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TearyDoll


27



「今日は雨も降っているし、零さんも帰ってきたばかりだから、買い物に行くのは明日にしましょう」

 と言った新堂の言葉に従い、その日の昼食は久しぶりに店屋物を注文することになった。

 しかし、出前とは言っても、それは零の想像を遙かに越えたものだった。

 鷲塚の名を出して電話を掛けると、デリバリーサービスなど絶対に行っていないような高級料亭から、店内で食べる料理と同じものが届けられる。

 テーブルセッティングまでもやってくれるのは驚きであり、零は別世界にまぎれ込んだような気分を味わった。

(──前もちょっと思ったけど……海琉って、どういう食生活送ってたんだろう)

 以前のキッチンを思い出してみれば、鷲塚が自炊をするなど絶対にありえない事なのだが、外食で費やす毎月の費用を考えただけで、零は目眩を覚えた。

(聞いたことないけど、いろんな店を食べ歩いていたら──1ヶ月で百万円ぐらいは軽くかかっちゃうよね。
 それを毎月やってたら……1年で1千万円超えるんだ……食費だけで──)

 そんな事を考えながら食べていたせいか、せっかく高級料亭から運ばれてきたランチの味も、美味しいには違いないが、何が美味しいのかいまいちよく判らなかった。

 しかし昨日から丸1日何も食べていなかったため、零は何とか並べられた料理を残さず食べきることができた。

 昼食後、しばらく新堂と雑談していた零は、連日の精神疲労と満腹感のせいか、身体が暖まるような心地よい眠気を感じた。

 小さく欠伸をした零を見て取り、新堂が小さく笑った。

「零さん、眠かったら、俺に遠慮しないで寝ちゃってください。
 その間に、俺はここでシノギ……いえ、仕事をやってますから」

「ごめんなさい──ずいぶん寝たように思ったんですけどね……何だか、疲れちゃってて」

 首をひねって、零は少し不思議そうに、戸惑っているように淡く微笑んだ。

 その瞬間、目に焼き付くような首筋のキスマークを思い出してしまった新堂は、「それはそうでしょう」と思わずうなずきそうになり、口から言葉が飛び出す寸前、慌てて違う言葉を探した。

「……ま、まあ、環境が変わると、誰だって疲れますよ」

 結局、芸の無い、曖昧な言葉を口にした新堂は、ごまかすように空虚な笑い声を立てた。

 と、その時、零の耳に、聞き慣れた携帯電話の着信メロディが届いた。

 ソファに置きっぱなしになっていたバッグから慌てて携帯電話を取りだした零は、「公衆電話」という着信表示に、思わず首を傾げてしまった。

「──はい、もしもし?」

 通話ボタンを押して応答すると、誰かの息を呑むような声が聞こえてきた。

 しかしそれっきり返答はなく、しばらくの間沈黙が続いた。

「……もしもし? あの……どちら様でしょう?」

 間違い電話だろうかと思い、もう一度零が声を掛けると、その途端、突然ぶつっと通話が途切れてしまった。

「零さん、どうかしましたか?」

 柳眉をわずかにひそめて携帯電話を見下ろしている零を見つめ、新堂が訝しげに訊ねた。

「……うーん、間違い電話だったのかな。
 よく判らないんですけど、急に切れちゃいました」

「相手は? 非通知だったんですか、ひょっとして?」

「非通知ってわけじゃないんですけど、公衆電話からかけていたみたいです。
 でも、私に用事があったなら、またかかってきますよね、きっと」

 怪訝に思いつつも、危機感のない明るい笑顔を見せた零とは反対に、新堂の方は驚くほど厳しい表情になった。

「零さん──多分、また若頭から言われるかもしれませんが、電話に出る時は極力注意してください。
 間違っても、非通知表示の相手や、知らない人間とは話さないでくださいね。
 公衆電話から掛けてくる相手なんて、なおさら怪しいんですから」

