Rosariel.com
TearyDoll


28



 ツーツー……と虚しい音を立てる携帯電話を呆然と見下ろしていると、電話を終えて戻ってきた新堂が驚いたように言った。

「ど…どうしたんですか、零さん? 気分でも悪いんですか?
 顔が真っ青になってますよ」

 新堂の声を聞いてはっと我に返った零は、急いでかぶりを振り、ぎゅっと携帯電話を握りしめた。

「妹から電話がかかってきたんですけど──切れちゃいました」

「妹さん? 切れちゃったって、電波が届かなかったんですか?
 それとも……喧嘩でもしちゃったとか?」

 ただ単純に切れただけならば、零がこれほどのショックを受けることも無いだろうと思い直し、新堂は軽く嘆息をもらした。

「俺も兄弟がいるから判りますけど、相手からわざわざ電話がかかってきたってことは、仲直りしたいっていう相手側の意思表示だと思うんですよね。
 でもいざとなると、何て言って謝ればいいのか判らなくなるんです。
 だから、零さんの妹さんも、言いたい事を整理したら、きっとまたかけてきてくれますよ」

「──そうでしょうか……」

 不意に美しいセピア色の瞳が涙で潤み、すがるような眼差しで見上げてきたため、新堂は壊れそうなほど速まった心臓をなだめるように、雨の降り続ける外の風景を眺めた。

「零さんの妹さん、確かまだ高校生でしょう?
 若い頃の兄弟喧嘩って、そんなに長引かないと思いますよ。
 俺ぐらいの年齢になっちゃうと、いろいろプライドや立場が出てきますから、何だかんだでずるずる引きずっちゃうんですけどね」

 軽く苦笑して肩をすくめた新堂は、腕時計に視線を落とした。

「7時半に『コロッセウム』で夕食にするって、今、若頭から連絡がありました。
 だから、6時ぐらいまでだったら、ベッドで休んでいても大丈夫ですよ」

「……『コロッセウム』?」

「若頭がオーナーやってる超高級クラブの名前ですよ。
 レストランやバー、スポーツジムやエステティックサロン、ホテルやゲームルームが一つのビルの中に入っていて、その全てが会員制なんです」

 「コロッセウム」の会員になるためには、厳しい審査にパスしなければならない。

 会員資格は様々であったが、一部上場企業の社員であっても、部長以下の人間では絶対に会員になれず、法人会員も認められていない。

 さらに一般個人会員の入会金は百万円、年間更新料が二百万円──これが特別待遇を受けられるVIP会員になると、入会金も更新料も一千万円を超えるという噂であった。

 一般人にしてみれば度肝を抜かれるような価格設定ではあったが、「コロッセウム」の会員であることはステイタスシンボルであり、最高級のサービスが受けられるということもあって、会員希望者は後を絶たない。

 レストランは全席予約制であり、タキシードやドレスといった正装、あるいはそれに準じる服装をしなければならないのだが、VIP会員であればある程度の融通がきく。

 さらにその地下には、一般個人会員には知られていない極秘のカジノや、秘密クラブが存在しているのだが、これを利用できるのはVIP会員だけであった。

「凄い所ですね……私、何を着ていけばいいんでしょう?」

 新堂の説明に驚愕し、呆然としていた零は、ラフな格好をしている自分自身を見下ろした。

「ああ、零さんだったら、別に何でもオッケーですよ。
 レストランは個室だから、他のお客に見られる心配も無いですからね」

 新堂の言葉にうなずいた零は、掌に収まっている携帯電話を見下ろし、もう一度小さくため息をついた。



 新堂が運転するベンツに乗り、零は「コロッセウム」へと向かった。

 何を着て行っても良いとは言われたものの、高級レストランに入るのに普段着のジーンズ姿ではさすがにまずいと思い、零はクローゼットの中で散々悩み込んでしまった。

 結局、零が選んだのは──以前、ローウェル・グループのパーティで着た、モーヴ・ピンクのシフォン・ドレスだった。

 さすがにドレス一枚だけでは肩や背中が露出しすぎているように思え、同じ色と布地を使ったストールを肩に羽織る。

 『暁の星』というテーマで作られたオートクチュールのそのドレスは、纏うだけで華やかな気分になり、そして切ない思い出を思い起こさせた。

(……あの頃は──海琉にはフィアンセがいて、私はただの愛人で……飽きられたら風俗に売られちゃうんだって思ってたから……)

