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TearyDoll


29



 エレベーターは最上階である10階で止まり、静かにドアが開いた。

 ゆったりとしたクラシックがBGMで流されている豪華なホールに零が踏み出すと、あたかも二人が来ることが判っていたかのように、タキシードを着た壮年の紳士が一礼してきた。

「『コロッセウム』にようこそいらっしゃいました、鳴川零様。
 私は当ビルの総支配人、都筑(つづき)と申します」

 都筑と名乗ったその紳士は、一言で言い表すならまさに「ロマンスグレー」といった雰囲気の男性だった。

 物腰は上品でありながら堂々とした威厳も感じられ、まさに総支配人に相応しい風格である。

「あ……あの、はじめまして──鳴川零です」

 他に客の姿が見当たらない重厚かつ豪華なその場の雰囲気と、父である栄一郎よりも年輩な紳士に頭を下げられた事にどぎまぎし、零は思わず見習うように深くお辞儀を返していた。

 零を見返す都筑の目が細められ、さらに穏やかで親しみやすい微笑みが浮かぶ。

「別室でオーナーがお待ちになっておられますので、先にそちらにご案内いたします。
 新堂様は、どうぞお席の方に──」

 都筑が軽く手を挙げたのを合図に、後方に控えていた若いウェイターが進み出た。

 やはりタキシード姿の若いウェイターに新堂が導かれていくと、都筑は零をエスコートするように反対側に続く廊下を示した。

「そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですよ、鳴川様。
 どうぞ気持ちを楽にして、今後とも『コロッセウム』をご利用ください」

「ありがとうございます……でも、何だか場違いな所に来ちゃったみたいな気がします。
 私は、こういう場所には今まで一度も来た事がないので──」

 緊張を和らげるように話す都筑の横を歩きながら、零はため息混じりに正直な感想を言った。

「誰だって最初は緊張するものですが、慣れてしまえばすぐに平気になりますよ。
 あなた様は特に特別なお客様なのですから、他のお客様の事はどうぞあまりお気になさらないでください」

 零を見下ろし、穏和な微笑を唇に浮かべた都筑は、廊下の最奥にある重厚な木製のドアの前で立ち止まった。

「──失礼いたします。鳴川様をお連れいたしました」

 軽くノックをして都筑がドアを開き、零に部屋の中に入るように促した。

 大きな窓を横に見るように配置されたデスクに、スーツ姿の鷲塚が座っているのが見える。

 その部屋はまるでホテルのスウィートルームのような雰囲気があり、応接用のソファやダイニングテーブル、さらに奥には寝室とバスルームまで備えられているようだった。

 淡いブルーの壁紙が使われた優雅なヨーロピアンスタイルの部屋の中で、いつも持ち歩いているパソコンに向かっていた鷲塚は、零の姿を見つめると少し驚いたように双眸を瞠った。

「零──おまえ、そのドレスは……」

 鷲塚の唇から、呟くような低い声がこぼれる。

 何か間違いをしでかしてしまっただろうかと不安になった零は、にこにこと笑っている都筑の顔を見上げた後、困惑したように首を傾げた。

「……これ、着てきちゃいけなかった?
 『コロッセウム』はとても高級なレストランだって、新堂さんから聞いたから」

「いいえ、大変よくお似合いですよ──わたくしも、まるで天使か天女に巡り会ったような幸せな気分ですから。
 他のお客様が見たら、きっと目の色が変わってしまうでしょうね」

 珍しく言葉に詰まっている様子の鷲塚を面白そうに見つめ、都筑が微笑みながら言った。

 気を取り直した鷲塚は、じろりと総支配人に鋭い視線を向けると、小さくため息をついた。

「零──この『コロッセウム』が気に入ったら、これから先、おまえの好きに使っていい。
 地上部の施設はいつでも使えるし、特に予約を入れる必要もない。
 ただし、ここを利用する時は、必ずこの都筑に連絡してからにしろ。
 それから間違っても、見知らぬ他の客と喋ったり、のこのこ付いて行ったりするなよ」

 警告するような厳しい口調で言われ、零は訳も分からずにただうなずいていた。

 それを見た都筑がくすりと笑うと、鷲塚は鋼の双眸で『コロッセウム』の総支配人を見やった。

「零の事は全ておまえに任せるが、ここに出入りする連中からは可能な限り遠ざけておけ。
 特に、頻繁に地下を利用しているようなヤツには、絶対に零を近づかせるな。
 それでも接触を図ろうとするヤツがいたら、その客をチェックして、退会させても構わない」

