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TearyDoll


3



 ドアの開いた洗面所をのぞくと、背中の半ばまで届く髪にブラシをかけていた咲妃が、怪訝そうな顔で零を見返した。

 淡い亜麻色で、柔らかな癖が微かにある零の髪とは違い、咲妃の髪は黒く、完全なストレートだった。

 背は165pほどで、零よりは低いが、15歳の少女にしては長身の部類に入る。

 後頭部にバレッタを止めた咲妃は、鏡で後ろ姿を確認すると、廊下に立ちつくしている兄に問いかけた。

「──何、お兄ちゃん?」

「予備校に遅れるんじゃないかって、お母さんが心配してたから……。
 急がなくて大丈夫?」

「もう出るわよ。
 のんびりできるお兄ちゃんとは違って、あたしは時間が無いんだから、邪魔しないで」

 強い口調でそう言われてしまい、零は突き放されたような気分を味わった。

「……ごめんね」

 ぽつんと謝って零が踵を返そうとすると、咲妃がその背中を呼び止めた。

「ねえ、お兄ちゃん──あたしって、少しは綺麗になれた?」

 咲妃の突然の言葉に驚いた零は、しかし妹の顔が真剣であることに気づくと、安心させるように微笑みながらうなずいた。

「うん──少し見ない間に、咲妃は綺麗になったね。
 本当にびっくりした」

 何か深い想いを秘めた眼差しをしていた咲妃は、その言葉に照れたようにうつむくと、すぐに怒ったように唇を尖らせて、そっぽ向いた。

「──そんな事言ってくれるの、お兄ちゃんだけなんだから……」

 不安に揺れる瞳で鏡を見つめた咲妃は、思い切ったように零に微笑みかけ、そしてその脇を足早に通り過ぎていった。

「ありがと、お兄ちゃん──ちょっと、勇気が出たよ」

 すれ違い様にそう言い、咲妃はリビングに置いてあった鞄を取って玄関に向かうと、両親にも聞こえるように大きな声で叫んだ。

「いってきまーす。今日はちょっと遅くなるからね!」

 廊下で咲妃を見送っていた零は、引き戸になっている玄関が閉まると、ほっと小さくため息をついた。

 母親の言葉ではないが──思春期の少女というのは扱いが難しい。

 傷つきやすい繊細な心を、精一杯の強がりで隠しているようにも見えてしまう。

 自分の弱みを見せまいとして、だから冷たく聞こえてしまうような口調になるのだろうか。

 咲妃の言葉に不可解なものを感じた零は、父と母の待っているテーブルに戻ると、ビールの注がれたグラスを栄一郎から受け取った。

「難しい顔をして……咲妃に何か言われたの、零?」

 じっと白い泡を見つめていた零に、美弥子が声をかけた。

「そうじゃないんだけど──咲妃が何か悩んでるようにも見えたからね」

「今度のクラス分けテストのことかしら?
 あんまり無理しなくてもいいって言ってるんだけど……そう言うと、怒るのよ、あの子ったら」

「おまえは『できない』って言われてる気分なんじゃないのか?」

 食事をしながら悩み相談をしている両親を見つめていた零は、妹と交わした数少ない言葉を思い返し、唐突なほど突然に思い至った。

(もしかして──誰かに恋をしてるのかな)

 そう考えてみると、咲妃が自分の容姿を気にしていることにも納得がゆく。

 少女が誰かに恋心を抱いたなら、一番綺麗な自分をその人に見てもらいたいと思うものなのかもしれない。

(咲妃が恋か……もう高校生なんだから、そのぐらい当たり前なんだろうな)

 零自身は高校時代に恋愛経験をしなかったため、それがひどく新鮮に感じられた。
 しかし一方で、成長し、大人になってゆく咲妃を見ているのが、何故か切なくも感じられる。

(咲妃は──自分の足で…自分の人生を歩き始めてるんだ)