「でも、この携帯の電話番号、親しい人にしか教えてないですよ」

 きょとんとして零が新堂の顔を見返すと、彼はため息混じりの苦笑を浮かべた。

「調べようと思ったら、あなたの携帯ナンバーなんて、結構簡単に判ってしまうんですよ。
 それに、今までは問題無かったとしても、これからいろいろな事件に巻き込まれてしまうかもしれないんです。
 あなたを誘拐しようとするヤツが、利用する可能性は十分にあり得る。
 盗聴だって、何だって、やろうと思えばできるんですから」

 あまり詳しい説明をして零を怯えさせるのは良くないと思いつつも、鷲塚と暮らしていく以上は避けられない危険を零に理解させるため、新堂はそう警告した。

「私を……誘拐──?」

 自分のアパートで襲われた事を思い出し、零の顔からさあっと血の気が引いた。

 青ざめてしまった零がひどく可哀相に思えたが、新堂は表情を変えずにうなずいた。

「そうです、零さん──あなたは、若頭の最大のウィークポイントなんです。
 職業柄、若頭に敵は多い。
 若頭にダメージを与えるため、彼らがあなたを利用しようとする可能性は大きいんです。
 だからこそ、若頭は俺のような護衛をあなたの傍につけているんですからね。
 行動はかなり制限されるし、不自由な思いをするでしょうが、あなた自身を守るため、そして若頭を守るためにも、どうか無茶な行動だけは自重してください」

 硬く、厳しい口調で新堂が淡々と説明する。

 それを聞きながら、零は手の中の携帯電話を見下ろし、こくりとうなずいた。

「今度から気をつけます……海琉を──傷つけたくはありませんから」

「判ってもらえればいいんです。
 ただ、もしかしたらその携帯、若頭から変えろって言われるかもしれないですね。
 あなたに関しては、若頭も、相当に危機管理に神経を使っているみたいですから。
 よく判らない機能をたくさん搭載した最新機種を、いきなり渡されるかもしれませんよ」

 ほっとため息をつき、表情を和ませて笑った新堂を見つめ、零はくすりと唇に微笑を乗せた。

「『007』みたいに、追跡装置とか付いていたり?」

「それは間違いなく付いてますよ。
 若頭のパソコンに、零さんがどこにいるのか、いっつも表示されてるんです」

「何だかそれって、ずっと監視されているみたいですね。
 猫の首輪についてる鈴みたい。
 でも……どうせならテレビ電話みたいに、パソコンと繋げてもらおうかな」

「いいですね〜、若頭の機嫌が悪くなった時、笑顔で手を振ってあげてください」

 冗談交じりの会話に戻ると、緊張して重くなりかけていた空気が一気に和んだ。

 笑いながら、ふと窓の外に視線を向けた零は、降り続けている雨がさらに勢いを増していることに気づいた。

 新堂の携帯電話が鳴り始め、彼が席を立った後もしばらく、零はセピアの瞳を窓の外へと向けていた。

(──私はここで……海琉に守ってもらっているんだ)

 鷲塚の生きる世界がどれほど危険に満ちた場所なのか、本当はまだよく判らない。

 だが、ニュースで聞きかじった事件や、零自身が巻き込まれた事件を思い返せば、鷲塚の抱く危機感が決して杞憂ではないのだと納得できた。

 ふっと重いため息をもらした時、再び零の携帯電話が鳴った。

 先ほど新堂に言われた忠告を思い出し、今度はしっかりと表示を確認した零は、そこに『咲妃』という文字を認め、セピア色の双眸を驚きに瞠っていた。

 急いで通話ボタンを押し、少し緊張した声で応じる。

「──もしもし……咲妃?」

 一昨日の夜、喧嘩別れをして以来、零は妹の声を聞いていなかった。

 あれほどの激しい口論は初めてだっただけに、何をどう話して良いのか判らない。

 心の中で零は散々逡巡していたが、咲妃は黙り込んだまま、零の呼びかけに答えなかった。

「もしもし……咲妃なんでしょう?」

 おずおずともう一度零が呼びかけると、躊躇うような気配が感じられた。

 しかし次の瞬間、先ほど公衆電話からかけてきた謎の人物と同じく、咲妃は一方的に通話を切ってしまった。