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TearyDoll


26



 ──……お帰りなさい。

 その言葉はぽとんと胸の中に落ち、静かに波紋を広げていった。

(……私、ここに帰ってきても良かったんだ──)

 この部屋には愛する人がいて、零を温かく迎えてくれる人がいる。

 自分の存在が許される場所があるというのは、本当に幸福な事なのだろう。

(独りぼっちになるのは……やっぱり辛いことだもの。
 受け入れてくれる人がいるから、こんな私でも生きていける──生きていてもいいんだ……)

 ふうっと沸き上がった涙が目尻からこぼれ落ち、雫となって白い頬を伝い落ちる。

 それを見た途端、慌てふためくように周囲を見回し始めた新堂を見上げ、零は泣き笑いの表情を浮かべたまま、手の甲で涙をぬぐった。

「ごめんなさい、新堂さん──ちょっといろいろあったから、余計に感動しちゃいました」

「え〜と……かなり格好つけすぎましたかね、俺。
 ──でも、零さんが早く帰ってこないかなあって、みんなが言ってたのは本当ですよ。
 薫さんもそうだし、真那って子やカッツェのマスター……その他にもいろんな人が。
 まあ、高宮の兄貴は何考えてるか判りませんけどね」

 指先で頬を掻きながら、照れ隠しのように笑った新堂は、零が出ていった時とほぼ同じ状態が保たれているキッチンを見渡した。

「『この部屋は零のものだから、そのままにしておけ』って言ってたんですよ、若頭。
 ほら、模様替えの途中だったじゃないですか。
 零さんが帰ってきたら好きなようにできるように、ほとんど誰にも触らせなかったんです。
 それに、零さんが前に住んでたアパートも、そのままにしてあるんですよ。
 引き払うのは整理が終わってからでいいって、そうも言ってました」

「──そんな事、海琉は一言も言ってませんでした」

 零が驚いたようにセピアの瞳を瞬かせると、新堂はくすくすと笑った。

「うーん、若頭は多くを語るタイプではないですからねえ。
 俺が喋ったってばれたら、それこそ蹴り飛ばされるかもしれないです。
 他にも零さんが知らない事、結構たくさんあるんですよ。
 でもそれをばらしちゃったら、零さんを驚かす若頭の楽しみをとっちゃう事になりますから、俺はもうこれ以上は喋りません」

 悪戯っぽく微笑み、軽くウィンクをした新堂を見つめたまま、零はつられたようにふわりと微笑を浮かべた。

 居心地の良い部屋を作ろうとして、途中で放り出してしまっている広大なリビングルームを見渡した零は、壁一面に広がる窓を見てふと視線を止めた。

「──あっ……雨が降ってきましたよ」

 遠くに沸き立っていた雨雲が、いつの間にか移動してきたのだろう。

 ぽつぽつと窓ガラスを濡らしていた水滴は、やがて風景を鈍銀色に塗り替えるほどの雨となっていた。

 窓ガラスが分厚いせいなのか、雨音は聞こえてこない。

 新堂が作ってくれた温かいカフェオレを口に運びながら、零はぼんやりと窓の外を見つめていた。

(この部屋で、雨が降るのを見たの──私、初めてかもしれない……)

 ここに閉じこめられていた間、空は零を慰めるようにいつも綺麗に晴れ渡っていて、遠くの方まで見渡すことができた。

 だが、この部屋で毎日を過ごすようになれば、晴天ばかりでなく、曇りや雨、そして嵐や雪が降るような光景も見るようになるのだろう。

 時が流れ、季節が巡る。

 その移り変わりを、この場所で見つめながら生きてゆく……鷲塚と共に──。

 何かに惹かれるように椅子から立ち上がった零は、窓の前に立ち、白い薄霞に隠れてしまっているような地上を見下ろした。

 色彩のコントラストを失った下界の風景は、零が今までに見たことがないようなものであり、何故かひどく心が騒いだ。

「──雨がこんなに近くから降ってくるなんて……」

 明るいセピア色の視線を窓の向こうに向けたまま、ぽつんと呟やかれた言葉を聞き、新堂は訝しげに首を傾げた。

 自分の言葉がおかしくなり、零は新堂に笑いかけると、もう一度地上を見下ろした。

「変ですよね──何を言ってるのか、自分でもよく判らないんです。
 でも、これが海琉が見ていたいつもの雨の日だとすれば、私と海琉の間には、もの凄い差があるんだろうなって……。

