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TearyDoll


31



 感情の起伏が感じられない淡々とした鷲塚の説明を聞いているうちに、零の胸は不意に締めつけられるように苦しくなった。

 食事が喉を通らなくなり、零はテーブルの下で両手を重ね合わせ、ぎゅっと強く握りしめた。

 鷲塚の言葉の裏には確信めいた危機感が横たわっていて、それが悲観的な予測ではないことが、零を恐怖に突き落とすのだ。

(──また……誘拐されて、離れ離れになってしまったら──それよりも怖い事が起こってしまったら、私はどうすればいい?)

 平凡な日常ではありえないような事態が、鷲塚と暮らしていれば起こってしまうのだろう。

 だが、たとえそうでも、傍にいたいという想いは変わらない。
 ただ、不条理にお互いが引き裂かれてしまうことだけが恐ろしい。

 その時、隣に座っていた薫の手が伸びてきて、零の手をそっと握りしめた。

 はっと顔を上げると、明るく微笑みながら、薫は零の手を軽く叩いた。

「大丈夫よ、零ちゃん──まだ起こってもいない事を怖がっていたら、疲れちゃうだけ。
 全て海琉に任せておけばいいわ。
 海琉は、何があってもあなたを守るはずだから、安心して大丈夫よ」

 薫の言葉が嬉しく思え、零のセピアの双眸にじわりと安堵の涙が広がった。

 それを見返した薫は、首を傾げ、悩ましげにため息をついた。

「ホント、零ちゃんってば可愛いんだから。
 海琉には勿体ないわねえ──あたしが男だったら、お嫁に来てもらいたいぐらいだわ」

 呟くような薫の言葉に反応し、思わずうなずきかけた男三人は、鷲塚の冷厳な眼差しに気づくと慌てて表情を改めた。

 高宮はその様子を見やり、思わず視線だけで宙を仰ぐ。

 これから先の未来を憂えるような表情が、その瞳の奥にはありありと浮かんでいたが、それに気づく者は誰一人としていなかった。

 満足そうな笑みを唇に刻んでワイングラスを揺らしている古谷に、鷲塚は冷徹に光る鋼色の視線を向けた。

「古谷──例の書類は?」

「忘れずに持ってきたぜ、零ちゃんにサインをもらうもの一式。
 婚姻届が無いのが少々寂しいが、これはまあ、後々ってことで。
 まずはこれだな、零ちゃん名義のクレジットカード……どうせ鷲塚の口座から引き落としになるんだから、お好きなようにお使いください、お姫様。
 ただまあ、この間のドレスとか、その指輪みたいに高額な買い物をする時は、ちょろっと知らせておいてくれると、俺の心臓が飛び上がらないで済むな」

 苦笑いする古谷の口調に不審なものを感じ、零は首を傾げて、思わず問い返していた。

「──ドレス?」

「ああ、『ラ・ルーナ』ってブティックで、べらぼうに高いドレスを買っただろう?
 あれの請求書の金額を見た時、さすがの俺も、目が点になったぜ。
 たかがドレス一着に、どうしてあんなとんでもない値段がつくんだか──。
 一桁間違ってるんじゃねえかと思って、思わず数え直しちまった。
 なあ、零ちゃん──もしおまえさんがその二つの指輪とドレス二着持って逃げ出しても、しばらく食うには困らないぜ、きっと」

「古谷、零には黙っていろと言ったはずだがな」

 双眸を険しく眇めた鷲塚を見返し、古谷は皮肉っぽく片唇をつり上げた。

「だから、値段は喋ってないぜ──本当は、教えたくてウズウズしてるんだがね。
 しかしよ、鷲塚、おまえがオンナに貢ぐ系の男だったとは、正直、俺も驚きだ」

「うーん、でも古谷さん──私も好きな女性ができたら、きっと貢いでしまいますよ。
 いつまでも綺麗で、可愛くいてほしいと思うのが、男心ってものでしょう。
 別に金品を相手から貢いで欲しいとも思わないし──あ、身体は全然別ですけどね」

 古谷の言葉を聞いた東山が、にこにこと笑いながら応じると、薫がにんまりと唇をつり上げた。

「貢いでやるから、あ〜んな事や、こ〜んな事をしてほしいって?
 そんな事言ってるわりには、ころころ相手が変わってるって評判よ、東山さん。
 新堂君もさ、早くいい彼女見つけておかないと、これから先シンドイわよ〜。
 零ちゃんの傍にず〜っといるんだもの、欲求不満が爆発しないように、気をつけないとね」

「か、薫さん! 変な事、言い出さないでください──零さんが驚いちゃうじゃないですか。
 ご心配なく、俺はオンナには全然、不自由していませんから。
 貢いでくれる彼女たちは、昔から、もうぞろぞろと……」

