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TearyDoll


21



 軋むような音を立てるエレベータで1階に下りると、鷲塚は零の腕をつかんで歩きながら、エントランスへと向かった。

「あっ、私──チェックアウトしなきゃ……」

 零が慌てたように言って立ち止まると、鷲塚は仕方なさそうに歩みを止め、まだ若いホテルマンが立っているフロントを振り返った。

「チェックアウトは済んでいるし、キーも返した。
 ──本当は、すぐにおまえを連れ帰るつもりだったんだがな」

 鷲塚の言葉に驚き、零はセピアの瞳を大きく瞠った。

「えっ? でも……どうやって? それに…そう言えば、海琉はどうして部屋に入れたの?」

 零の問いを聞き、鷲塚は皮肉げに唇の片端をつりあげると、強い輝き放つ金属的な双眸を眇めてホテルマンを見つめた。

 その途端、フロントの青年の顔がさあっと青ざめ、意味もなく首を横に振ったり、うなずいたりし始めた。

「さあ、どうしてだろうな──多分、物わかりのいいフロントのおかげだろう」

 くくっと喉の奥で低く笑った鷲塚は、怪訝そうに首を傾げた零を見下ろし、いかにも何かを隠しているような謎めいた微笑を浮かべた。

 零が泊まっている部屋のドアを開けろと鷲塚が要求した時、最初は当然断られた。

 しかし、目の前に札束が振ってきた時、「できない」と渋っていたフロント係の正義感と意地はあっさりと砕けた。

 防犯カメラに写らないよう、彼の襟ぐりをつかんで引き寄せ、心臓の真上に拳銃を突きつけて脅迫したことも、多少の効果があったのかもしれない。

 どちらにしても、「絶対にホテルに迷惑はかけない」と告げた鷲塚を信用した──あるいは必死で信じようとしたフロントマンは、マスターキーを使い、零が宿泊している部屋のドアを開けたのだった。

 その後、チップにしては多額の万札を口止め料として握らせ、サイドテーブルに置いてあったルームキーを返却した鷲塚は、顔面を蒼白にして冷や汗をかいている青年に指示をすると、さっさとチェックアウトを済ませてしまったのである。

「ドアを開けてって言ったら、ホテルの人って開けてくれるんだ」

「時と場合によってはな」

 零が不思議そうに呟くと、鷲塚は軽く肩をすくめて曖昧な言葉を返した。

 「ふーん」と納得したようにうなずく零をちらりと見下ろし、鷲塚は内心で苦笑した。

 一流と言われるホテルであれば、今回のように強引な手段は通用しなかったかもしれない。
 今にも潰れそうな安ホテルであったからこそ、従業員を簡単に買収できたのだ。

 最初は見つけ次第すぐに連れ帰ろうと考えていた鷲塚だったが、小さなベッドで身体を丸めるようにして眠っている零を見た途端、何故かそれまで猛り狂っていた感情が鎮まった。

 閉ざされた瞼から溢れ出した涙が、白い頬を伝うのを見てしまったせいかもしれない。

 その姿は憐憫を呼び起こすほど儚く見え、いつの間にか鷲塚は枕元で身を屈めると、涙に濡れた頬に口づけを落としていたのだった。

 

 特徴的な外観の超高層マンションが見えてきた時、零は小さなため息をついていた。

 昨日、あのマンションの姿を最初に見た時、零の心は純粋な喜びに満たされた。

 ところがその歓喜は一瞬で悪夢に変わり、もう二度と戻れないのだという絶望に襲われた。

 あれからまだ1日しか経っていないというのに、もうずいぶんと時が流れたような気がする。

(やっとあそこに帰れるんだ……すごく遠回りをしてきたような感じだな)