 軽く袖を振ると、縫い込まれた小さな宝石と銀色の刺繍がきらきらと光る。

 ただ一時の夢なのだと自分に言い聞かせ、必死に微笑んでいたあの日が何故か懐かしい。

(──いつの日か、あなたも選べる日がくればいいわね……)

 不意に、高級ブティック「ラ・ルーナ」のオーナーが言っていた言葉が蘇り、セピア色の瞳に涙が浮かんだ。

(海琉が私を選んでくれたから──私は、海琉と共に生きることを選べた。
 だからもう、たとえ何を失ったとしても、私は海琉と一緒に生きていきたい……)

 雨に濡れる車の窓から、高層ビルの連なる夜景を見つめた零は、流れ落ちた一粒の雫を隠すように、そっと目尻を指先で拭った。

「コロッセウム」は、濃いスモークがかったガラスに、街の夜景を反射している十階建てのビルだった。

 看板などは何も無く、一階には高級ホテルのような車寄せのあるエントランスがあり、その正面には大きな大理石の噴水が配置されていた。

 全体的に曲線を描くようなビルを守るように、入り口にはタキシードで正装をしたポーターたちが礼儀正しく立っている。

 何も知らずにうかうかと入ろうとすれば、慇懃だが断固とした口調で「お帰りください」と言われてしまうのだろう。

 顔を知られているのか、新堂がベンツから先に降りると、ポーターの一人が一度恭しく頭を下げて歩み寄ってきた。

「車はいつもの場所に置いておいてくれ」

「かしこまりました、お回ししておきます」

 車のキィをポーターに渡し、新堂は零のためにベンツのドアを開けた。

「──どうぞ、零さん。若頭も、他の皆さんも、もう中で待っているそうです」

 緊張のあまり、背筋を伸ばしてシートに座り直していた零は、新堂に強ばった表情を向けた。

「……他の、皆さんって──誰なんですか?」

 日頃履き慣れない華奢なヒールが、磨き抜かれているような大理石の床で滑らないように注意しながら、零は導かれるままエレベーターに乗り込んだ。

「高宮の兄貴と、古谷さん、それに東山社長──あと、薫さん。
 これからちょくちょく会う人達に、若頭が零さんを正式に紹介しておきたいって言ってました。
 若頭にとっては身内みたいな人達ですから、そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」

「もっと早く教えておいてくれれば、少しは心の準備ができたのに……」

 鷲塚にとっては身内かもしれないが、零はまだ彼らに数える程度しか会っていない。

 薫は気心も知れているが、他の男たちは……お世辞にも親しみやすいとは言えなかった。

 鷲塚の補佐をしている高宮は、何を考えているか全く判らない無表情であるし、見上げるほどの巨漢であるため、言いようのない威圧感がある。

 会計事務所にしては大きな会社の社長である古谷は、元荒神会の幹部であるだけあって、中肉中背だが一般人には持ち得ない俊敏で鋭利な雰囲気があった。

 そして東林総合警備株式会社の社長である東山は、理知的なエリートサラリーマンのような風貌だったが、眼鏡の奥にある双眸にはただならぬ光があった。

 顔立ちは秀麗であり、穏やかに微笑む紳士であるのだが、頭の先から爪先までじっくりと観察されているような気配がする。

 相手を観察するのは、おそらく彼の職業的な癖のようなものなのだろう。

(でも……ちょっと緊張するんだよね──いつも見られてるみたいな感じがするし)

 零がふっと嘆息をもらすと、途端に新堂が心配そうな視線を向けてきた。

 慌てて零は明るく微笑み返し、気後れして見えないように背筋を伸ばす。

 このドレスを着ている時は堂々としていなさいと、「ラ・ルーナ」のオーナーは言っていた。

 ならば、鷲塚に恥をかかせないためにも、自信を持って胸を張っていよう。

 右手の薬指に嵌められている指輪の感触を確認するように、零はぎゅっと手を握りしめ、エレベーターのドアが開くのを見つめていた。