 誰に対して弁解をしているのか判らなくなりながら、新堂は焦ったように喋り続けた。

 忠誠を誓っている鷲塚に冷たく睨まれているような気分になったところで、古谷が声を立てて笑いながら言った。

「新堂──オンナにモテるのはいいけどよ、ビョーキ、うつされんじゃねぇぞ。
 そしたら、即刻、お役ご免になっちまうぜ」 

「古谷さん……零さんの前で、何て事を言うんですか!」

「でも、性病に罹った人間が、零ちゃんの傍にいるなんて許されませんよね。
 大丈夫だよ、新堂君──その時は、私が責任持って、代わってあげるから」

 東山がさらに加わり、その場は途端に賑やかになった。

 楽しそうに喋っている四人の様子を眺めながら、零は微笑みを浮かべていたが、古谷から受け取った書類に鷲塚が目を通しているのを見て、ふと不思議に思って問いかけた。

「海琉……私のサインが必要ってどういうこと?」

 鋼色の双眸を零に向けた鷲塚は、大したことではないと言うように、軽く肩をすくめた。

「これは今住んでいるマンションの権利書だが、名義をおまえに書き直させるつもりだ。
 後は、俺が死んだ後、おまえに遺せる合法的なモノ──受け取り人の名義変更が必要になるからな」

 その瞬間、零の心臓がドクン……と大きな音を立てた。

「海琉が……死ぬ──?」

 知らず声が震えだし、零はセピアの瞳を見開いたまま、秀麗な鷲塚の顔を見つめ続けた。

「心配するな、そう簡単には死んでやるつもりもない。
 北聖会の御山は、いつも俺の命をつけ狙ってきたが、いまだに成功していないからな。
 ──だが、万が一ということもある……これは、その時のためのものだ」

 鷲塚は愕然としている零を見返して小さく苦笑を浮かべたが、しかし最後の言葉の所でふっと瞳を逸らした。

「零さん、北聖会の御山会長は、荒神会と事を起こすことができないと承知しています。
 若頭の命を狙うような荒っぽい真似は、今の北聖会はできないでしょう」

 青ざめた零の美貌を見つめ、高宮が鷲塚の言葉をフォローするように告げた。

 しかし高宮は、それが絶対であるとは言い切れない事も十分に理解していた。

 所詮は法の枠を越えた黒社会の理屈──予測不可能な突発事態が生じる可能性はいつでもあるのだ。

 だからこそ警戒を怠ることはできないのだが、零が鷲塚の傍で暮らすのなら、全てが今まで通りというわけにはいかなかった。

 狙われる隙が多くなるだろうと高宮は憂慮していたが、やはり鷲塚の最大の弱点となるのは零自身──もともとヤクザなどと関わりを持たず、平凡な家庭で育ってきた零は、非常に狙われやすい立場であり、本人もまた危機感は薄いだろう。

「……でも、海琉は……命を狙われているんだ──」

 ぽつりと零は小さく呟いた。

揺れる心を自制することもできず、零の気持ちは、嵐に巻き込まれた木の葉のように翻弄されてしまう。

 目尻から涙が溢れ出しそうになるのを堪えることができなくなり、零は慌てて椅子から立ち上がっていた。

「ごめんなさい……ちょっと、失礼します──」

 嗚咽が漏れないように片手で唇を塞ぎながら、零は辛うじて断りを入れた。

 身を翻すように部屋から飛び出した零は、背後から自分の名前を呼ぶ鷲塚の声を、虚ろに霞む頭でぼんやりと聞いていた。

(……私──海琉を失う事なんて……全然、考えた事無かった……)

 鷲塚海琉という人物は、誰にも負ける事がない強い男に見えるし、実際に非常に大きな力を有しているのだろう。

 零が戦いを挑んでも絶対に勝つことなどできない──だからこそ、守られているのだという安心感は大きなものだった。

 だが、その大きな庇護の翼は、いつの日か失われてしまうのだろうか──。

 想像をしただけで、零の全身は恐怖と不安で震え出しそうだった。

 ところが、人目から隠れて泣けるような場所を探していた零は、いつしか、人々の密やかな話し声が聞こえてくる場所へと迷い込んでしまった。

 どうやら、そこは最上階のラウンジであるらしい。

 華やかに装った人々が優雅にグラスを傾ける姿に驚愕した零は、宇宙を思わせる薄暗い空間の中で、ぽつんと立ちつくしてしまった。

 そんな零に、ラウンジのソファで歓談している客が、好奇に満ち、品定めするような不躾な視線を送ってくる。

 冷たい戦慄が背筋を走り抜け、零は元の場所に戻ろうと思い、急いで踵を返した。

 ──と、その時。

 振り返りざま二人連れの客に危うくぶつかりそうになり、慣れないハイヒールで立っていたせいもあって、零はよろめいて床に倒れそうになった。

 咄嗟に差し伸べられた腕にしがみつき、何とか体勢を保った零は、微笑を湛えて見下ろしてくる壮年の紳士を見上げ、慌てて身体を離していた。

「ごめんなさい……私、気が動転していて──」

「まるで怯えた子鹿のようだな──恐い狼に追いかけられていたんだろう?」

 かあっと頬に朱を走らせて謝った零の顔を、その男はくすくすと笑いながら覗き込んだ。