

「──なあ、咲妃に何かあったのか?
 洗面所で、いやに真剣に鏡を見てるんだが……。
 手を洗おうとしたら、『キッチンで洗って!』って怒られたぞ」

「あら、さっきまで塾に遅れるって大騒ぎしてたのに、大丈夫なのかしら?」

 栄一郎からジャケットを受け取った美弥子は、バスルームの方を心配そうに見やると、夫と同じように首を傾げた。

 養子である零とは違い、咲妃は確実に自分たちの血を引いているというのに、その一人娘の心理が全く判らない。

 困りきって顔を見合わせている両親を見つめていた零は、静かに椅子から立ち上がった。

「ちょっと、咲妃の様子を見てくるね。
 お父さん、テーブルにグラスは用意してあるから、先にビール飲んでいてよ。
 後で、僕もお相伴するから」

 その言葉を聞き、栄一郎は驚愕したように零の顔を見つめると、途端に明るい表情になってうなずいた。

「──そうか、零も、もうそんな年になるんだなあ。
 子供たちが大きくなったら、酒を呑みかわしながら、人生を語るのが俺の夢だったんだ」

「酔っ払いの長話に付き合わせたら、零が可哀相じゃありませんか?」

「酔っ払わない程度に呑むからいいんだよ」

「そう言いながら、あなたはいつも酔っ払っているじゃないの、栄一郎さん」

 夫婦漫才のような会話を始めた両親を微笑ましく思いながら、零は妹がいるバスルームへと足を向けたのだった。