 ──傘を差して歩いていると、雨って地面に跳ね返るでしょう?
 靴が濡れたり、服が汚れたりして嫌だなあって、私はいつも思ってました。
 でも、ここで見る雨はそうではなくて──雲から降ってきた雨が、この場所を通り過ぎて、もっと下の方に、今まで私が立っていた場所まで落ちていくんです。
 私が見ていた雨と、海琉が見ていた雨の風景は……こんなにも違う。

 ……私が生きてきた世界と、海琉や新堂さんが生きている世界は、そのぐらいかけ離れているものなのかもしれないですね」

 零の話を黙って聞いていた新堂は、不意に真顔になって問い返した。

「零さんは──若頭や俺達の世界の事を、理解できないと思ってるんですか?」

「──理解できないというより、見てきたものが全然違うんだろうなって思います。
 でも、私は海琉の傍にいて、これからは一緒に生きていきたい。
 ここに住んでいれば、海琉が見ているものも、少しは見えてくるかもしれないですよね。
 不安はあります──たとえ同じ場所に立っていても、やっぱり私には見えないものもあるでしょうから。
 ただ、ずっと一緒に見続けてゆけば、いつか海琉の見ているものが、私にも判るようになると思いたいんですけど……」

 寂しげな微笑を唇に浮かべた零は、銀灰色に煙る地上を見下ろす新堂の横顔を見上げ、淡々とした静かな口調で訊ねた。

「新堂さん──あなたは、私がこの場所で生きていけると思いますか?」

 この部屋に留まれば、否応なく零は鷲塚の運命に巻き込まれることになる。

 ずっとカタギの生活を送ってきた零が、極道世界でも有名な鷲塚の傍で、何事もなく平穏無事に生きてゆくことができるのだろうか?

 何事もなく、平穏にというのは無理だろうと思い、新堂は苦い笑みを浮かべた。

「正直なところ、俺にもよく判りません。
 ただ──どうか、若頭の傍にいてあげてください、零さん。
 若頭の事を判ってあげられるのは、きっと零さんしかいないんだと思います。
 だからこそ若頭は、零さんの事を必死で守ろうとしているんですから。
 あの人にとって……零さんは誰よりも必要な人なんだと思います」

 雨の光景を見つめながら話す新堂の横で、零も同じ光景をもう一度見つめた。

「──ありがとうございます、新堂さん」

 清雅な天使を思わせる優しく、少し切なげな微笑みを見てしまった新堂は、訳も分からぬ混乱に襲われ、意味のない咳払いをした。

 心臓が急に鼓動を速め、このまま同じ空気の中にいると、思わず危険な衝動に駆られてしまいそうである。

 ただでさえ密室の中に2人きりなのだから──ブレーキをかけるのは自分自身の自制心しかなかった。

「感謝しなければいけないのは、俺たちの方です。
 零さんが帰ってしまってから、若頭の機嫌が悪くて、悪くて……。
 本当はもっとゆっくりして来てもらっても良かったんでしょうけどね。
 でも、俺たち的にもそろそろ限界だったかも。
 若頭がイライラしていると、事務所の中が重いやら、寒いやら──みんな、押し潰されてどんよりムードでしたからねえ」

 おちゃらけた口調で言いながら、空虚で、乾いた笑い声を立てた新堂は、零との距離をとるためにキッチンの方へと足早に戻った。

「──あ、零さん、お腹空いてるんじゃないですか?
 昼ご飯、何が食べたいです? 遠慮なく言って下さいね」

「朝ご飯用意してもらったのに、食べ損ねちゃったんですよね、私。
 冷蔵庫の中とかに、何か残ってないかなあって思ってたんですけど」

「冷蔵庫の中は、キレイに空っぽです──自炊するんだったら、買い出しに行かないと」

 大きな冷蔵庫の中をのぞきこんだ新堂がそう言うと、零は以前の状態を思い出して笑い出してしまった。