 窓に映った自分に向かって小さく笑いかけた零は、無言で運転をする鷲塚の秀麗な横顔をちらりと見つめた。

 それを感じたのか、鷲塚は正面を向いたまま、視線だけを零に向ける。

「──何だ?」

「何でも無いんだけど──……何故か、あの部屋がとても懐かしく思えてしまって」

「あれだけいろいろな事があって、俺にもいろんな事をされて──それでも、懐かしいのか?」

 からかうような微笑が刻まれた唇を見た途端、零は顔を赤らめてしまい、近づいてくるマンションを見つめるように顔を背けていた。

 マンションの地下駐車場で車から降りた零は、全てが初めて見るような新鮮なものに思えた。

 きょろきょろと駐車場を見渡していると、零の荷物を降ろした鷲塚が、先導するように内部へと続くガラス扉を開ける。

 厳しいセキュリティーシステムが設けられているらしく、その自動ドアを開けるためには、ルームキーとは別に暗証番号が必要であるらしかった。

 そのドアの向こうには、さらにもう一枚別のドアがあり、自動ドアに挟まれた空間には2台の監視カメラが天井近くに設置されている。

 物珍しげに振り返りながらエントランスをくぐり、シックな内装のエレベーターホールまで歩いていった零は、天井から吊されたシャンデリアを見上げた途端、エレベーターを待っていた鷲塚の背中にぶつかった。

「……まったく、何をやっているんだ、おまえは?」

 ホールに響く少し呆れたような鷲塚の声を聞き、零は首をすくめた。

「ごめんなさい──やっぱり、初めて見るような気がしちゃって」

「初めてって、何度もこのエレベーターは使っていただろう」

「そうなんだけど、あんまりじっくり見ている余裕が無かったんだよね、きっと」

 照れたように微笑む零の顔をしばらく見つめていた鷲塚は、軽い嘆息とともに広い肩をすくめて見せた。

 その時、チンと軽やかなベルの音が響き、エレベーターのドアが開いた。

 促されるようにエレベーターに乗り込んだ零は、昨日出会った女性の事を思い出しながら、ふと階数表示パネルを見つめた。

 そこには地下1階と、1階、そして最上階である54階の表示しか存在していない。

(すごい……これって、海琉の専用エレベーターなんだ)

 そういえばいつも直通だったと思い出し、感心してパネルをじっと見上げていた零は、その時、ふと違和感を覚えて柳眉をひそめていた。

(──あれ? 昨日は確か、最上階は53階だったような……)

 一緒に乗っていた女性との衝撃的なやり取りを必死で思い出しながら、零はほとんど瞬きもせずに階数ボタンを見つめていた。

「あの……海琉──このビルって…何階建て?」

 唐突な零の質問に、鷲塚は訝しげに片眉をつりあげた。

「地上部は54階──俺の部屋が最上階だからな。
 ただし、分譲物件としては53階までだから、宣伝広告では53階となっているはずだぞ」

「じゃあ、正面玄関から入ったところのエレベーターは、全部53階止まりってこと?」

「わざわざ、他人と一緒に乗る必要もないだろう。
 俺のような職業の人間にとってセキュリティーは重要だし、いちいち他の階に停まっていては時間もかかる。
 中央エレベーターの数は多いが、それでも朝はラッシュ状態になるらしいからな」

 その説明の半分以上は、零の耳には入っていなかった。

 エレベーターが最上階に達し、するするとドアを開放した時、零は茫然としたまま大理石の張られたホールに足を踏み出していた。

 言葉も無くぐるりと内装を見渡した零は、不審げに見下ろしてくる鷲塚を見上げると、今にも泣き出しそうな表情で呟いていた。

「あのね……昨日、多分……私──下りる階を間違えちゃったみたい」

「──間違えた?」

「だってね、一番上の部屋だってことは覚えていたんだけど、53階なのか54階なのかまでは覚えていなくて……。
 エレベーターの最上階が53階だったから、きっと53階なんだって思ったんだよね。
 中央エレベーターが53階止まりだなんて、さっきまで知らなかったし……」

 必死で弁解しながらも、徐々に声は消えそうなほどに小さくなる。

 セピアの視線を上げた零は、険しく鋼の双眸を細めた鷲塚の顔を見てしまい、自分があまりにも情け無く思え、ぽつりと謝っていた。

「──ごめんなさい」