 いつも守ってやらなければと思っていた幼い妹は、もう傍にはいない。

 それが寂しく思え、零が小さくため息をついた時、不意に美弥子が話しかけてきた。

「ねえ……零──ずっと聞きたいと思っていたんだけど……」

 躊躇いがちな母親の声に、ふっと顔を上げた零は、両親が真摯な眼差しで自分を見つめている事に気づいた。

 問いかけるように首を傾げると、両親は一度顔を見合わせ、心配そうに零の顔を見つめた。

「あのね──鷲塚さんって、どなた?」

 思ってもいなかった名前を聞き、衝撃を受けた零はセピアの瞳をはっと見開いた。

「──この間、零が電話口から突然いなくなった時……その後でね、鷲塚さんって方から家に電話がかかってきたの。
 『零に何かありましたか?』って。
 落ち着いた声だったけど……零ちゃんの事を心配してるみたいだったし、お母さんもパニックになってたから──誰なのかよくも知らないくせに、いろいろ話しちゃったんだけど……。
 零ちゃんが帰って来る前にも、『明日、帰らせます』ってお電話をいただいたし。
 あなたのお友達というには、もっと年の離れた大人の男性の声だったから、お母さんも後になって不思議に思っていたの──誰なんだろうって」

 中学になった頃から、決して『零ちゃん』と呼ばなくなった母親が、動揺しているせいかその言葉を口にする。

 そんな美弥子の様子を見やった栄一郎は、零を見返して、穏やかな声で言葉を継いだ。

「零がお世話になっている方なら、きちんとお礼を言わなければならないと、お母さんと話し合っていたんだ。
 おまえには家の事で相当の負担をかけてしまったし、それに関わるトラブルに巻き込まれたんだったら──お父さんは、おまえに何と詫びてよいのか判らない」

 母親以上に、父親の表情は沈痛に見え、零はふと微かな疑惑を抱いた。

 栄一郎もまた会社経営に携わっている人間なのだから、もしかすると、確信はないにしても、鷲塚の正体を薄々は感じているのかもしれない。

 確かに、最初は実家の負債を理由におびき寄せられ、鷲塚の罠に陥れられた。

 マンションの一室に監禁され、力のままに陵辱され……絶望の中で何度「誰か助けて」と悲鳴を上げたことだろう。

 だが──鷲塚に惹かれ、深く愛してしまった今は、その腕に抱き締められ、誰よりも傍にいたいと願ってしまう。

 鷲塚の事を話すチャンスがようやく巡ってきたものの、どう話してよいのか思い悩んでしまった零は、両親が黙って自分を見守ってくれていることに気づいた。

(──最初の出会いを……話す必要なんて無いのかもしれない)

 零は伏せていた睫毛を上げると、栄一郎にも美弥子にも全く似ていないセピアの瞳で、誰よりも信頼している養父母を見つめた。

「彼は……鷲塚海琉は──僕の…私のとても大切な人なんです。
 彼も──私の事を大切にしてくれています。
 東京で出会って、いろいろな事があって、それでも私は……彼の事を愛しています。
 驚かせちゃって、本当にごめんなさい。
 でも……誰から強制されたわけでもなく、私の心が間違いなく彼を選んだんです。
 そのことはどうか──信じてください」

 改まった口調で淡々と話しているうちに、鷲塚の精悍で秀麗な顔を思い出し、胸の内に愛おしさが込み上げる。

 セピアの瞳に涙が盛り上がり、すうっと頬を流れ落ちた雫を驚いて見つめていた両親は、互いに顔を見合わせると、どちらからともなくため息をついた。

「零ちゃん──鷲塚さんは、あなたの身体の事を知っていらっしゃるの?」

 それが何よりも気がかりだというように美弥子が問いかけると、零は迷うことなくこくりとうなずいていた。

「知ってます──何もかも全て……。
 それでも私の事を好きでいてくれるから、私も傍にいたいって思ってます」