「判りました、そのように取り計らいます。
 ──では、私はこれで失礼させていただきます」

 手本にしたいほど見事な一礼をした都筑は、そのまま退室していった。

 都筑の姿をぼんやりと見送っていた零は、静かに扉が閉まった時、不意に鷲塚に名前を呼ばれた。

 心臓が驚いたように高鳴り、はっとデスクの方を振り返った零は、立ち上がった鷲塚が差し招くように手を伸ばしている姿に気が付いた。

(──何でだろう……何故か、凄く緊張しちゃうな……)

 心臓がうるさいほどにドキドキと速まり、零は自分の鼓動が聞こえてしまうのではないかと思い、恥ずかしくなった。

 鷲塚の顔を見上げることができず、わずかにうつむき加減でデスクに歩み寄った零は、次の瞬間、息が止まるほどに強く抱きすくめられていた。

 力を込めれば折れそうなほど華奢な身体を、強靱な腕の中に閉じこめてしまった鷲塚は、片手の指で細い顎をつかみ、恥じらうように顔を伏せた繊細な美貌を仰向かせた。

 強引な仕草に驚き、大きく瞠られた淡いセピア色の瞳を、鷲塚はじっと見下ろした。

 その美しい瞳の奥にどんな感情が浮かんでいるか、迷いは無いか、全てを見透かそうとするように──。

 硬質な輝きを帯びる鋼の双眸を見つめ返していた零は、不意に、闘うために造られてるような肉体を抱き締め、間近にある秀麗で精悍な顔を引き寄せて口づけたいと思った。

 鷲塚が常に零の心を確かめずにはいられないというのなら、何度でもキスを交わして、自分の気持ちを伝えたい──こんなにも愛しているのだと……。

 魂の奥から限りない愛情が溢れ出すと、セピア色の双眸にゆっくりと紅が混ざり、曙光に彩られた東天のような色味に変わった。

 夜の闇に光が射し込み、世界が朝を迎える──そんな神秘と喜びに満ちた瞬間。

 暁を封じ込めたような瞳がゆっくりと閉ざされ、柔らかな唇から甘いため息が落ちると、鷲塚は誘惑されるがまま唇を重ね合わせていた。

「──零、左手を出してみろ」

 深いキスの余韻に震え、身体から力が抜けてしまった零を膝の上に抱き上げ、鷲塚は大きな革張りの椅子に座っていたが、ふと思い出したようにそう言った。

 子供のように抱かれている事を気恥ずかしく思いながらも、零は鷲塚に身体を預けてしまっていたが、言われるがまま手を差し出していた。

 デスクの上に片手を伸ばした鷲塚は、深青色のビロードと同色のスウェードで作られた宝石箱の蓋を開けた。

 零を抱き抱えたまま、鷲塚は左手で零の手首をつかみ、右手で驚嘆するほど華麗で大きな指輪を零の左手薬指にはめた。

「──えっ? ……海琉、これ──」

 中央にはティアードロップのような形をしたペアシェイプの巨大なダイヤモンド、その両サイドには淡いピンクダイヤモンドと、セピア調のイエローダイヤモンドが波うつような形で交互に配置され、さらにパヴェダイヤがプラチナ台を覆うようにびっしりと並んでいる。

 ずっしりと重いその指輪は、薬指の第一関節に届くほど大きく、目を奪われるような存在感があった。

 ジュエリーというよりは、1個の芸術作品のようでもあり、眩いばかりに絢爛と輝く宝石を、零は瞬きもできずに見下ろしていた。

「──気に入ったか? おまえの写真を送って、イメージに合わせて作らせた。
 タイトルは<天恵>だそうだがな。
 横から見ると、ダイヤが天使の翼に見えるらしいぞ」

 説明しながら、指輪の嵌まった薬指をつくづくと眺めていた鷲塚は、さらに同じテーマで作られているイヤリングを零の耳に付けた。

「でも……私、海琉に指輪、もう貰ったもの。
 それに、こんなに凄い宝石──私…貰えないよ。
 だって、私には勿体ないし……無くしちゃうんじゃないかって……怖いから──」

 右手にはまっている清楚な雰囲気の指輪に比べ、左手の指輪はあまりにも純粋で崇高なまでの光輝を放ち、神々しい威厳すら漂っている。

 その宝石の圧倒的な光の奔流に、零は気後れを感じてしまった。

「おまえが気に入らなくても、これはもうおまえの物だぞ。
 世界に一つだけの、オーダージュエリーだからな。
 ついでに、おまえだけしか似合わないと、宝石屋が威張りくさって断言していた。
 もっとも……他人を寄せ付けないようなモノにしろと注文したのは、俺だがな」

 零の左手の薬指を指先で何度もなぞりながら、鷲塚は面白がるように低く笑い出した。